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お江戸のヒーロー・力士

 町火消と並んで江戸っ子にたいへん人気だったのが相撲すもうの力士である。


 日本の国技である相撲は、「角力」とも表記し、古代から神事として存在した。武士の時代となると、身心をきたえる武術としてすすめられ、室町時代には民間の相撲もはじまった。


 江戸時代には、武家が力士を抱えることが流行した。これを「抱相撲かかえずもう」、「抱力士かかえりきし」という。特に天明・寛政時代が黄金期であった。有名な雷電為右衛門も松江藩の抱力士であり、帯刀が許されている。


 また、寺や神社を建設する費用を集めるため、寺の境内けいだい土俵どひょうをつくって、多くの見物客をあつめて興行する「勧進かんじん相撲」がよく行われていた。上方で元禄時代末から流行し、江戸では貞享元(1684)年に深川八幡で「勧進相撲」が幕府に許されて始まった。


 相撲の人気が高まるにつれて、日本各地の寺社で興業がおこなわれた。これは寺や神社を管理する寺社奉行からお許しをえた町人が勧進元かんじんもととなっている。これが民間による初の職業力士の初めてである。しだいに町人の勧進元が主流になっていく。


 やがて、1833年以降は、両国にある回向院で春と秋に十日間、二回ずつ本場所をおこなうのが定まりとなった。回向院で相撲を興行する日は周囲に見世物小屋なども出て、たいへんにぎわった。しかし、当時は男性しか相撲を見ることが許されなかったそうだ。


 そして、当時の土俵は寺の境内につくられたのだが、屋根付きの建物ではなく葦簀張よしずばり、雨の日は休むという青空興行であった。土俵の広さは直径13尺(約4メートル)であるが、初期のころは円形以外にも四角い土俵もあったという。


 江戸時代において力士の最高位は大関おおぜきであった。1789年、その頃活躍していた谷風たにかぜ梶之助と小野川おのがわ喜三郎の二名が、土俵入りで化粧まわしの上に横綱よこづなをしめることを特別に許可された。


 そののち、将軍が観戦する「上覧じょうらん相撲」に選出された大関力士も横綱をしめるようになる。横綱が力士の階級として最高位となるのは明治時代にはいってからであった。相撲の神様をまつ野見宿禰のみすくね神社には、歴代の横綱の石碑が立てられている。


 勧進相撲の本場所であるが、それ以外に臨時に開催された相撲興行を「花相撲はなずもう」といった。本場所が終わると、続いていろいろな「花相撲」が開催された。


 臨時興行の相撲では、木戸銭を取らないで、客の祝儀を受けとった。力士におくる祝儀のことを「花」といったことから、花相撲と呼ばれた。なぜ、祝儀を花というかというと、昔の風習で、人に贈り物をするとき草木の花の枝につけて贈ることから名づけられた。文化年間の「花」の値段は二両二分前後くらいだったという。


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