長屋の食事はデリバリー
江戸時代の長屋の食事はどんな風であったのだろうか。
江戸時代は買い物カゴを持ってお店に食材を買いにいったわけではなく、色々な物売り、行商人が長屋に売りにきていた。
それらの商人は天秤棒を肩にかつぎ、棒の前後に桶やカゴをつけて、その中に商品をいれて売る事から、「振売」や「棒手振」と呼ばれていた。
たとえば、朝食にあう豆腐や納豆を売る棒手振は「とうーふぃ~、とーふぃ~」などと売り声を出して、朝食前の決まった時間に長屋に売りに来るので、ひじょうに便利であったようだ。
他にも野菜売り、魚売り、豆腐売り、油売り、花売り、ほうき売り、瀬戸物修理、薬売りなどさまざまな振売商人が長屋に移動販売でデリバリーしてくれたので、長屋のお上さんはほとんど町へ買い物に行かなくてもよかったという。
振売商人から買った食材で長屋の女房たちは食事をつくった。長屋の食事は一汁一菜が基本である。白米、みそ汁、たくあんなどの漬物に、根菜の煮物や魚の煮つけなどのオカズを揃えた。
薪などの燃料を節約するため、白米は朝に一日分を炊き上げ、昼と夕方は冷やご飯を食べていた。食後の茶碗にはお湯をそそぎ、ご飯粒をたくあんなどで洗いながら食べて片付けるのが長屋の作法であった。水不足の江戸では食器を毎回洗わず、食べながら綺麗にして、それぞれの御膳に食器を片づけていた。
またオカズが少ないために長屋の住人は白米を多くたべていた。成人男性だと、一日五合も食べていたという。
栄養学からみれば、白米を食べる割合が多く、他の食材が少ないと、献立としてビタミンB1が足りなくなり、「脚気」にかかる危険性がある。
事実、江戸時代は白米中心の食生活が原因による「脚気」が奇病として蔓延した。これにかかると、足がしびれ、最悪だと心不全を起こしてしまう。
江戸中期以降は屋台などの外食産業が発達し、外食で足りない栄養素を補っていたと考えられる。今でもお祭りのときにさまざまな屋台がでるが、江戸時代は移動式の屋台見世で長屋のそばや、職人の仕事場近くで店をだしました。天ぷら、寿司、そばの店などは、当時はファーストフードに近い感覚で売っていて、職人が仕事の合間にオニギリやサンドイッチの感覚で食べていたようです。
また、路上に台つきの板を置いて、その上に商品を並べて売る干見世という店も多くあった。おでん、あめ、食べやすく切ったスイカなどが売られていた。
江戸へは出稼ぎの農民や、参勤交代で殿さまについてきた武士など、家族を持たない男や単身赴任の男が大勢住んでいたため、気軽に外食できる屋台は重宝されて、流行っていたようである。