16話 月明かり
泊まった宿はホテル・バラーティオ。
おんぼろだった。
真夜中、目が覚めた。シャワーを浴びたいが、そんなハイテク機器は存在しない。それどころかこの宿には、客が自由に使用できる井戸すらない。
だが近くに湖がある。これは使えるかも?
タオルを持って湖に向かった。こんな真夜中に外出している者はいなかった。月は薄らと雲に隠れているため、足もとには注意が必要だ。この異世界に懐中電灯なんていうものはないのだ。
湖に到着。
さっそく全裸になった。大丈夫、ここには誰もいやしないさ。
ゆっくりと湖水に浸かる。水がちょっぴり冷たい。でも気持ちがよかった。星が半分雲に隠れているのが残念だ。
石鹸を持ってくるべきだったな。明日の晩は持ってこよう。
ちゃぷん、と後ろで音が鳴った。
大きな魚でも跳ねたか?
そして鼻歌も……。つまり魚ではない。人がいる? おいおい真夜中だぞ。
奇妙に思い、ふり返ってみた。
まさにそのときのことだ――。
雲から月が顔をだした。明るい月光が一帯を照らす。
目の前に女の子がいた。
えっ!?
上半身が水面からでている。
生まれて初めて女子の裸体を生で目にした。しかも間近で。
そういえば……。彼女の顔を思いだした。女像を慰めるために歌っていた歌女だ。
こんな時間に水浴にきていたのか。ああ、こんな時間だからこそか。
彼女と目が合った。
キャーという悲鳴とともに、グーのパンチがきた。まともに喰らったが、女の子であるため力はあまりなく、ノックアウトには至らなかった。
おれはすぐに背を向けた。
「な、何も見ていません。見えていませんでした!」
「見たでしょ。嘘つかないで」
「本当です」
では、証拠を示してやろう。
メガネを外した。後ろ向きのまま、それを彼女に差しだす。メガネにはかなりの度が入っているのだ。
「騙されたと思って顔にかけてみてください」
メガネは彼女に受けとられた。
「まあ、本当に。ぼやけて前が見えません……」
「でしょ? だから安心してください。なんにも見えていませんでした」
※いいえ、佐藤はしっかりと見ていました。
「じゃあ、どうしてこんなものを顔にかけていたのです?」
「え、えっと、魔法の修行みたいなものです。では、もう帰ります。ごちそうさまでし……いえ、さようなら」
メガネを返してもらうや、急いで湖からでた。タオルで体を拭く余裕などなく、逃げるように宿へ戻る。
いやあ、びっくりしたなあ、もう。
そして朝がきた。
ぎょええええええええ。
起床とともに悲鳴をあげた。壁に小さなトカゲがいたのだ。
駄目だ、このおんぼろ宿。
いくら安宿だからといったって、トカゲのでてくるような部屋に泊まれるかっ! 死ぬかと思ったぞ。
即時、宿をチェックアウトした。
別の宿屋を探している暇はないため、その足でギルドに向かった。雑用の仕事があるのだ。
ギルドの仲間にトカゲの話をすると、みんなが笑った。
「だけどよう、佐藤。泊めてもらう前に、ちゃんと部屋の中までチェックしたのか?」
「部屋の中のチェック?」
「中を見て料金と釣りあわないと思ったら、宿泊しない。あたりまえのことだ」
どうやらそういうものらしい。
午前は清掃に励み、昼休みを迎えた。
この町の昼休みは長い。シエスタの習慣があるのだ。この時間を利用して、市場へと向かった。ギルド仲間がいうには、市場は安い食堂も集まっているそうだ。
途中にペットショップがあった。きのう少し寄らせてもらった店だ。店員さんの顔が見えた。昼時なのに店を閉めてシエスタしないのか。あるいはこの時間帯こそ稼ぎどきなのか。
その店員さんのほかに、もう1人……。おれは驚愕した。
「トアタラじゃないか」
「あっ、佐藤!」
トアタラが無邪気な笑顔になった。彼女は間違いなく美少女だ。だがその美しさはグラナチェとはまったく正反対に位置している。トアタラは素朴で自然な美しさを持ち、グラナチャはゴージャスで洗練された美しさを持っている。
そのトアタラが店からとびだしてくる。
しかし彼女が近づいてきた分だけ、おれは無意識に後退してしまった。
彼女は察したらしく足を止めた。
おれは心の中で謝った。本当に自分が嫌になる。彼女はもう完璧な人間なのに、どうして怖がってしまうのだろう。
「わたし、ここでお仕事をもらいました」
彼女は遠い位置から告げた。
「そうか、やったな!」
自分のことのように嬉しかった。この町で一人でやっていけるのかと、おれはずっと気がかりだったのだ。ああ、このことをバクウにも知らせてやりたい。
彼女は恥ずかしそうに、ほんのちょっとうつむいた。
「はい。ステータス上、わたしの職業は愛玩動物となっていますので、商売するような業種のところでは、なかなか雇ってもらえません。ですがアルバイト程度でしたら問題ないそうです。ただしお給料は安く設定されてしまいますが。それでも職がないよりはマシです。残念ながら愛玩動物のギルドは見つかりませんでした」
この世界では自由に職業を選択するということが難しいようだ。
「働き口が見つかっただけでもヨシとしようぜ。実はおれも仕事を手に入れたんだ。きのう踊り子のギルドにいってさあ、プロの踊り子とはいかなかったけど、そこで雑用をさせてもらうことになった」
「就職おめでとうございます」
「またここへ遊びにくるよ。もっと話をしようぜ」
もっと話をしようぜ――。そう、おれはトアタラにもっと近づけるようトレーニングを始めたのだ。しかしまだ彼女にはそのことを話さなかった。
トアタラと別れ、市場へと急いだ。そして精肉エリアに到着。さあ、トレーニングの開始だ。
きょうはイグアナから約9mほど離れた場所を、スタート地点だと決めていた。もちろん目見当なので正確な距離ではない。イグアナから9m手前だと思える位置に立った。
深呼吸する。やはり怖い。ここで夕べの歌女のことを思いだした。彼女にはメガネが魔法修行のためのものだと嘘をついた。そうだ、メガネだ!
メガネを外した。前がぼやける。イグアナは見えなくなった。これならもっと近づける。1歩1歩近づいた。もう5m手前くらにまできたかな。ぼんやりとイグアナっぽいものが見えているだけだ。でもこのあたりが限界だ。
その場をダッシュで離れる――。
次のステップに移行しよう。
ここでメガネをかければ、実に恐ろしいことだが、イグアナの姿や形が明瞭になる。しかしきちんと見ないことにはトレーニングにならないのだ。思いきってメガネをかけ、イグアナに目をやった。
おおおおお、という悲鳴をぐっと堪えた。
それでも咄嗟に後退したので、通行人とぶつかってしまい、尻もちをついてしまった。もちろんすぐに謝った。しかし彼は何もいわず去っていった。
そのとき……。
「捕まえてくれ」
さほど遠くからの声ではない。何があったのだ?
こっちへ向かってくる中年の男がいる。イグアナを追っていた。きっと逃げだしたイグアナだ。おれはこの恐怖に身をすくめることしかできなかった。反対側からも別の男が走ってくる。イグアナを挟みうちにするつもりらしい。両者がイグアナに迫る。イグアナは横跳びした。おれの顔に着地。
おれはその場で気絶してしまった。




