第3話:鈴(後編)
日付が変わった直後、僕ははじめの済む世界からは遠く離れたとある町を訪れていた。
深夜の町は人っ子一人歩いていない。ぽつぽつと点る光を縫って歩くように、僕は待ち合わせの場所へと向かった。
この町ははじめの済む村と比べると随分豊かだった。線路を境に山と海が同居している。
世界もあることをはじめにも教えてあげたいな。そんなことを考えながら、僕は山道の階段を上りはじめた。階段の頂上には紅の鳥居があった。
今日は僕ら月の子にとっては隣月の子と会える貴重な日だ。お隣りさんがこの階段の向こうで待っている。
僕は11月30日にお邪魔していた。僕らは一月の始めと終わりにこうして隣の月に遊びに行けるんだよね。
頂上にたどり着き、紅の鳥居をくぐると、古い神社が見えた。その賽銭箱の前で彼女は待っていた。
緑から黄へ、黄から茜へ、秋の紅葉のように色づいた髪が夜の風に揺れていた。
「こんばんはぁ、フィンさん」
「こんばんは、かえでちゃん。待たせちゃった?」
「ううん、うちも今着いたとこなんよ」
11月の子──かえでがそこに居た。
かえでは大きな紙袋をぶら下げていた。その中には大量のお菓子が入っていた。
かえではそのお菓子の中から一つ、南瓜の形の棒付きキャンディを差し出した。
「お一つどうぞ。うち一人じゃ食べ切れへんの」
甘い香りがした。僕は思わず身構えた。だが、すぐに肩の緊張を緩め、そのキャンディを受けとった。
「ありがとう。えっと……そのお菓子は、ランテから?」
僕はかえでの紙袋を指した。かえでは嬉しそうに微笑んだ。
「うんっ! ランテ、いーっぱいくれたんよ!」
僕は素直に笑い返すことができなかった。遠い昔の出来事が脳裏に焼き付いている。
だが僕はすぐに過去を振り払った。かえでちゃんは悪くない。かえでちゃんを悲しませるわけにはいかないんだ。
「よかったね。ランテってば、かえでちゃんにはほんと優しいよね」
「うんっ、ランテはうちの宝物や!」
かえでちゃんの太陽のような笑顔を見ると、ランテがこの笑顔を守りたくなる気持ちもわかるような気がした。
だからこそ、ランテへの恨みは消えないのにかえでちゃんにはズルズルといい顔をし続けてしまったんだ。
僕らは神社の傍らに在る岩に越しかけ、互いの一ヶ月について話しはじめた。
今月は紅葉がよく色づいていたこと、こちらのクリスマスは今年も恋人達ばかり出歩いていたことなど、話題は様々だ。
こうしたやりとりはもはや恒例行事のようになっていた。その中で、僕ははじめと出会ったことを話した。
「そういえばね、僕の姿が見える人間が居たんだよ。びっくりした」
「わぁ、うちらの姿が? すごい! そんな方も居るんやねえ。なんてお方?」
「はじめっていうんだ。可愛い子だよ」
「まぁ、ええお名前どすなあ。」
僕ははじめと遊んだこと、話したことをかえでちゃんに話した。だが、はじめが小さな部屋に閉じ込められていることやはじめの兄のことは隠していた。
そんな暗い話をかえでちゃんにわざわざする必要は無いと思っていたからだ。かえでちゃんは素直に僕の話を聞き、僕とはじめの出会いを喜んでくれた。本当に素直な子だった。
そんな話の中で、僕は自分のコートに付いていたベルが取れた話をした。
「そういえばさ、はじめが僕のコート引っ張った時にコートに付いてたベルが取れちゃったんだ。あれって、普通の人間には見えないしベルの音すら聞こえないんだね。初めて知ったよ」
僕は内心「ランテの奴、そういう大事なことは早く言ってほしいのに」と思っていた。するとかえでちゃんはぱあっと笑った。
「そうなんどす? へえ、うちも初めて知ったわぁ」
「あれ……かえでちゃんも知らなかったの? ランテがかえでちゃんに教えたりしてない?」
「ううん、全然。ランテも知らないんやないかなあ。そんなこと一言も言うてへんし。知ってたらうちに教えてくれるやろし」
確かに、かえでちゃんに教えない理由が無い。別段隠すべきことではないはずだ。
かえでちゃんはふんわりと言った。
「それにしても大発見やねえ。うちらの服に着いてる物は人間さんには見えないんやなあ。フィンさんのコートにはキラキラがいっぱい付いてはるから、宝物がいっぱい隠せるなあ」
「あはは、そうだね。そう考えると素敵だね」
そう言って僕は無意識に自分のコートに触れていた。その時、リンと音が聞こえた。僕は驚いた。あの時取れてしまったはずのベルが確かにコートに付いていた。
「あれ……」
「どないしたん?」
「取れたはずのベルが付いているんだ……間違いなく取れたはずなのに……」
「まあ、よかったやないの。元通りやねえ」
僕はコートに付いているベルをしげしげと見つめた。取れた形跡も無ければ後から誰かが付けた形跡も無い。
僕は再び頭の中で呟いた。「ランテってば、こういうことは早く教えてよ……」と。だがこうも考えた。ランテはこういった細かい「ルール」を知らずにいるのかもしれないと。
ランテルヌ・スィトルイユ。かえでちゃんによると、一番最初に月の子に「成った」のはランテらしい。
ランテは僕ら月の子の中でも特別な存在だ。「いたずら」という力の強力さ、そして何より月の子を選ぶ資格を持っているのはランテだからだ。
