第2話:鈴(前編)
翌日も、その翌日も、僕ははじめのところに通い続けた。
はじめが寂しくないように。僕がはじめのところに行くことで少しでもはじめの寂しさがほぐれるのなら。僕は夢中だった。
いつかはじめを自由にする。はじめをあの部屋から連れ出して、もっと広い世界を見せてあげるんだ。
そんな野望を胸に秘めながら。
その年の12月の31日。今年はじめが僕と会える最後の日だった。はじめにとって次に僕と会えるのは334日後だ。
僕は12月の子。12月の外側の時間には行けないからだ。それは僕たちがどう足掻いても覆せない決まり事の一つだった。
僕は朝からはじめのところへ向かった。はじめは昨日と同じように僕を出迎えた。僕を見つけるなりニコリともせずに抱き着いた。息が苦しくなるくらい強く抱きしめたかと思うと、そのまま僕をズルズルと連れまわした。
…………日に日に扱いが過激になっているように感じるのは気のせいだと思いたい。
僕は毎日一つ、はじめのところに何か持っていくことにしていた。毎日手ぶらでは話題もすることも尽きてしまうのだ。一昨日はお手玉、昨日は折り紙だった。今日はトランプを持って行ってみた。
はじめはトランプにすぐに興味を持った。64枚のトランプを床に広げてはめくってみたり、投げてみたり。ただ、問題ははじめがトランプの遊び方を全く知らないことだった。
僕はババ抜きや神経衰弱のルールを教えてみた。ルール自体はすぐに覚えてくれたのだが、一度遊んだらはじめはすぐに飽きてしまった。
はじめはトランプでゲームをするよりも、絵札を眺めたり、トランプで塔を作る方が好きだったようだ。
「ルール、いらない。この方が、たのしい」
はじめはトランプを立てながら呟いた。トランプの塔は着々と完成へと近づいていた。塔の四段目を作りながら、はじめは僕に薄く微笑んだ。
僕は微笑み返した。だが内心は外の陽の高さを気にしていた。夜になる前にトランプを片づけなければならない。もしはじめの兄にトランプが見つかったら、また先日のようにはじめが殴られてしまうだろう。
僕は出口の無い白い部屋をぐるりと見回した。外の世界を存分に見てきた僕には牢獄のようにしか見えなかった。
こんなのっておかしいよ。そんなことを考えていたあの頃の僕は純粋だった。
いつかはじめをここから出してあげなきゃ。そう考えていたあの頃の僕は傲慢だった。
「……どうしたの?」
突如はじめが不安そうに僕の顔を覗き込んできた。鼻がぶつかりそうなくらいに近くまで寄るので、僕は照れくさくて後ずさった。
「ち、近い、はじめ、近い。びっくりした……」
「ぼーっとしてた?」
「あ……そうかもね。ぼーっとしてたかも」
そう言うと、はじめは不満そうに僕のコートの裾を引っ張った。僕は笑ってはじめの方へ向き直った。
「ごめんね、よそ見しちゃって。これからどうする? トランプの塔はできた?」
はじめは塔を指さした。あと2枚のトランプを頂上に立てれば完成だった。見てて見ててと言わんばかりにはじめは僕を引っ張った。
はじめの向かい側で、僕は完成の様子を見守ることになった。はじめは2枚のトランプを手に取りながら言った。
「ね、明日、なにする?」
僕は震え上がった。はじめにとっての「明日」は1月だ。はじめの明日に僕は行けない。僕は12月そのものだから。
二枚のトランプは今にも塔の頂上に昇ろうとしていた。はじめは慎重にトランプを頂上に運んでいた。
はじめを悲しませたくはない。だが、こればかりは嘘をつくわけにもいかない。僕は思い切って言った。
「ごめん、はじめ。僕……明日は来れないんだ」
はじめの手が震えた。二枚のトランプが滑り落ちた。落ちたトランプは塔の支柱を崩し、トランプの塔は瞬く間に崩れ去った。はじめは力が抜けたように座り込んだ。赤い瞳がこちらを見つめていた。
「明日、来ないの?」
頷くしかなかった。はじめは何か叫ぼうとしたが、ぐっとこらえた。それから次にこう言った。
「じゃあ、その次の日は?」
僕は首を振った。
「じゃ……じゃあ、その次の日は?」
また僕は首を振った。「また明日」を言えないことが苦しかった。はじめは「その次は?」と何度も尋ねた。その度僕は首を振った。
次第にはじめの目に涙があふれてきた。遂に「その次は?」が途絶えた時、床にぽたりぽたりと雫が零れ落ちた。
「おわかれ……さよならなの……?」
はじめの声は震えていた。僕ははじめの涙を拭き取った。そして僕ははじめの手を強く握った。
「さよならじゃないよ。しばらく会えないだけ。来年、必ずまた来るから」
「らい……ねん? らいねん、いつ?」
「季節が一周したら。春が来て、夏が来て、秋が来て、もう一度冬が来た時、必ず会いに来る」
はじめはぐっと口をつぐんだ。だが涙は溢れる一方だった。はじめはぶんぶんと首を振り、やがてうずくまってしまった。
