まかせて安心・木戸番と番所
表店のある表長屋の間に路地があり、そこから裏長屋へはいるのだが、その路地の入口には「長屋木戸」というものがあった。
これは防犯のため暮六つ(日暮れどき)になると戸をはめこんで閉めて、早朝にあけた。開き戸ではなく、ほとんどが引き戸である。長屋の当番のものが、月番で錠をあずかって、戸の戸締りの仕事をした。
ほかにも一町区画ごとに一門ずつ「町木戸」というものが設置されていた。これはたいがい、自身番と木戸番小屋にはさまれた路地にある。
夜五ツ(午後八時)になると戸を閉める。だが、錠はかけずに夜四ツ(午後十時)に錠をかけたという。それ以降に通るためには「潜戸」を通らねばならない。その通る理由を「番太郎」に説明しないといけなかった。例外として医者と産婆は説明なしで通してくれた。
この仕事は木戸番小屋に住んでいた「番太郎」がおこなっていた。番太郎は定刻どおりに木戸を開け閉めする仕事をしていたが、ほかにも町内の夜警の仕事もしていた。
拍子木を打って、時刻も知らせたのである。ほかにも町内で捕物があれば、すぐに木戸をしめて犯人が逃げるのを食い止める役もあった。仕事の手当はその町内でまかなっていたが、少額のため、ほとんどが副業と兼ねていた。
木戸番小屋に草履・草鞋・鼻紙・箒・軟膏・ロウソクなどの日用品から子供向けの駄菓子を町の者に売っている。ほかにも夏には金魚売り、白玉売り、冬には焼き芋売りなどをして生計をたてていた。
そして、町木戸のもう一方にあるのは、「自身番」であるが、もともとは「自身番屋」といい、略して「番屋」とも称する。江戸の各町に設置され、市中の警戒をした。名前の由来は、自身番ができた当初は地主自身が番屋に交代で詰めていたからである。
時代が経つにつれ、家主(大家)や雇った番人、書役が詰めるようになっていく。各町内に不審な者が入り込んだら、捕まえて番屋に留置しておき、奉行所につたえた。自身番は容疑者の取り調べもおこなっていた。
ほかにも自身番には、人別帳の記入・整理といった事務の仕事もある。また、町同心が持ちよる差紙(奉行所への出頭命令書)を受けとり、家主から当人に手渡す役目もあった。自身番は町内の寄合場所としても使用されたようだ。
自身番は、木戸番と異なる大きな見た目の特徴として、屋根の上に「火の見梯子」を設置していることだろう。火事がおこれば屋上の火の見梯子にてっぺんに吊るされた「半鐘」打ち鳴らした。
それを合図に町内の火消人足が集合した。番屋には火消道具である纏・鳶口・竜吐水・玄蕃桶が用意されており、火消し人足はその道具類をつかって火事現場の消化活動をおこなった。
と、現代の交番・消防署・集会所などの役目をはたした自身番である。その障子はつねに開けておかねばならない規則だが、なかには障子を閉めきり、酒を飲み、将棋・碁に夢中になる者たちもいたようだ。
そして、町々にある自身番では埒が明かない、調べが取れない場合などは、「大番屋」に容疑者が送られた。大番屋は「調番屋」ともいい、江戸市中に7~8ヶ所に設置していた。
嫌疑者は町奉行の正式な入牢証文がでてから、伝馬町の牢屋敷に護送された。大番屋で有名なのは、神田材木町の三丁目と四丁目が共同で運営した「三四の番屋」と、八丁堀にちかい南茅場町の大番屋である。
町人の町にある「自身番」に対して、武家地ある番所を「辻番所」といった。略して「辻番」ともいい、各大名屋敷で設けた。辻番所はそもそも、江戸初期に多発した辻斬り事件の防止策のために、徳川幕府が寛永六(1629)年三月に武家地の辻各所番所をつくらせた。
辻番所の警備システムは、昼は2~4人、夜は6人の昼夜交替であり、辻番から往来を見張らせて、不審者を探させた。ほかにも、受け持ち地帯の巡回警備の仕事もある。江戸初期は大名武家がちょくせつ運営にあたったものだが、江戸中期を過ぎると町人が運営にあたった。そのため、辻番所の番人の高齢化がおきた。
町人たちは番所運営費用の減らすために、安い給料で働く高齢者を番人として雇われるようになったからだ。辻番の番人は内職もおこなうようになった。この辺は木戸番の番太郎と同じ流れである。また、番所で違法の博打がおこなわれ、男女が泊まり込むという風紀問題ももちあがった。
この自身番と辻番所には共通して捕物道具があり、「番所の三道具」といった。突棒・刺股・袖搦のことで、外にも寄棒・鉄棒・捕縄といった捕物道具がある。夜間にそなえて松明・提灯なども備えられていた。