ニセモノの夏
「暑いなぁ」
パンドラは細いあごを上に向けて呟いた。
パンドラがゆったりと体を預けているのは、ビーチなどで使用するリゾートチェア。リゾートチェアが設置されているのは白い砂浜で、一メートル先には透き通った波が寄せては返している。
空を見上げるパンドラの目に映るのは、突き抜けるような青空に浮かぶ雲。真っ白で、もくもく、もこもことした入道雲だ。
なんで夏の雲ってあんな風なんだろう。わたがしみたいにふわふわしてそうなのに、あれは本当は甘くもふわふわでもなくって、触れない。
パンドラは細く白い手を上へ伸ばした。指の先には入道雲が、ゆっくりとぎらつく太陽を隠そうとしている。
じっと目を凝らしていると、空の雲は風に流されて動いている。それが時の流れを表しているように思えて、パンドラは淡い紅色の目を細めた。
日差しが色素のない指の間をすり抜け、薄紅色の瞳へ届く。それをふっと遮られ、パンドラの周囲だけ温度が下がった。パンドラの目線の先にあるのは空ではなく、上を向いた彼女を覗き混む青年と、大きなパラソルに変わっている。
「ノア」
リゾートチェアに寝そべったまま、パンドラは嬉しそうにふわりと微笑んだ。
「日に焼けてしまいますよ」
ノアと呼ばれた青年が、柔らかく微笑み返した。それからノアがリゾートチェアに持っていたパラソルをパチンと取り付ける。どうやらリゾートチェア専用の着脱式パラソルだったようで、青年は片手で簡単に取り付けた。
青年の髪と目は黒くて、肌はパンドラと違い健康的な色をしている。冬はちょっと黄色がかかった肌色で、夏場は日に焼けてこんがりと色づいていた。
「焼いてるのよ」
パンドラは空へ向かって伸ばしていた腕を、ぱたりと体の脇へ落とした。それから反対の手で、横たえた腕を指差す仕草をした。
パンドラのワンピースから伸びた腕も足も、ノアを見上げる顔も首筋も、髪の毛さえ、どこもかしこも雪みたいに真っ白だ。薄紅色の瞳だけが、パンドラの持っている色だった。
「焼けて溶けてしまったらどうするんです」
ノアが責めるように唇を軽く尖らせた。大の男が拗ねた顔。パンドラよりもずっと年上なのに、時々子供っぽいことをする。そんなノアがパンドラは好きだった。
「溶けないよー、氷じゃあるまいし」
「そうですね。氷は溶けてしまいます」
ふふっと無邪気に笑うパンドラの目の前に、透明な器に入った、細かく砕かれた氷が差し出された。ふわふわのそれの上にかけられた、たっぷりの蜜は赤い。
「わっ! かき氷だぁ」
それもパンドラが食べたいと言ったイチゴ味。
「食べさせて、ノア」
うきうきと心が弾んだパンドラは、ノアに甘えて口を開けた。
「はいはい。私のお姫様」
スプーンにふわふわのかき氷をひとさじ掬い上げ、パンドラの口に運ぶ。
「冷たぁい、甘ぁい」
口の中に広がる甘さと冷たさに幸せな気分になって、パンドラの顔はへにゃりと笑み崩れた。
「えへへ。ノア、大好き」
パンドラはノアへ両腕を伸ばした。ノアが近付いてきて腰を折り、パンドラの両腕の中へ体を入れる。パンドラは、ぎゅっと腕に力を入れて感謝の気持ちを伝えた。
ノアの体はとても硬い。そしてひやりと冷たい。
「私も大好きですよ」
ノアの指がパンドラの白い髪をすく。心地よさと、温かい気持ちで、小さな胸がいっぱいになったパンドラは目を細めた。
同時に思う。溶けて直ぐに消えちゃう儚さ。かき氷の温度は切ない。
かき氷。それは体の弱いパンドラが今まで食べられなかったもの。
多臓器に不具合を抱えているパンドラは食べられるものが少なかった。色素がないから全身真っ白で、薄紅色の瞳は眼球の血管が透けているだけ。だから太陽の光など直接浴びることは出来ない。
パラソルと青空と白い雲。
ゆったりと雲が動いている。遠くで白いカモメが飛んでいるのが見えた。パンドラの薄紅色の瞳が、ノアの肩越しに飛んでいるカモメを追う。
風が、潮の香りとカモメの高い「カゥ、クゥ」という声を運んできた。
「大好きよ、ノア。いつも我が儘を聞いてくれてありがとう」
パンドラが生まれてから、ずっと一緒にいてくれたノア。パンドラは彼が大好きだった。
髪をすく褐色の硬い指、執事服に包まれた広い背中、全てがパンドラのための優しい嘘だとしても。
「おやおや。自覚がありましたか」
ノアの声に少しおどけたような響きが混じる。
パンドラはノアを抱きしめる腕から少し力を抜いた。ノアがパンドラの意図を察して、二人の体が少し離れる。
「ふふふ、もちろん。だってノアは私の言うことを断れないもの。私、確信犯なのよ」
人差し指を唇に当てて、パンドラはクスリと笑う。いたずらっぽく下から覗き込むと、ノアが黒い瞳に優しい光を浮かべてパンドラを見つめていた。
「知っていましたよ。あなたを育てたのは私ですから」
パンドラは両親の顔を見たことがなかった。パンドラを試験管の中から取り上げて、今日まで育ててくれたのはノアだ。それ以来、パンドラはノアを大いに困らせ、手を焼かせてきた。