「やだ、やだやだ。行かないで。ひとりぼっち、やだ。やだやだやだ。らいねん、まてない。ずーっとここにいて。どこにもいかないで」
はじめは声をあげて泣き出してしまった。それを見た僕も涙がこみ上げそうになった。だが、こればかりは駄目だった。僕にもどうしようもない決まりだった。
僕は泣きじゃくるはじめの頭を撫でた。はじめはぐっと僕を掴んで離さなかった。「逃がさない」とでもいうように。
「ごめんね、寂しいよね。僕も来たいよ。はじめとずっと一緒に居たいよ。でも、どうしようもないんだ。僕は……」
その時だった。扉の向こうから足音が聞こえた。電流が走るように、僕の背筋が震えた。はじめの兄が来る。
僕は慌てて床に散らばったトランプをかき集めてケースにしまった。そしてはじめから離れて壁際に寄ろうとした。だがはじめは僕から離れなかった。
「いかないで、にげないで、はなれないで、やだやだやだ……」
「ご、ごめんはじめ。一瞬だけ離れてくれないかな。はじめのお兄さんが来るみたい。ちょっとだけ、お願い!」
「やだやだ、行っちゃやだ。わたしの、わたしの……!」
鍵が揺れる音がしはじめた。まずい。慌ててはじめから離れようとするがはじめは僕のコートにしがみついたままだ。
僕はコートを引っ張った。はじめはコートに付いているベルの形の飾りを引っ張った。
鍵の開く音がする。僕は思わずコートからはじめを引き離した。
チリンと愛らしい音がした。はじめは後ろに跳ねとんだ。僕のコートのベルと共に。その時扉が開いた。
はじめの兄は今日も顔色が悪かった。機械人形のように歩き、はじめの前に食事を置いた。
はじめは終始、僕のコートから取れてしまったベルを転がしていた。チリンチリンと音が鳴る度に僕は青ざめた。
しかし、不思議なことにはじめの兄はベルの音に気づいていなかった。
はじめの手元もしっかり見ていたはずだが、ベルを取り上げることもなければベルについて何か言及することもない。結局、はじめの兄はそのまま部屋を出て行った。
「視えていない……? もしかして、あのベルは僕の服についていたものだから……?」
月の子は基本的に人に視えない。このルールがこんなことにも適用されるとは思わなかった。
兄が出て行った後も、はじめは僕のベルを鳴らして遊んでいた。はじめはベルをすっかり気に入ったようだった。
その時に僕は思った。これははじめに「プレゼント」しようと。
「はじめ、それ気に入った?」
はじめは頷いた。
「じゃあ、それはじめにあげるよ。お兄さんから視えないんだったら、はじめが殴られる心配も無いしね。そのかわり……」
「そのかわり?」
「来年まで、僕のこと待ってて。寂しい想いをさせてごめんね。けど、必ず会いにくるから」
はじめの目に涙があふれた。だが、震える唇をぐっと抑え、はじめは深く頷いた。
はじめはベルを胸に抱きしめ、一言呟いた。
「やくそく」
「うん、約束」
僕はそのベルに手を触れた。その途端、ベルから七色の光が浮かび上がった。驚き、目を見張るはじめに僕は微笑んだ。
思えば、「プレゼント」と名付けられたこの力を使うのはこれが初めてだった。
「来年もまた会えますように」――――この時の僕はおまじない程度のつもりでその力を使っていた。それだけは正しかったと思う。
そしてその先も、おまじないのつもりで使うべき力だったのだ。武器としてではなく。
蛍のように天井に昇っていく光からはじめは目を離さなかった。はじめは夢見るような瞳で言った。
「きれい……すてき……」
星のように瞬く光にはじめの瞳は吸い寄せられていた。やっぱり女の子ってキラキラしたものが好きんんだな。僕はその様子が面白く思えた。
それから僕はほっと息をついた。どうやらなんとかはじめは納得してくれそうだった。窓の外を見ると、もう陽が落ちて夜になっていた。僕は開かない窓を背にはじめに言った。
「じゃあ、はじめ。よいお年を」
「よい、お年?」
「一年が終わる日の挨拶だよ」
七色の光が消え去った後、はじめは僕に言った。
「いっちゃうの……」
「うん、ごめんね。でも、絶対また会えるから。じゃあ……さよなら」
僕ははじめの手を強く握り、離した。そして開かずの窓をすり抜けて終わりの日の夜空へ飛び出した。
振り返るとまたクラリとはじめに吸い寄せられてしまいそうだった。だから僕は振り返らずに漆黒の空を飛び続けた。
純白のコートが翻る度にコートに付いたベルの音が響いた。その音を聴く度に、はじめに託したベルの音を思い出した。
「明日」また、はじめに会える。僕の心は弾んでいた。
そう、はじめにとっては334日後でも、僕にとっては明日なのだ。
白い雪原に華が咲いたような気分だった。
なぜ人間のはじめに僕が見えたのか。その意味などあの時は全く考えていなかった。