97話 亜澄
「先生、きょうで終わりなんですか」
「うん、ボクは臨時の代理だったからね。次回から小魚遊先生が復帰するよ」
こうして代理の家庭教師はわたしの前から姿を消した。
わたしは最後まで想いを伝えることができなかった。
あの人は大学生。わたしは中学生。
もともと結ばれることなんてありえなかった。
――もう、あの先生のことはすっかり忘れたものだと思っていた――
サクラの咲く春、わたしは高校に入学した。
クラスは1年4組。同級生たちのいる教室をさらりと見回した。
あるところで視線を止め、瞬きする。
えっ、先生?
もちろん違った。先生よりちょっと小柄だし、顔立ちもずっと幼い。それどころか、わたしより1学年下にさえ見えてしまいそうだ。
彼は佐藤くん。先生にそっくりとまではいかないが、どことなく似た顔立ちだ。
ああ、先生のことを思いだしてしまった……。
◇ ◇ ◇
「亜澄ぃー」「いっしょに帰ろー」
雛夏と優衣だ。
わたしはすぐに友達ができた。いいクラスに入ってこれてよかった。
だけど佐藤くんはいつも1人でいる。1人が好きなのだろうか。少なくとも積極的に他人と話すタイプではなさそう。
思いきって幾度か話しかけたこともあった。だけどいつも素っ気なかった。
わたしの目はそんな彼をときどき追っていた。
このときもそうだった――。
「亜澄、何を見てるの? 窓の外に何かあった?」
「ううん、別に」
雛夏がいっしょに窓をのぞく。
「ああ、あの子、加藤くん……だったかな」
佐藤くんだよ。
雛夏から聞いた。彼はオタクっぽい趣味があり、絵を描くのがとても上手。でもその絵がちょっといやらしくて、胸部にはこだわりを持っているとか。
「亜澄ぃー。そんなことよりさあ、有村たちから誘われてるんでしょ。みんなで映画見にいこうって。どうせそのあと、ちょっと遊んで帰ることになるんだろうね。いいなあ。あたしも誘われたいな……といって亜澄の顔を見る。ジロっ」
「うん。もし映画にいくことになったら、雛夏と優衣も誘うから」
「やったあ。じゃあ、いこう。ね、ね?」
実のところ、あんまり男女大勢でぞろぞろ街を歩くのって好きじゃない。
いくのなら女の子同士がいい。あるいはカレシができて2人きりとか。
だけど雛夏がこうも乗り気ならば、いくしかなさそうだ。
窓の視界から佐藤くんが消えていた。
雛夏に視線を戻す。
「誘いを受け入れる場合として、男子たちに1つ条件つけちゃおうっかな」
「なに、なに? どんな条件を課すの」
「ほら、佐藤くん、いつも1人でしょ。男子の中に佐藤くんも含まれるのならいくって」
「もしかして、亜澄。あんた、まさか佐藤くんのことが……」
「違う違う。さっきいったとおり、あの子、いつも1人だからだよ。クラスにそんな子がいるっていうのが、なんかイヤなだけだよ」
「そんなムキにならなくても誤解しないから。だって、あの加……佐藤くんだし」
佐藤くんの名前、また間違えそうになったでしょ?
