お江戸のヒーロー・町火消
江戸の町は男性の割合がおおく、喧嘩の発生率がたかかった。そのため町人たちは火事現場に命がけでいく町火消や、大きな体で力持ちの力士に憧れるものが多かった。
では、「町火消」とはどのようなものであったのだろう。
「町火消」は、火事が多い江戸の町であるが、1657年の明暦の大火ではおよそ十万人もの民が犠牲となった。そのため回向院という寺が建立されたほどである。
その反省から、翌年に日本橋や京橋など23の町の人足が集められて、町地の消防組織である「町火消」の仕組みがつくられた。
享保三(1718)年、徳川八代将軍吉宗の時代に南町奉行の大岡越前守忠相によって本格的な町火消組織が形成される。はじめは町の規模に合わせて、2~3人から4~5人の鳶人足を選び、享保十五(1730)年、町の地区別に「いろは48組」と、本所深川に16組をあわせ、64組の町火消が編成された。
ちなみに幕末の安政期(1854~60)の記録によると、町火消の総数は1万359人であったという。組織構成は上から、頭取、組頭、梯子持ちと纏持ちの二つが小頭格、鳶口を持つことが許された平人、俗に土手組という鳶人足(ただし、火消の人数にふくまない)。
いったん火事がおこれば町火消たちは自身番に集まって、消化道具を身につけ、誰よりも先に現場にかけつた。火消は組ごとに働きを競っていた。
町人地はせまい場所に木造の長屋がひしめきあっていて、一度火の手があがり、風がふけば、あっという間に町中が火の海になる。町火消たちは風の向きを計算しつつ、燃える家屋のそばの家を壊して、延焼を防いでいた。水不足の江戸時代は破壊消化が基本である。こうして町火消したちは火の勢いを止めていた。
町火消といえば「纏」が有名である。これは町火消の組の目印であり、火事がおこれば纏持ちは屋根の上にのぼって纏を振り続け、組の者たちを力づけた。纏は、長柄の先に「だし」というオブジェをつけている。いろは組のそれぞれの住む土地にゆかりのものをデザイン化したシンボルであり、他の組に「この場所は俺たちの組が食い止める」という目印でもあった。だしの下には「ばれん」という和紙でできた細長い紙の飾りが48本ついていた。
町火消の「頭」は、男の中の男と人気があった。町火消の頭、力士、与力は「江戸の三男」ともてはやされたものである。では、実際の「頭」はどうだったかと言うと、正式には「組頭」であり、「頭」は略称である。
頭の生活費はそれそれの町が支えたため、担当した町内の用事をおおくこなした。町費を多くもつ富裕の商人などからは、盆と暮れに心づけがあり、特に用事をこなした。花見の段取り、嫁入りの用事、御新造や娘の外出時には用心棒をつとめたという。
「火消」は江戸時代の消防組織の名称であり、大きく三つにわけられる。「町火消」のほかにも「定火消」、「大名火消」がある。
「定火消」は幕府直轄の火消であり、武家地の火消をした。明暦の大火の翌年、万治元(1658)年に設置され、三千石以上の裕福な旗本から選ばれる。当初は二組であったが、徐々に増え、最多のときは十五組もあったが、最後は十組におさまった。鉄砲組七組・弓組三組で構成される。
「大名火消」は、江戸城から幕府関係の建築物にかぎっての消防組織。当初は大名家それぞれが管理運営する火消であったが、寛永二十(1643)年、徳川三代将軍家光の時代に組織される。そののち一万石以上の大名から16組を選出し、それを4組ずつ編成したものであった。ただし、一万石ごとに足軽30人、二十万石以上でも騎馬は20騎までと決められている。
これは火事装束を着ていれば集団活動がゆるされるため、それを反乱の偽装として使われることを徳川幕府が恐れたためである。江戸中期の赤穂浪士が徒党を組むために火事装束になったのも、この決まりを応用したものだ。
また、江戸市中で唯一町火消にはいらない町に新吉原があり、こちらは独自の火消の組織があった。
火事の予防と早期発見のために、「火の見櫓」が江戸の町々に造られた。定火消の火消屋敷の屋根に高さ三丈(9メートルくらい)の櫓を建てて、最上部は四方が開けっ放しで、真ん中に大太鼓があり、一方に半鐘が吊るされて、火事発生に乱打して知らせた。
大名屋敷の火の見櫓も同じような造りであるが、最上部の開けっ放しは、江戸城方面は壁でふさぐ決まりである。
町方の火の見櫓は享保以降に10町ごとに造られ、外の囲いはなくて、中の梯子が見え、上に半鐘が吊るされている。それ以外の町には自身番の屋根に火の見梯子が設置され、半鐘が吊るされた。