江戸っ子は寺社巡りと祭が大好き
戦乱にくれた戦国時代が終わり、江戸期になると世の中は安定していった。町人たちの生活にもゆとりが生まれるようになる。
町人たちは寺社参りをするようになり、正月・七夕・盆などの年中行事がおこなわれ、祭を楽しむようになりました。
神社や寺院は景観がうつくしい場所がおおく、大勢の人々がお参りに訪れ、観光を楽しむようになる。人々は病気や災難を払うため、祭をおこなうことで神仏のエネルギーをいただいていたようである。
江戸で有名な祭は、江戸の総鎮守とされた神田明神社(神田神社)の神田祭と、徳川家の産土神(守り神)とされた山王祭である。
時代がすぎ、人口増加のため江戸の町は東に拡張開発されていった。そして、浅草や深川の神社でも盛大な祭がおこなわれるようになる。浅草の三社祭は、大昔に発見された伝承がある観音様にゆかりがある三社権現神社(浅草神社)の祭である。
三社とは、大黒様・恵比寿様・将門様(平将門)の三柱の神様が祀られているからだ。境内にある大黒様は、石造りでは日本一大きい。
そして、深川祭は「江戸最大の八幡様」と信仰され、徳川家からも保護された富岡八幡宮の祭である。ちなみに、1807年の深川祭では、見物人が多くなりすぎ、深川と日本橋を結ぶ永代橋が破損して川に落下する事故がおきた。
祭は江戸の町であちこち開かれたが、「天下祭」と呼ばれる山王祭と神田祭は別格であった。徳川幕府から資金が出され、江戸城内へ神輿や山車に入ることが許可されていた。
はじめは両方の祭も毎年やっていたが、費用がかかるため、しだいに一年おきになる。山王祭は十二支のなかで子・寅・辰・午・申・戌の年の6月15日、神田祭は丑・卯・巳・未・酉・亥の年の9月15日におこなった。
徳川家の将軍や御台所はこれらの祭を富士見櫓などから見物していたが、吹上の庭に見物できる上覧所が設置されるようになる。江戸の西南に住む町人たちが山王社の祭を、江戸の北東に住む町人たちが神田明神社の祭を取り仕切っていた。江戸っ子にとって、両方の神社の氏子として江戸城に入り、将軍に上覧されることは、たいへん名誉なことであった。
祭が開催されるたびに山車や仮装行列の順番を刷った「祭番付」が販売され、大評判であった。江戸っ子は負けず嫌いで見栄っ張りなため、町ごとに趣向を凝らした山車や仮装行列が競われたという。