八百八町を守る町奉行所
町奉行といえば、テレビ時代劇では「大岡越前」や「遠山の金さん」が有名であろう。江戸の人口は100~120万も住んでいた世界一の大都市であった。人口の半数をしめる町人のためにつくられた役所を町奉行所といった。
今でいうと町奉行所は都庁・裁判所・警察署・消防署をあわせた役目をになった役所であった。長官である町奉行は徳川家につかえる旗本のなかから二人が選ばれ、南町と北町の両奉行所の町奉行となった。
南北の奉行所は、月番制であり一ヶ月交替であった。たとえば南町奉行所が門をあけて町人の訴えをきくと、その月の北町奉行所は門をとじて、未解決の事件を処理していたのである。
月番中の町奉行は早朝6時に町奉行所に出勤し、10時に江戸城へ出仕した。必要があると老中と会見して話し合う。昼2時過ぎに町奉行所にもどって残った仕事の処理を続ける。終業時刻は日によってまちまちであった。
ほかにも月に三回は幕府の重要な会議にくわわった。かように多忙な町奉行を補佐すべく、南北の両奉行所には与力が25人、同心がおおよそ120人前後いたのである。
町奉行所のあった位置はどこかというと、はじめは何度か場所移動があった。しかし、江戸時代後半からは、南町奉行所は数寄屋橋門内で現在の千代田区有楽町2丁目、北町奉行所は呉服橋門内で現在の千代田区丸の内1丁目が定位置となる。
この両奉行所は徒歩十分程度の近い場所にあり、南北の町奉行は月三回ほど、月番の町奉行所で事務手続き、打ち合わせをおこなった。これを「内寄合」という。
時代劇でよく見る町奉行は裁判をするシーンが多いが、実際は消防・警備・土木工事などの多岐にわたり多忙である。そのため、中町奉行所が江戸中期の1702~1719年のあいだに設立された。常盤橋門内に奉行所があったようである。このときは町奉行三人体制であった。町奉行の役宅も奉行所内にある。なお、奉行所は「御番所」ともいった。
ちなみに名奉行で知られる「大岡越前」の大岡忠相は南町奉行であり、「遠山の金さん」の遠山景元は北町奉行と務めてから、南町奉行も務めた。
町奉行所に所属している役人を総称して「町方役人」という。職務は今でいう司法・行政・警察などさまざまである。町奉行を助ける「町方与力」は石高160~130石の給与であるが、御目見以下であった。一代限りの抱席であるが、実際は世襲制であったようだ。
与力には余禄があり、江戸の町々や江戸屋敷をもつ諸大名から付け届けがあった。その収入は与力ひとりでだいたい年に3000両もあったという。江戸に不案内な大名につかえる藩士たちは事件などのトラブルにまきこまれ、問題が大きくならないように、いざという場合にそなえ賄賂を贈っていたのだ。