56話 シン先生
シン先生のいる館の前に立った。
んんん?
忘れていたことを、思いだせそうな気がしてきた。
あともう少しだ。なんだったっけ……。
「そこ邪魔。つっ立ってないで、早く戸を開けて」
無遠慮な口の利き方をするのは、もちろん案内人だ。
そんな案内人に尋ねる。
「ベルレイムってどっちの方角だっけ」
思いだしたいものは、城下町ベルレイムに関係すると思う。
案内人は舌打ちのあと、右斜め後ろを指差した。
その方角にふり返る。ベルレイムはあっちか……。
風で枯葉が舞っている。木々の枝も揺れている。塀に立てかけてあった棒が倒れた。
あっ、思いだした!
だからといって喜べなかった。いまさら思いだしても遅すぎるのだ。
頭を抱えて天を見あげた。
モップ。
そう、あれは武闘大会準決勝の直前のことだった。トイレでこっそりモップを借りたが、試合中に壊してしまったのだ。大会が終わってから謝って弁償しようと思っていたのに……。
「ごめん、みんな。ちょっといってくる」
「いくってどこへ?」
リリサが袖をひく。
「ベルレイムだ」
「はあ?」
呆れ顔のみんなに、モップの件をうち明けた。
「過ぎたことです。もう気にせずともいいと思います」
トアタラが優しい言葉をかけてくれた。
「そうはいかないって。確かにモップなんて安価なものだ。でもカネで解決すればいいってものじゃない。ほら、いつだったかな。すべてカネの問題にしようとする姿勢を、峠の番人が残念がってたじゃないか。ステレオタイプの人間だとかなんとかいって。まったくそのとおりだろ? 正直に話して謝ることが大切なんだ」
リリサとトアタラの細めた双眸が、どこか軽蔑を含んでいるように見えた。
「佐藤は峠の番人に可愛がられてたもんね」とリリサ。
「そ、それは関係ねえだろ」
リリサは祈るように両手を合わせ、天を仰いだ。
「あそこの闘技場って侯爵が建てたものよね? つまりすべてお偉方の所有物。清掃のおじさんやおばさんたち、道具管理の不行き届きで重罪になるんじゃないかしら。ああ、きっとご家族もいらっしゃるだろうに」
おれは自分の顔が青ざめていくのを感じた。
早くベルレイムにひき返さないと。
「いってくる」
「待って!」
リリサが止める。
「まだ何か?」
「モップのことは最初にトアタラがいってたように、もう気にしなくていいのよ。実をいうとね、佐藤の失神中に同行係員から聞いてたの。トイレから勝手に持ちだしたモップを武器にしてたって。でもそれについては大丈夫。わたしたちが代わりに謝っておいたから」
おれはみんなに頭をさげ、心から礼を述べた。
そしてぼそりと呟いた。
「だけど弁償くらいはしておきたかったなあ……」
「それなら案内人に感謝するのね。新しいモップを買うまでもなく、代わりのを持ってきてくれたから」
「えっ? 案内人はカネを持ってなかったはずでは」
「道具屋へいって喜捨させたんだって。しかも上等の新品を」
喜捨って。それ、すげえな。
すっかり肩の荷がおりて、気分がラクになった。
あらためて案内人に礼をいうと、舌打ちが返ってきた。
「たかがモップで騒ぎすぎ。馬鹿じゃないの? 早く戸を開けてくれない?」
「ああ、ごめん。いますぐ開ける」
館入口の戸を開けた。
すると子供がでてきた。
顔に見覚えがある。シン先生の弟子だ。
薄暗い部屋に通された。
椅子に座って待っていると、シン先生が現れた。
相変わらずご尊顔は仙骨を帯び、全身からはオーラを放っていた。
彼が最初に声をかけたのは、案内人に対してだった。
「ご苦労」
案内人はこくりと会釈のみを返した。
シン先生の視線がおれに流れた。
「例のものは?」
「はい、ここにあります」
大会優勝者のサバールに譲ってもらった副賞を差しだした。
トサカ鬼の角だ。
「これはなんだ」
「だからトサカ鬼の角です」
「いらんわい」
シン先生はそれを投げかえしてきた。
えーと……どういうことだ。理解できない。
リリサが前に踏みだす。
「あなたがトサカ鬼の角を持ってこいって要求したから、苦労して手に入れてきたんでしょ」
「勘違いするな。そんなことは誰もいってなかったぞ」
シン先生が首を横にふっている。
待て待て、それはおかしい。シン先生が自分でいったことじゃないか。
リリサは柳眉をつりあげた。
「いったでしょ! 嘘つかないで」
「いいや、タシナバンバ渓谷に住むトサカ鬼の角だといったはずだ。下級トサカ鬼の角などいらんわい」
なるほど確かに『タシナバンバ渓谷』のトサカ鬼だといっていた。
ということはすべて徒労だったわけか。
シン先生がくんくんと鼻を鳴らしている。
そしてニヤリと笑った。
「なんだ、お前たち。人が悪いな。ちゃんと持っているではないか、タシナバンバ渓谷に住むトサカ鬼の角を」
みんなが、ぽかんとなった。
誰も持っていないはずだが。
シン先生の指がまっすぐおれの背負い袋を差している。
これか? 背負い袋ごとシン先生に差しだした。
彼が中からとりだしたのは、峠の番人からもらった土産だった。
「おお、これだ、これだ」
すこぶる嬉しそうだ。
おれたちは驚愕するばかりだった。
峠の番人の土産って、トサカ鬼の角だったのか。なんたる僥倖。
これでインドからきたという人物の居場所を占ってもらえるわけだ。
「それ、あげますから、きっちり占ってくださいね」
「わかっとる、わかっとる」
シン先生は箱に頬ずりを始めた。
「ところでなんの占いだったかな」
「ですから、インドからやってきた人の居場所を知りたいんです」
シン先生の緩んでいた顔が真面目になった。
じっとおれの顔を見ている。
「あの、占ってくれるという約束でしたよね」
シン先生は箱をひきだしに仕舞い、コホンと咳をした。
「占うまでのこともない」
「どういう意味ですか?」
彼の目がきらりと光った。
「インドからやってきた者ならばここにいるではないか」
えっ?