翌日、有村くんたちには、その条件つきで誘いをOKした。
変な誤解をされないように話したつもりだけど、大丈夫だろうか。
「さすが優しいな」
なんていっている。その言葉は本心だろうか。大きな誤解をしたうえに、皮肉をいっているのでなければいいのだけど。
有村くんは、席にぽつりと座っている佐藤くんを一瞥した。
「佐藤くんねえ。別にいっしょにくるのは構わないんだ。でも正直なところ、誘いづらいな。彼、心がデリケートそうだから、どう話しかければいいのやら」
結局、わたしが声をかけることになった。
こういうことになるのなら、あんな条件をださなければよかった。
映画にいくのは今度の土曜日だ。それなら、きょう中に佐藤くんに声をかけておいたほうがいいだろう。
しかし、とうとう声をかけられないまま、放課後がきてしまった。
あしたは絶対に話さなくちゃ。
……そう思いつつ、帰宅途中の足を止める。
確かこの道って、佐藤くんの帰宅ルートでもあったんだっけ。
別にわたしはストーカーではない。彼がここを通っているのを、単にたまたま目撃したことがあっただけだ。
そうだ! いま誘っちゃおう。
脇に公園がある。
佐藤くんがここを通るまで、ブランコに座って待つことにした。
佐藤くん、そろそろ通りかかる頃かな……。
いきなりわたしがでてきて声をかけたら、彼はビックリするだろうか。
そんな顔も見てみたい。
だけどせっかくの誘いを、素っ気なく断られでもしたら……。わたし、まるで馬鹿みたいだ。傷つくかも。それに、あしたから顔を合わせるのが、気まずくなったらどうしよう。ちょっと怖いな。
きた。佐藤くんだ。
あれっ、どうしてわたしが緊張しているの? さっき変なこと考えたからかな。
声をかけなくては。
早く、早く、早く。彼がいってしまう。
思いきって声をかけた。
反応はなかった。
聞こえていないようなので、もう一度、彼の名を呼ぶ。
やっと気づいてくれた。
公園の生垣をぐるっと回る。
わたしは何故か走っていた。走る必要なんてなかったのに。
佐藤くんを目の前にして息を切らしてしまった。
何やってるの。わたしってカッコ悪い……。
「あのね、佐藤くん」
今度の土曜日、予定は空いているだろうか。
空いていたとしても、きてくれるだろうか。
「おれ、急いでいるんだ。だから話は簡潔に頼む」
え……。
やっぱりわたしに声をかけられるのって、迷惑だったんだ。
「ごめんなさい」
誘いづらくなった。どうしよう。誘っても断られるに決まってる。
不思議だな。どうして断られることがこんなにも……。
ところが彼はすぐに態度を変えてきた。
「あっ、いや、こっちがごめんなさい。ちゃんと聞く。それで話って?」
彼は優しい人なのかもしれない。
「うん、あのね……」
次の土曜日、空いてますか? 空いているのならいっしょにきてください。
心臓の鼓動が高鳴る。もう破裂しそうだ。
わたしは頭の中がパニックを起こしていた。
そのためだろうか。
ほんの一瞬、そう、ほんの0.05秒ほど、彼の顔が先生に見えた。
「……つきあってください」
違う! 何をいってるの、わたし!
彼は先生じゃない。
あーーーーーーーー、どうしよう。
死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。
「えっ?」と呆れる佐藤くん。
その刹那――。
佐藤くんにトラックが突っこんできた。
ズッゴーン。
撥ねとばされた彼の体が、わたしを直撃する。
強烈な勢いでわたしの体を弾きとばした。
体が上下逆さまになって落ちたところは、硬いコンクリートの歩道。
わたしは後頭部に強い衝撃を受け、そのまま命を落としたようだ……。
魂が体を離れて上昇していく。
そんな。わたし、本当に死んだの?
他人の事故に巻きこまれたのだ。
佐藤ぉーーーーーーーーー!
わたしの未来を返せーーーーーーーーーーーー!
わたしが佐藤に関わろうとしたのがいけなかった。
アイツに関わらなければ、まだ生きていられた。
逆の立場から見れば、佐藤こそ被害者だった。
わたしに声さえかけられなければ、撥ねられずに済んだのだ。
けれども、このとき佐藤が憎くて堪らなかった。
わたしは深い谷で目を覚ました。
あれ? 死んだのではなかったの?
