江戸はじめて物語
日本国の首都・東京は、昔は江戸といいました。江戸のはじまりは、戦国時代からはじまります。
1590年、豊臣秀吉はナンバー2の勢力をもつ徳川家康の領地を関東地方へ移動させた。領地を引っ越してきた家康が本拠地としたのが江戸城である。
政権をにぎった家康は1603年に幕府をひらき、江戸城の周囲に大規模な城下町を建設しはじめた。洪水をおこして悩ませた利根川も流れを変え、たくさんの水路を開発し、神田山(現代の千代田区神田駿河台付近)を切り崩し、豊島の洲崎(現代の日本橋・京橋・新橋あたり)を埋め立てた。そして、日本橋を要として東海道などの五街道の整備をおこなった。
こうして徳川将軍家のお膝元である江戸は発展し、18世紀にはヨーロッパの先進国イギリスを越えて、百万以上の人口数をほこる首都となった。もちろん当時は世界一の数字である。
江戸幕府がおよそ260年の長きに渡り続き、鎌倉・足利幕府よりも戦乱が少ない平和な時期が続いたのはなぜだろうか?
それは徳川江戸幕府政権にとって脅威になる存在や勢力を、完全に冷酷なまでにおさえこんだことが要因といえる。武家の敵対勢力というべき各国の大名たちの反乱を防ぐために徳川家は強大な軍事力を持った。
徳川家には将軍直属の家臣である旗本・御家人がおよそ二万二千人、さらに徳川一族とその家臣を加え、他の大名たちが武力で反乱しにくい状況においこむ。さらに平和になったからと、大名の居城(大名が住むのにつかう城)は一つの国に、一つの城と決めて、それ以外の城を破壊させた。これは戦時の防御力をそぐ狙いである。
また、高い権威をもつ朝廷には、幕府の政治に関与しない法律をつくり、京都所司代をつくって、朝廷貴族たちを見張らせた。また宗教勢力に対しても、抑え込む法律をつくる。
農民たちには、五人組制度を設立してたがいに監視させ、密告を優遇し、一揆などの反乱をふせいだ。また、戦国時代と比較して、幕府が直接支配する天領の税金は軽く、農村の自治をゆるした。そのため、他の幕府や大名たちより領民から慕われる。それらが長期政権がつづいた理由と考えられている。
では、大名とはどういったものであったのであろうか。領地を一万石以上もっている武士を大名といった。江戸時代にあった大名家はおおよそ260~270家であり、親藩・譜代・外様の三種類ある。
「親藩」とは、徳川家の一族をさす。家康の息子を初代とする尾張・紀伊・水戸の徳川御三家を筆頭とした。紀伊と水戸からは将軍もでている。
「譜代」とは、徳川家に昔から仕えている家臣の家柄であり、徳川政権の重要な役職である老中や若年寄は譜代大名から構成されている。
「外様」とは、関ヶ原合戦よりのち、徳川家にしたがった大名たちをいう。江戸幕府は外様が反乱をおこさないように見張り、領地も江戸・大坂といった重要拠点から遠隔地にうつした。
これらの大名たちは領地でできる年貢で財政を運営し、家臣たちを養った。幕府は各藩の大名たちを一年ごとに江戸と国元(地元)を往復させる「参勤交代」をさせ、藩の石高にあわせて土木工事を手伝わせた。これは幕府が各藩が反乱する財力をそぐための政策である。また、大名の妻子を江戸に居住させたのは、いざという場合の人質である。
そして二百年以上にわたり栄えた江戸であったが、1853年にアメリカのペリーが軍艦(黒船)を四隻率いて浦賀に来航。幕府に強く開国をもとめ、翌年に開国した。その後、幕府はアメリカと通商条約を結ぶ許可を孝明天皇に求めたが、外国人を嫌う天皇はこれを拒否。そこから、弱腰の幕府を批判し、天皇を奉じて、外国人を追い払うという、尊王攘夷運動がおこる。が、幕府の大老・井伊直弼は独断で日米和親条約を結び、これに反対した者たちを処罰した。
だが、恨みをかった井伊大老は江戸城の桜田門外で殺され、幕府の権威はさらに失墜していく。そして、幕府を倒して朝廷中心の近代国家をめざす長州藩や薩摩藩などが力をもち、その勢いに押され、徳川十五代将軍慶喜は1867年に朝廷に政権を返還。
翌1868年に朝廷の新政府軍が、徳川家を倒すべく江戸になだれこもうとした。政治的話し合いにより、江戸城は新政府軍に引き渡された。同じ年、明治天皇は京都から江戸の皇居へ移る。そして江戸は改名されて東京となるのである。