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岡っ引きの実像

 銭形平次捕物控、半七捕物帳、人形佐七捕物帳、伝七捕物帳など、小説とテレビ時代劇でおかきの捕物話は人気があるが、彼らはすべて架空の人物である。


 捕物帳は岡本綺堂がコナン・ドイルのシャーロック・ホームズを読んで、ひじょうに面白かったため、ホームズを江戸時代に置き換えて描いた連作推理時代劇小説を書いたのだが、これが大評判になり、次々とさまざまな作家が捕物帳を書き始めた。


 では、実際の岡っ引きとはどんなものであったのであろうか?


 岡っ引きとは別名を目明めあかし、御用聞ごようきき、手先てさき小者こものなども呼ばれている。幕府の捜査機関である町奉行所の同心に私的につかわれていた。同心をたすけて探索をし、罪人を捕縛する使用人のことだ。


「岡っ引き」という言葉は、もともと「岡引」といって、それが促音便(つまる音)となったものである。語源は「傍らにいて手引きする」という意味らしく、町同心でない者が「横から」捕物の手先となり助けたからのようだ。


 この岡っ引きは大別すると、「並の岡っ引き」と「小者」に分けられる。「小者」は奉行所に表向き名前が届けられていて、町同心から手先であるというあかしに同心から手札(名刺)を渡されていた。そして同心の御供をして定町廻をするときのみ、十手・捕縄を持つことが許されている。ただし同心の命令がない限り犯人を捕らえる事はできなかった。


 もともと岡っ引きは同心が捕えた罪人のなかから見込みのありそうな人物を選びだし、情報提供や犯人逮捕に協力させたものが始まりであり、江戸時代以前の京都所司代にも「放免」という名の協力者がいた。


 町同心がなぜ、岡っ引きをつかったというと、百万人都市である江戸市中の治安を維持するには町同心の数が足りなかった。江戸中期で200~240人、幕末でも280人ほど。そのうち市中をパトロールする三廻同心は南北奉行所をあわせて28人しかおらず、町人だけでも50~60万人の人口を探索、捜査することは圧倒的に人員が足りない。そこで民間の岡っ引きをつかうことは必要であったのだ。


「並の岡っ引き」は小者と違い、幕府からは非公認の存在であり、私的な雇用関係で結ばれている。町奉行所に出入りすることはなく、給金ももらっていなかった。同心が自分の懐からわずかばかりの小遣いを払っていたという。なので、生活費が足りず、女房に小料理屋や湯屋を経営させる者がいた。これはまだ良心的な岡っ引きである。


 多くの岡っ引き、小者は商家などで事件がおきると、それをネタに脅迫・強請ゆすり・タカリなどをして金品をせしめていた。ひどいのになると、賭場をひらいて寺銭を稼ぐ者もいた。したがって江戸の庶民からは嫌われている。岡っ引きを「犬」、「猿」などといって蔑称していたようだ。


 また、岡っ引きを「目明し」ともいうが、これは「仲間の犯罪を密告する者」という意味あいであり、捕えた罪人のなかから使えそうな内通者・裏切り者を選んで、捕物に使ったことから出来た言葉だ。であるから、自らを「目明し」と名乗ってはいない。


 それとは逆に、「御用聞き」とは敬語であったようだ。庶民たちが岡っ引きを称えていうか、あるいは岡っ引きが他の者をおどすときに使った模様。


 そして、岡っ引きの手下、子分を「したっ引き」と呼んだ。聞き込み調査したことを親分である岡っ引きに伝え、ふだんの仕事は職人や紙屑拾い、大道芸人などの仕事をしている。


 かように時代劇の捕物帳では大江戸八百八町をささえるヒーローとして描かれているが、それは虚構の世界でのこと。実際の岡っ引きとは真逆な存在であったようだ。


 正徳しょうとく二(1712)年を手始めとして、享保きょうほう天保てんぽうの時代に、幕府は数回にかけて岡っ引き禁止令を出している。町奉行所の同心を虎の威に借り、職権濫用や不法な行為が多かったようで町人には迷惑な存在でもあった。偽物も横行していたという。


 しかし、町奉行所の与力同心だけでは人手が圧倒的に足りず、犯罪捜査のために、なかば黙認されていた。そこで同心たちは岡っ引きを禁止されると、「手先」と名を変えて民間の捜査協力者をつかっていたようである。


 幕末期の記録によると、江戸の南北町奉行所には合計400人位の岡っ引きがいたとある。


 なお、話はそれるが、時代劇に登場する同心や岡っ引きは十手をかざすとき、派手な色のふさをぶら下げているのだが、実際はどんなものであったのだろう?


 十手は官給品であり、さまざまな種類があり、身分や格式により違いがあった。十手を見ただけで、身分や所属組織が判明するほどである。与力の十手は当初は実際に捕物につかっていた実用のものだったが、時代が下ると捕物は同心中心になり、装飾的な十手となった。朱塗り、蒔絵つき、真鍮製のものがこしらえられるようになった。同心は実用本位のもので、鉄製がほとんである。そして、緋房ひぶさ紺房こんぶさがついていて、手柄によっては紫房がつけられた。


 そして、岡っ引きっであるが、同心の私的協力者である彼らは十手を持ってなかった。ただ、同心の捕物に協力するときにのみ、同心から貸し出しされた。それがしだいに十手は預けられたままになる。


 その十手は「素十手すじって」という実用品であり、柄の部分を布で巻き、房はついていなかった。テレビ時代劇の岡っ引きに朱房などがついているのは、テレビ的な演出である。また、岡っ引きの手下である下っ引きには、親分が用意して貸し与えていた。このあたりは西部劇の保安官が助手にシェリフバッジを貸していたのと似ている。


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