日本史上最大の城・江戸城
現在、天皇陛下の暮らす皇居は、江戸時代を通して徳川将軍家が住み、政治をおこなった江戸城があった。徳川家は大名たちに命じて、日本史上における最大の城・江戸城を建設させた。
皇居の面積は約115万㎡だが、江戸城はもっと広く、城下町をいれた外殻(外濠の内側)までいれた面積は230万㎡もあったという。すなわち現在の千代田区と中央区は江戸城の敷地であったのである。
そもそも江戸とはどういう意味かというと、大河(江)の出入り口(戸)という意味であり、江戸はたくさんの入り江があり、海と川に面した土地であったのだ。歴史書には、平安時代の終わり頃の書物に記録されている。
武士が台頭してきた鎌倉時代のはじめ、江戸の領地を支配していたのは豪族の江戸氏であった。江戸氏は今の皇居のある地域に館を構えていたようである。
室町時代になると、関東は扇谷上杉氏の勢力が盛んになり、上杉氏の家臣である大田道灌は、江戸氏の館のあった地に城を築いた。ここで史上はじめて「江戸城」が登場する。
大田道灌は戦に強く、城造りの達人で、歌人の才もある人物だった。しかし、その才能と力をおそれた主君・上杉定正は道灌を殺害する。その後は江戸城を上杉氏が守っていた。
だが、新勢力である後北条の北条氏綱が上杉を倒し、江戸を支配下におさめた。
しかし、1590年、後北条の拠点である小田原に豊臣秀吉が戦をしかけて勝利。東海地方が領地だった徳川家康を、後北条の支配した関東に領地替えをする。
徳川家康は江戸を拠点とすることに決め、江戸城を改築することにした。手始めに濠をつくって、船につんだ荷物を江戸城までじかに運搬できるようにして、物資の搬入を便利にした。
江戸城建設は家康・秀忠・家光にまで引き継がれ、完成まで30年の月日がかかる。江戸城は内濠と外濠の巨大な二つの濠に守護されていた。内濠のなかに徳川家将軍が生活する本丸があり、それを中心に、二の丸・三の丸・西の丸・北の丸・吹上の6か所の区域が造られた。
この領域だけで大坂城すべてが入る広さがあった。内濠と外濠は「の」の字型の螺旋を描き、外濠のなかには大名や旗本の住む武家地、職人町、商人町などの城下町がつくられている。
江戸城の中心地は「江戸城本丸御殿」であり、これは将軍の暮らす住居であり、政務がおこなわれていた。本丸御殿は南北に伸びた建物であり、南の区域から「表」、「中奥」、「大奥」という。表と中奥はつながっていたが、中奥と大奥をつなぐ通路は「御鈴廊下」だけである。
「表」で、公式の政治がおこなわれ、重要な行事や儀式もとりおこなった場所だ。表で一番広くて大事な場所が「大広間」であり、大名などが将軍に謁見(面会)し、幕府の大事な政務や行事をおこなった。大広間のさらに奥には松の廊下を通って「白書院」があり、そこから竹の廊下を通って「黒書院」があった。こちらは大広間より小ぶりの部屋で、かんたんな謁見や小さな儀式をおこなう部屋である。
「中奥」は将軍が生活する居住空間であり、政務もおこなった。「御座の間」は役人や大名と面会する部屋。「御休息の間」で日常的な政務をこなした。この間は将軍を守るための特別な部屋であり、御側衆や御小姓などしか入室できない場所だ。
将軍の仕事は御側衆がサポートし、将軍の食事の用意や身の支度などは御小姓が世話をした。
ほかにも。将軍の食事をまかなう台所、御湯殿(お風呂)などがある。将軍は御湯殿では何もしなくてよく、御小姓が着替えから体を洗うことまでしていた。
御小姓の仕事はほかにも、朝の起床を御小姓がたしかめて、「もう」と言って皆の者に知らせる仕事、将軍が朝食中に髪を結う仕事、将軍が趣味の遊びでする囲碁将棋の相手や、中奥で就寝中の寝ずの番をする仕事があった。
「大奥」は将軍の正室である「御代所」と将軍の家族、世話をする奥女中が(おくじょちゅう)が暮らす部屋であった。表と中奥を足したほどの面積があり、最多時期には千人を超える女性が住んでいた。中奥と大奥の間は銅製の塀で仕切られて隔絶していた。将軍が通る場合は、鈴を鳴らした合図によってのみ扉が開くように決まっていた。将軍は中奥と多くをつなぐ唯一の御鈴廊下を通って行き来していたのである。
最後に「本丸天守」を紹介する。1607年に家康が江戸城の天守を建てた。その後も二代将軍の秀忠、三代将軍の家光によって二度も建て替えられた。しかし、1657年に発生した明暦の大火で天守は焼失してしまう。
四代将軍の家綱が天守台を築いて再興しようとしたが、大火で焦土となった江戸の町の復興を優先したため、新天守の建設計画は中止となり、天守の代わりとして「富士見櫓」が使われるようになった。富士見櫓はどの方角から見ても正面に見えることから、「八方正面の櫓」とも呼ばれている。