僕もかえでちゃんもランテに選ばれたから月の子になった。だから、月の子になったばかりの頃はあいつは僕らのルールは完璧に理解してるのだろうと思い込んでいた。
けれど最近わかってきた。実はあいつは僕らのルールをいまいち理解していないのではないだろうか。
あいつに把握されないまま、宙ぶらりんの状態で機能し続けているルールが実はいくつもあるんじゃないだろうか。
そんな疑念を持つことが度々あった。「これで大丈夫なのかな……」と不安に感じることは幾度となくあったが、12月の僕には10月に殴り込みに行く資格すらない。
結局、僕が僕らのことを知っていくにはこうした些細な偶然に頼るしかなかった。
僕は思わず呟いた。
「ランテ……あいつ危機感あるのかなあ……」
すると、かえでちゃんが突然ぱちんと手を叩いた。
「あ、ランテといえば! 聞いてフィンさん。ランテが言うてたんよ。今度うちらの新しいお友達ができるんやって!」
世界の重量が一身に集中したような、そんな重みだった。かえでちゃんはほんわかと嬉しそうにこちらを見つめている。
「友達って……月の子が増えるってこと……?」
「うんっ 、ランテ言うてた!」
かえでちゃんは無邪気に笑った。だが僕は今にも震え上がりそうだった。
「かえでちゃん……月の子が増えるって、どういうことか……わかってる?」
「え? お友達が増えるってことやろ?」
かえでちゃんはきょとんとこちらを見つめた。やはりかえでちゃんは知らないんだ。ランテは教えていないんだ。教えるべき大切な事だとすら認識していないんだ。
僕の頭を過去が蝕みはじめていた。あれは真っ白い部屋だった。白い壁が黒く染まっていく様子、炎が眼前を埋め尽くしている様子。 もう居ない誰かの過去が何度も何度も訴える。「嫌だ」と。
人間が月の子に成る。その意味を僕は痛いほどよくわかっていた。僕は恐る恐る尋ねた。
「ねえ、かえでちゃん。ランテ……その新しく月の子になる人間がどんな子かって、話してた?」
「雪みたいな綺麗な子やって言うてたわ。でもうち、雪って見たことあらへんの。会うてみたいなあ」
嫌な予感がした。はじめの雪のような髪が記憶の中で揺れていた。嘘であってほしい。勘違いであってほしい。だがかえでちゃんの言葉とはじめの姿が重なるように思えて仕方がなかった。
僕は居てもたってもいられなかった。
「ごめんかえでちゃん。ちょっと……今日は帰るね。どうしても確かめたいことがあるんだ」
「あら、そうなん? 残念やわ」
「ごめんね……次は今日より沢山話せると思うから」
駆け出そうとした僕をかえでちゃんは引き止めた。
「あ、待って。ちょっとだけ待って」
かえでちゃんはそう言うと空の小さな袋を取り出した。そして紙袋の中のお菓子を空の袋に詰め込んだ。
「これ、どうぞ」
「いいの? ランテが君にあげたものなんでしょう」
「うん。お菓子はみんなで分けるもんなんや。フィンさんが美味しいお菓子で笑顔になれますようにーって、おまじないや!」
僕の動揺が顔に出てしまっていただろうか。かえでちゃんに気を遣わせてしまっただろうか。僕はお菓子の袋を受けとった。かえでちゃんは本当に優しい子だった。
「ありがとう、かえでちゃん。じゃあね!」
僕は急いで空へと飛び出した。町を一気にすり抜け、はじめの住む世界へと急いだ。豊かな町は過去へと消え、また新たな12月1日へと戻ってきた。
僕ははじめの家へと急いだ。まだ夜中だということすら忘れて、ひたすらはじめの部屋へと急いだ。
はじめの家へとたどり着くと、僕はふわりと二階へと飛び上がり、鍵のかかった窓をすり抜けた。
リンと愛らしい音がした。まるで僕を呼んでいたようだった。赤い瞳が僕を待っていた。
はじめは薄い毛布をかけたまま床に寝転んでいた。しかし、はじめの瞳は見開いていた。まるで天使でも見るようだった。
「やっと、来てくれた」
はじめは僕の残したベルを抱きながら笑った。心なしか手足の痣が増えているように見えた。
僕は迷わずはじめに駆け寄って、手を重ねた。僕ははじめに尋ねずにはいられなかった。
「ねえ、聞いてもいい? 秋頃……ランテって奴がここに来なかった? オレンジの髪で、真っ黒い翼で、南瓜の使い魔みたいなのを連れている奴」
はじめは頷いた。
「来た。わたしのこと、雪みたいで、ぴったりって言ってた」
僕の震えは奮えに変わった。間違いない。ランテははじめに目をつけたのだ。はじめを月の子にするつもりだ。
僕は月の子になる意味をよくわかっている。月になるということは、人ではなくなるということなんだ。
そもそも月というのは人ではない。妖怪などのような人と違う生き物でもない。
三十日程度の時間を一くくりにした所謂単位なんだ。単位に生命は必要無い。
必要なのは、その単位が擬似的な人の躰を取る為の外見と人格のモデルだ。
だからモデルとしての外見と人格を抜き取り、不必要な生命を捨てる。
僕は、月の子に成るとはそういうことだとと捉えている。
月の子になる為には人の生命を捨てなければならない。月の子に成るとはそういうことなんだ。
はじめにとっては死刑宣告と同じなんだ。
僕の頭の中で何かが叫んだ。もう見たくないと。ふつふつと怒りと決意が沸き上がっていた。
思えばこれが一番最初の争いだった。ランテと僕の長い長い争いの幕開けだった。