目の前に小さな子供がいた。
その子がわたしに告げる。
「ようこそ。ここはあなたにとって異世界です」
ちょっとちょっと何よ。異世界って。
「あなたは何者?」
「シン先生の使いの者です。1人の女の人がこのタシナバンバ渓谷に現れると、偉大なシン先生が占いにて予言されました。あなたを迎えにきたのです」
無一文のわたしは、シンという占い師のもとへいかざるを得なかった。
長い山道を歩きながら、その子供からこの世界のことを教えてもらった。
そして占いの館でしばらく厄介になった。
悲しいことにわたしの職業はサドゥヴィというものだった。
基本的には金銭を所持できないのだ。
それでも、もとの世界に帰れる可能性があるのだといわれた。
その鍵を握る人物がもうすぐここにやってくるらしい。
その人物とは佐藤だった――。
あの憎らしい佐藤だったのだ。
彼への憎しみが理不尽なものだとは、頭では理解していた。
だけど憎いのだからしょうがない。
しかし彼らと旅を続けているうちに『理不尽な憎しみ』は徐々に消えていった。
こっちの世界にきてから、あまり人前で笑顔なんて見せることはなかったが、実際、旅は楽しかった。
魔王なんて倒さずともいいから、ずっと旅をしていたかった。
ところがインドラの雷のせいで、この世界はほとんど滅びかけてしまった。
だからもとの世界に帰るしかなかった。
わたしはリリサにしがみつき、もとの世界に戻ってきた。公園の前だった。
そこに佐藤がいた。リリサもいた。2人とも気を失っている。
佐藤を撥ねたトラックが止まった。
わたしの恰好は、向こうの世界にいたときのものだ。
布や魔法アイテム『僧侶の証』を入れておいた麻袋がなくなっている。その代わりに、この世界に残してきた通学鞄があった。一方、左手でしっかり握っていた『癒しの杖』はここにある。
ということは着衣していたものと、手に握っていたものだけが、こっちに持ってくるのを許されたわけだ。
癒しの杖……。こんな便利なものを持ってこられるなんて!
わたしも佐藤もリリサもケガをしている。
じゃあ、みんなのためにここで使ってみようか。
トラック運転手がおりてこないうちに。
コツ、コツ。
癒しの杖でコンクリートの歩道を叩いた。
ケガをしたところが、お灸を据えられたように熱くなっていく。
それが急激に冷えてくると、ケガの痛みはなくなった。
佐藤とリリサのケガも治っているようだ。
ところがミシミシという音とともに、癒しの杖にひびが入った。そして砕けてしまった。
この世界では1回使っただけでオシマイなの?
だけどわたしも含めて皆のケガを治せたんだから、これ以上の贅沢なんていえないか。
運転手がおりてきた。だいぶ慌てているようだ。
わたしはいってやった。
「彼なら大丈夫です。ケガはありません」
それでも運転手はスマホをとりだした。
わたしの話を信じていないようだ。
「いま119番に……」
「待ってください。大丈夫ですから」
「だけど」
「本当です」
運転手は救急車を呼びたがっていたようだが、どうにか断った。
彼のトラックはやっと走りだした。
佐藤もリリサももうすぐ起きるだろう。
2人を公園のベンチまで運んでやった。
わたしは公園から立ち去っていく。
あなたたちとの旅は、これでおしまいね。
もうわたしはカスミではない。亜澄だ。
ここからはふたたび亜澄として生きていく。
佐藤たちのことは忘れたことにする。
でないと、学校でどんな顔して佐藤と接していいのか、わからないから。
さようなら。元気でね。
◇ ◇ ◇
その夜、偶然にもショッピングモールで、佐藤たちと再会した。
わたしは本名の亜澄で押しとおす。カスミなんて知らない。
すると強引な佐藤に、駐車場へと連れだされた。
「おーい」
佐藤を呼ぶ声が聞こえた。
声のもとへ目を向ける。その顔を見てハッとした。
先生がいる!
何故ここにいるの。
まさか……もしかして。
「兄貴だ」
「お兄……さん?」
嘘でしょ。
先生って佐藤のお兄さんだったの!?
だからちょっと似ていたのね。確かに苗字も同じだったけど、佐藤って日本一多い苗字だから、単なる偶然の一致だとしか思っていなかった。
それはともかく先生と再会できたことに感激した。
ふたたび恋心が膨れあがった。
ところが先生はわたしの顔を見ても、なんの反応も示さない。
顔を覚えていないの? 家庭教師をしてくれた1ヶ月半を忘れたの?
何も知らない佐藤が先生を紹介する。
「そう、あれが兄貴だ。隣にいるのはアネなんだ」
ふたたび衝撃に襲われた。
「姉っ!?」
その言葉にとても嫌な予感がした。
どう見ても外国人だ。佐藤とは血の繋がった姉弟であるはずがない。
ということは……。
佐藤がいう。
「兄の嫁ってことだよ」
初恋は再燃してからたった15秒ほどで、また終わってしまった。