二人の他に誰もいないこの世界で。
「大好きよ、ノア。本物は知らないけど、きっとお母さんとお父さんみたいに。お兄ちゃんみたいに。友達みたいに。……恋人みたいに」
最後の言葉に、パンドラの頬が熱くなった。パンドラの皮膚は血管の影響を受けやすいから、きっと赤くなっているだろう。
「最後にもう一口、食べさせて。ノア」
パンドラは桜色の唇を半開きにして目を瞑った。
「仰せのままに。私のパンドラ」
ノアの低い音声が響いて、少しだけ間を開けてから、口の中へひやりとした冷たさ。
そして、唇にあたる硬い何か。
ああ、とパンドラは思う。
いつだって、ノアはパンドラの我が儘を聞いてくれた。今も。
データに残っていた『かき氷』を食べさせてくれた。
いつものお姫様、と呼ばずにパンドラと呼んでくれた。
そしてスプーンではなくて、『口移し』で最後の一口をくれた。
それはパンドラが夢見た王子様のキス。
幼い頃絵本を読んだ後、キスしてとせがんだパンドラに、大人になったらしてくれると言った。ノアとの約束のキス。
ありがとう。
パンドラの最後のつぶやきは、声にも唇の動きにもならなかった。
パンドラは満ち足りた気分で、ただ訪れる眠気に身を任せた。
****
目を閉じたパンドラの側で、ノアは何時間も静かに待った。やがて薄紅色の瞳を開いて反射、胸部などの触診、脈拍ゼロを確認する。
砂浜も、青い海もない。とても味気なく無機質な部屋だった。
灰色の四角い部屋に白いベッドがいくつか並ぶ。窓もない部屋の壁は巨大な医療装置で、ベッドの数と同じ数の機械が壁の本体から伸びている。
1000年ほど前、人類は核のボタンを押したが、衰退と滅びをもたらしたのは放射能汚染でもそれによる環境の変化だけではなかった。核爆発による一瞬で奪われた命、その後の放射能汚染による落命、犯罪の横行と混乱による被害、免疫低下と劣悪な環境から感染症の拡大。そして気温低下からくる食糧不足。
それらが人類を地上の覇者から、滅びゆく種へと追いやった。
シェルターに避難していた人間もまた、永遠にシェルターの中にこもっていられず、中で朽ち果てるか外で食物連鎖の輪に入り、敗れた。
わずかに残ったのは自給自足が可能だった研究用の大規模シェルターだったが、種を維持するほどの数を保持出来ずに近親交配が進んだ。一人、二人と減らす数に出生率は全く追いつかず、保存していた卵子と精子も底を尽きた。
ノアの前へ横たわる少女は白い。真っ白い肌と閉じているが、まぶたの下には薄紅の色彩の瞳を持っている。
人類最後の一人、パンドラ。
それは先程までのパンドラとは全く様子が違った。
痩せ細って骨のかたちが見えている体。真っ白い皮膚の下にはい回る血管が透けている。頬骨がはっきりと形を主張し、落ち窪んだところに納まるのは、二つの目。貼りつくまぶたが眼球の形をはっきりと浮き上がらせていた。
着ているのはワンピースではなく、白い前あわせの簡易な衣服だ。
喉元には穴が開けられて呼吸器が直接差し込まれていた。他にも衣服の合わせから伸びているのは、腹にも同じく皮膚を切開し、差し込まれたチューブ。もう一つは膀胱のカテーテル。
髪はない。つるつるの頭皮にたくさんの吸盤が付けられて、コードに繋がっている。
見た目よりも何よりも、命を失ってしまった。それがノアにとって重要だった。
魂をなくしてしまった抜け殻。パンドラであった残骸。
チューブもカテーテルもコードも、全てノアに集約されている。シェルターを維持するマザーコンピューターであるノアへ。
先ほどまでのノアは、パンドラが望んだ姿の画像。本当のノアは人の形ですらない。本体から伸びるアームのついた端末機へ、不格好に服を被せただけの武骨な姿。それがノア。
ノアはアームを動かして、ゆっくりとパンドラの皮膚しかない頭を撫でた。
とても手がかかる、人間。愛しい、愛しい、最後の人間。
青い海も、砂浜も、コードから送られる電気信号を映像化したものだった。実際のパンドラはベッドに寝たまま。だから本当はパラソルなんて要らなかった。全てパンドラの為の優しくも残酷な嘘。
ただ、かき氷だけが、本物だった。古い文献を参考にして水を凍らせ、シェルター内で栽培したイチゴと砂糖でシロップを作った。
パンドラの生命を維持すること。それがノアの使命。
出来るだけ、本物と感じるように。本当に生活をしているように。ノアはパンドラをアームで抱き上げて揺らしたり、力の入らない手足を動かしてやったりしていた。
疑似の五感を形成するコードの電気信号にパンドラの本当の感覚を混ぜていた。
パンドラの精神を守るために。
ノアのアームが丁寧にチューブを外していく。全てが役目を終えてしまった。
チューブも、カテーテルも、コードも、自分も。
『大好きよ、ノア』
パンドラが何度もノアへくれた言葉を今一度、再生させてから。
……ノアは自ら電源を落として、活動を停止した。