93話 零
魔王により、トアタラは呪いが完全に解かれ、ムカシトカゲに戻ってしまった。
おれは小さくなった彼女の体を、しっかりと胸もとに抱いている。
「トアタラ、おれの言葉はまだわかるか? お前はいまでも美しいよ」
涙がとめどなく流れおちていく。
許さねえぞ、魔王。
魔王は笑いつづけた。
「悔しそうな顔だね。そうでなくちゃ」
「許さねえ」
「許さないの? いいね、いいね」
魔王が細い人差し指を立てる。指先に小さな光の玉が生じた。
「ねえ、面白いものを見せてくれたご褒美に、ボクも見せてやるよ。この世で最大魔法をね」
指先の光が膨張する。
光の玉はソフトボール大となり、バスケットボール大にまで成長した。
なおも大きくなりつづけている。
おれはトアタラを抱えたまま、体を後ろに向けた。
リリサとカスミの顔を見るのも、たぶんこれで最後になるだろう。
2人に低頭する。
「ごめん、リリサ。おれ、すべてを壊してしまうかもしれない」
「あれを使う気なのね。わかったわ。わたしの呪いが解けないんだったら、こんな命いらないから」
「ごめん、カスミ。おれ、すべてを消してしまうかもしれないんだ」
「思いっきりやりなさい。まだ何が起こるか、わからないってだけでしょ。そもそもこんな状況じゃ、どうしようもないから。あなたに賭けてみるわ」
いまからおれは特技インド『ゼロの発見』を発動させる。
ゼロ……怖い言葉だとずっと思ってきた。
この特技はどこまでを無にしてしまうのだろう。
敵の存在か? おれの存在か? この世界か? この宇宙なのか?
これまで魔王がしてきたことより、さらに罪深い悪行を為すのかもしれない。
おれは特技インドの一覧を脳内に浮かびあがらせた。
そこに『ゼロの発見』の表示がある。躊躇することなく選択した。
もうキャンセルはできないのだと、耳に聞こえてきた。
魔王の光は直径5mを越えていた。なおも成長を続けている。
「おや? ボクの魔法をあまり怖がらないようだね。これがなんなのか、わかっていないからかな。いいや、インドラの雷を知らないわけないよね。でもあれはまだ序の口。今度の魔法はその数倍の威力があるんだ。マハー・インドラって、名づけようと思ってる。もうすぐキミたち人類の最後となるんだよ。実はね、近々これを発動させようと思っていたところなんだ。数ヶ月前のインドラの雷は、肩慣らしみたいなものだった。ん? どうして笑った?」
「ほんの少しだけ肩の荷がおりたからだ。ありがとう」
そうさ。魔王はいったんだ。
――近々これを発動させようと思っていたところなんだ――
どっちみちこの世界にいる人類の最後になるんだったら、おれがゼロの発見ですべてを消滅させたっていいじゃないか。
「ありがとう、だって? 頭がおかしくなったのかな。それとも、もともと頭がアレだったのかな。まあ、いいや。キミたちはすぐに死ぬんだ」
「佐藤ぉーーーーーーー」
悲鳴のようなリリサの叫び声。
続いてカスミの声も聞こえた。珍しく冷静さを欠いている。
「足よ、足っ!」
足? 下を向くと、おれの脛より下が消えていた。
やがて膝までなくなった。
ああ、ゼロの発見って、おれだけがゼロになるものだったのか。
これは参ったな。魔王に勝てなかったか。
ん? そうでもなさそうだ。
魔王の体にも異変が現れはじめた……。
体全体が透きとおっていくではないか。
ただし、うっすらと少しずつ。
魔王もそれに気づいたようだ。
「う……なんだ、これは。ボクの体が消えていくって?」
一方、おれの両足は完全に見えなくなっていた。
「佐藤っ」
消えつつあるおれの体に、リリサがとびついた。
「佐藤っ、佐藤っ、佐藤っ。消えないで!」
魔王の指先からでている光の球体は、膨張が止まった。
「な、何故だ。どうしてマハー・インドラが止まってしまうんだ」
狼狽する美少年の顔を眺めていると、ちょっぴり胸がすかっとする。
だけどおれも、もうじき終わりなんだ。
この体もヘソより下はなくなっている。
魔王が発した光は完全に消えた。
そして魔王自身もほとんど透明化している。ちょうどその向こう側に、扉が透けて見えてきた。
ああ、また扉かよ。あんなところには何もなかったはずだが、いま現れたってことか。きっと魔王が隠していたんだろうな。
扉に文字が書かれている。
この異世界の文字だ。
―― インドへの扉 ――
そのように記されていた。
じゃあ、あの向こうがもとの世界のインドなのか?
「あああああああああああ! 消えていくー」
魔王はそう叫びながら消えてしまった。
魔王が消えたからといって、特技『ゼロの発見』はキャンセルできない。
おれの体もどんどんなくなっていく。掴んでいるのはリリサだ。
おれの両手は指先から消えつつあった。
トアタラを抱えている腕部分も、当然ながら例外ではない。
おれは両腕を失い、トアタラはするっと下に落ちた。
ムカシトカゲのトアタラがまっすぐ這っていく。
インドへの扉の前までいくと、それが開いた。
トアタラがそこを抜ける。
「トアタラーーーーーーーーー」
叫んでみたが反応はなかった。
もう人間の言葉は解さないのか。
そうだよな。これから彼女は本来のムカシトカゲとして生きていくんだ。
「……元気でな、トアタラ」
すると今度は、まるで言葉が通じたかのように、横顔を見せた。
そして前に向きなおり、扉を越えていった。
彼女を追うのはニナだった。
「ど、どこへいくんですか。このローブを返さないと……」
しかしニナは扉を潜れないでいる。扉に何かをひっかけてしまったみたいだ。
トアタラに借りていた『魔女のローブ』の袖を掴み、カチャカチャと音を立てている。どうやらローブに括りつけられた突起物が原因だったらしい。ニナはそれを手で握りしめ、やっとのことで外したようだ。
ニナは手に何かを掴んだまま、扉を抜けていった。
扉が閉まる。
「ああ、そうだ。扉の向こうはきっとインドなんだ。おれもそこを越えれば、もとの世界に帰れるかもしれない。消えつつあるこの体も、もとに戻るかもしれない」
「そうね! そうよ」
胸より下がなくなったおれの体を、リリサが運ぶ。
扉の前にきた。
「扉よ、開いてくれ! おれ、インドにいきたいんだ」
しかし扉が開くことはなかった。
もとの世界に帰れないのか。
思いだした……。
シン先生がいってたっけ。
どれだけインドに行きたいと願っても、行けない人だっている。
インドに行けるのは、インドに呼ばれた者だけなのだ。
おれはインドに呼ばれなかった……のか。
「リリサ、放してくれ。でなければ、お前の体も、おれと一緒に消えてしまうぞ」
「もう遅いわ。わたしの体もだいぶ消えているから」
「リリサ?」
「大丈夫。一緒だから」
「佐藤ぉーーー! リリサァーーー!」
最後に聞こえたのはカスミの声だった。




