批判エッセイについて
批判について書こうと思う。コレっきりにはしたい。何故ならそんな暇があったら作者なら批判への思いを作品にしろって言いたいから。だからまともな批判って読者である事に限られる。否定じゃなくて、代案で批判すれば良い。
私は批判否定と肯定って単純な2元論は間違っていると思っている。ここからは私独自の考えになる。批判は否定派はなろうファンタジーに限った歴史の範囲しか肯定的な見方にならない。それが薄っぺらいと思う。文芸の歴史は批判とともに発展の歴史があったと私は見ている。
私独自の見方になるので多分賛同されない。何故こんな正しい見方をしてるのに受け入れられないのか?がさっぱり分からない。結局本当の意味でそういった言及を必要としてる人なんて居ないんじゃないか?って失望している。批判への言及のエッセイ自体が批判を語るレベルにない。根本的にポジショントークで、所謂マウント合戦の延長でしか無い。
互いに自分の都合の良い意見を選んでるだけでPTが上がる。以前からエッセイカテにはもう失望してる。こういったものの方がまともな理性的で面白い言及より上に来る。上に来るから互いによいものなんだとしてそういったものが貴ばれる。そもそもだランキングに右往左往してるのは、非テンプレ派も同じってのが馬鹿馬鹿しい限りだ。
ランキングはそういうものなんだ。ランキングへの批判か?なら頭を使った楽しさはランキングではエッセイですら選ばれない。私はエッセイを書いてるつもりはない。創作論を書いている。論として上位に来るモノは頭を使った刺激に溢れてるものじゃないといけない。それがポジショントークの我田引水自己正当化論で良いはずが無い。
なろうファンタジーのロジックをそのまま創作論で適応してはならない。もう論についてのまともな内容はランキングでは選ばれないって失望している。今回の話しはこれが根幹になってる。頭を使って刺激を受ける知的な物語に関しては批判は作品向上に適している。何故ならこれで勝手に我田引水シンプルな好みの感情論は排除されるからだ。
そして頭を余り使わない大衆娯楽物語で良い作品は批判が向いてない。ただの感情的で個人的な悪口にしかならないから。それは読者の質じゃない。そういった物語を楽しむ時はそういった姿勢に理性的な社会人も変化してしまう。むしろその社会での理性に疲れた人間の癒しこそが、そういった作品の価値だと私は思っているんだ。
頭をあまり使わない事自体に価値がある。だからこんな作品が批判でまともに良化するわけが無いんだ。その良い例として一部のネット評価で、よりもいやSAOが最低作品として選ばれるケースがある。
は???そんなアホなとなる。何かの工作だろう?そんな単純なものじゃない。私がよりもいについて書いたのは適当じゃない。そういった調査で一部の工作とは言えないと判断したからだ。SAOは明確に一部のランキングサイトでとんでもない低評価がされてる。それは批判色が強いサイトになる。
よりもいはあまり頭を使わない作品ではないし、やや非ラノベ的なメンドクサイ人間ドラマが軸になってる。それでも根本的にはしっかりしたリアリズムを土台にした作品と言うより、どちらかと言えば受け手にとっての個人的なリアリティを重視した作品だと言える。十分ラノベ側に入るようなタイプになる。
作品がラノベなら大体頭を余り使わない物語であるのが保証されてる。それは文字だからが大きい。文字だから頭を使わない事を強く意識しないと、大衆が楽しむ面白さが落ちてしまうからになる。漫画は多分絵なので、この辺り雑なんだ。それでも傾向としてはあまり頭を使わずに楽しめる作品群になっている。
この傾向によって批判に向かないタイプの物語は批判的な言及をすれば多分潰してしまう。よりもいやSAOでそういった例を見てしまったからだ。一部の工作だと判断するのは良いが、じゃ一部じゃないデータはどこにあるのか?これが難しいんだ。よりもいやSAOが頭をあまり使わない作品の代表例であったり、テンプレートではない。
単にその中で数が集まる注目される作品ってだけだ。よりもいは今はまだ注目作ではないが、いずれはもっと口コミで評判が上がってくると思う。けもフレやシュタゲもスタートはあまり順調じゃなかったんだから。だからあまり適した作品ではないのは分かってるが、人気作は同様にアンチも多いは事実として私は捉えている。こういったアンチ的批判にはあまり価値が無い。
作品のタイプによっては批判的言及はあまり望ましくない。それは批判否定派のエッセイの人と全く同意見だが、それは作品のタイプによるってのを私は書いておきたいんだ。批判肯定派の大半はおそらく文芸などの批評批判をしってる人だと見ている。歴史や文化が違うんだ。批判否定派の歴史は全く別の歴史でそれを同じ物語の歴史として扱ってはならない。
本来歴史の中で消えていったパルプフィクションと呼ばれるようなヒロイックファンタジーの歴史が批判批評の歴史として繋がってないんだ。だからなろうファンタジーの中の歴史の中で言及するだけで、脈々と受け継がれてきた文芸の歴史とは歴史が薄っぺらく感じてしまう。本来なら平行して交わらないってのを感じ取れるのだが、それが出来ないため、批判に対する違う物の歴史として認識できない。
よりもいは結局工作だとして切り捨てられたが、危なくクソアニメとして2chで選ばれそうになっていたんだ。私が10年度代表でノミネートされるような評判の作品がこんなアホな評価されるなんていかれてるとは思ってる。タイプ的には全くあの花と同じタイプ。おそらく選ばれないがノミネートには皆納得するようなタイプ。
SAOは実際年度最低作品に選ばれるサイトもある。まともなサイトはそんな事は無いのだが、文芸的批判者の多いと感じ取れるそのサイトはSAOの評価が年度最低評価で歴史の中でのかなり下の評価の作品になってる。批判は駄目良いなんて2元論は間違ってる。作品のタイプによっては批判を肯定するべきだ。そうやって作品は向上してきた歴史もあるんだ。
こういった歴史がある事を認めないと言うのは、そこに自作に否定的意見を述べる事を否定するだけの作者の怠惰さがあるのを否定できない。もちろん私が感想拒否してるのは怠惰さにある。だが怠惰であるのを隠してなくきちんと書いてる。面倒だからと書いてる。それに私はメッセージなら受け付けてる。読者も面倒な手間をかけて意見をするなら聞こうと思ってるからになる。
そういった作者の怠惰さをまとめて隠すような2元論による批判の否定には私は否定的だ。怠惰さを許さないのじゃない、怠惰さを隠す隠れミノに議論の結果を使って欲しくないんだ。
最後にどーせ受け入れられないんだろうなと思ってる。受け入れられるならもっと過去のエッセイでPTもらえているから。でも娯楽作品が持つ癒しと芸術作品が持つ癒しの種類は違うんだって多分感覚的には誰もが気がついてるはずなんだよな。