江戸の交通網 日本橋と五街道
江戸時代初期に、大名が一年おきに江戸と領国に暮らしわける、「参勤交代」が正式制度となった。そのため、江戸の日本橋を起点に、諸国へとつづく五街道が整備された。これで幕府の命令が地方へより早く届くようになる。これはまた、江戸の文化や情報知識を地方へ伝達されたのであった。
地方と江戸を結びつける主要な街道を「五街道」とよび、東海道、中山道、甲州道中(街道)、日光道中(街道)、奥州道中(街道)といって、江戸時代初期から整備がはじまった。
○東海道…江戸から太平洋にそって京都へ続く街道。幕府がもっとも重要と考えた。
○中山道…江戸から高崎(群馬県)、下諏訪(長野県)、草津(滋賀県)を通って東海道と合流して、京都へ到着する街道。
○甲州道中(街道)…当初は江戸と甲府(山梨県)をつなぐ道であったが、中山道の下諏訪(長野県)まで延長されて、五街道のひとつになった。もともと甲州街道は江戸が攻め込まれたとき、将軍が甲府へ逃れるために造られた街道。そのため、江戸城裏にある半蔵門と合流する。
○日光道中(街道)…江戸から日光(栃木県)へ続く街道。徳川家康を祀る神社・東照宮への参拝の道として整備された。
○奥州道中(街道)…江戸から白河(福島県)へ続く街道。宇都宮(栃木県)までは、日光道中と重なる街道。 五街道において、一番江戸にちかい宿駅(宿場)を「江戸四宿」といった。東海道は品川宿、中山道は板橋宿、甲州道中は内藤新宿、日光・奥州道中は千住宿である。
はじめ甲州道中の第一番目の宿駅は、日本橋から四里(約16km)の距離にある高井戸(杉並区)にあった。だが、道のりが遠くて不便であったので、1698年に日本橋から二里(約8km)の場所に新しく「新宿」という宿駅を設けた。
その後も他の街道にも宿駅が造られ、この宿駅を新宿と呼ばれた。まぎらわしいので、他と区別するために、「内藤新宿」と呼ぶようになった。なぜ内藤がつくかというと、宿駅の一部が高遠藩(長野藩)の内藤家下屋敷(新宿御苑)の敷地内にあったことからだ。
江戸を守るため、街道を出入りする人々は途中にある「関所」できびしく調べられた。俗に「入り鉄砲に、出女」といい、江戸へ鉄砲が持ち込まれるのを阻止し、江戸に人質として預けられている大名たちの妻子が江戸から逃れるのを阻止するのが、おもな目的であった。
街道には一里(約4km)おきに道標となる一里塚が設置され、8~12kmごとに宿駅(宿場)が造られた。各地の宿駅には、庶民が泊まる旅籠から、大名などが宿泊する本陣・脇本陣まであった。他にも人夫・馬・駕籠を常備している問屋場があった。
街道の発展につれて、武士だけでなく町人も旅がしやすくなっていった。江戸時代中期からは旅行が大ブームとなった。ただし、基本的に観光や遊びを理由とした旅は禁止されていた。そこで、寺社へお参りや、病気療養のため温泉へ行くことを名義として旅にでかけた。
庶民の一般的な旅のスタイルは、ズボン型の股引をはき、股引の裾を押さえ、脛を保護する脚絆で足を保護し、遠距離用の草鞋をはいた。手の甲をから肘には手甲で覆って肌を保護し、陽光や雨風を避けるため頭に菅笠をかぶった。
荷物は二つにわけて紐につなぎ、肩に前後にわけてかつぐ「ふりわけ荷物」で運んだ。町人は帯刀を許されなかったが、旅の間だけ護身用に「道中差」という短刀を腰に差すことが許された。
旅行が流行ると、道中記がたくさん発売・配布されるようになった。ほかにも安全な旅行を楽しむため、必要な荷物などを解説した「旅行用心集」の本も出版される。
江戸時代当時の旅は、基本的に徒歩移動であったため、数週間も日程がかかり、遠隔地だと数ヶ月もかかった。そのため、手荷物はできるだけ身軽にした。また、盗まれないように身につける必要があった。裕福な人は、荷物や土産物を次の宿場まで配送してもらう商売を利用した。




