江戸の学校・寺子屋
江戸時代の日本人は約3割の人間が字を読めたといわれている。江戸では70~85%の子供が寺子屋という庶民向けの学校へ通ったと考えられていた。
この就学率はヨーロッパの先進国ロンドン、パリよりはるかに高い数字で、識字率や読み書きできる庶民の数は当時世界一であった。大勢の民が「読み書きそろばん」ができたから、日本は明治維新以降も近代化に短期間で成功した理由のひとつと考えられている。
これほど江戸時代に学問が盛んだったのは徳川家康を始め、家綱、吉宗といった歴代の将軍が学問、本好きであったからではないかという説がある。
鎌倉幕府、室町幕府、信長、秀吉などの武断政治に代り、家康をはじめとする江戸幕府は儒教を重んじて、その教えを広めました。これは孔子という中国の思想家の教えである。
徳川家康に仕えた朱子学者の林羅山は、家康から家綱まで四代の将軍に朱子学を教えた。朱子学とは中国の儒学者・朱子がとく儒学の学説であり、忠義や孝行、礼儀を重んじる学問だ。
下克上の戦国時代に代り、主君を大切にする忠義を美徳とする教えは、支配者にとっては都合のよい教えであったのである。
徳川五代将軍綱吉は学問好きで知られ、羅山が上野忍岡の屋敷内に経てた孔子を祀る聖堂・孔子廟と朱子学の私塾を、神田台(湯島)に移動させた。現在も残る湯島聖堂は、多くの受験生が合格祈願にやってくる。
湯島聖堂のある場所は、孔子の生誕した昌平郷にちなみ、「昌平坂」と名づけられた。それから徳川十一代将軍家斉の時代に、老中・松平定信が林一族の私塾である聖堂学問所を、幕府の学校である昌平坂学問所として開設した。
松平定信は聖堂で朱子学以外の学問を教えることを禁止して、朱子学を正統な学問にさだめた。昌平坂学問所は徳川家の旗本や御家人、その子供たちに教えた学校であるが、のちには大名たちの藩士の入門も許されるようになる。町人にも受講してよい講座もでき、日本全国から優秀な者が集まったようだ。
武士が昌平坂学問所や藩校で勉強したが、庶民は寺子屋で自由に学んだようだ。幕府の御触書を読んだり、町奉行にうったえたりするには、読み書きが必要である。また、物を売り買いするためには、お金の計算が求められる。そのため、子供のころから「読み・書き・そろばん」を習う子供が多かったのだ。
先生は「師匠」といって、お坊さん・神主さん・医者・浪人などが務めている。寺子屋の教室は名前の通り、寺院や神社、師匠の家屋が教室になった。入学や卒業は個人まちまちで、6歳から14歳くらいの子供が多かったという。いろいろな年齢の子供達が一緒に教室で勉強していたようで、師匠は子供各人によって合わせた教え方をしていた。
授業時間はおおよそ6~8時間で、昼食は自宅にもどって食べている。文字を覚えるには「手習」、つまり手を動かし習字をして覚えたので、今と変わらない。
教科書は往来物という手紙形態の書物が使われていた。曲亭馬琴や十返舎一九といった人気作家が書いた教科書が存在する。馬琴は寺子屋の師匠までやったことがあるとか。浮世絵師の葛飾北斎などが教科書の挿絵を描いたものもあった。
また、学問でも算数の好きな人は、日本独自の算術である「和算」を勉強した。和算は世界的にも高度な学問であり、イギリス人のノーベル賞受賞者が発表した法則を、日本の和算家が百年以上も前に解いていた例がある。
これほど難しい算術の問題と解答を、算学者たちは絵馬に書いて各地方の神社に納めていたようだ。




