武士の暮らし
では、一般的な武士の暮らしはどうだったのだろうか。
基本的に武士は仕えていた主君から家禄、今でいう給料を与えられて暮らしていた。武士のなかでも上級武士は領地をもらっている。だが、中級・下級の武士の家禄は米で支給される形式である。米を現金と交換して生活必需品などを買っていた。町の物価があがっても、それにあわせて家禄があがることはほとんどなかったようだ。
そして、米の値段が下がると武士の生活費も減り、家計のやりくりが大変になる。そのため、武士は身分の上では支配階級ではあるが、ほとんどの武士の生活は質素なものにならざるをえなかった。
そして、米を支給される中級・下級の武士には仕事があまりなく、二日働いて、一日は休みという勤務状態で家禄は増えにくい状況であったようだ。少ない給料で家族と家来を養うのは難しく、その多くある休日を利用して内職をして家計の足しにするものが多かったようである。
内職の仕事が名物になった例がある。徳川家につかえた鉄砲百人組の御家人たちは、同じ役職ごとにまとめて組屋敷にすんでいた。その組頭たちが内職用の材料を仕入れ、組の者みなが仕事を分担して、内職をおこなっていた。
青山百人町(現在の港区)に暮らしていた甲賀組は傘作りをし、彼等がつくる「青山傘」は品質がよいと評判であった。大久保百人町(新宿区)の伊賀組はつつじの栽培が有名。根来百人町(新宿区)の根来組は凧張りや提灯作りをしていた。
ほかにも下谷御徒町(台東区)の御徒士組の朝顔の栽培、金魚の養殖が有名でした。朝顔や金魚は江戸の人々に人気があり、愛好家たちが品評会をひらいてその美しさを愛でていた。御徒士組の組屋敷は「朝顔屋敷」と呼ばれるほど名が知られている。
もっとも、明治時代に組屋敷はなくなった。しかし、朝顔栽培は台東区入谷でつづき、現在の毎年7月初頭に「朝顔まつり」が開催されている。
御家人だけではなく、旗本も幕府から与えられた広い屋敷内で盆栽を育てて、植木屋に売る者もいた。




