プロローグ 転生前
この春から高校生生活が始まった。クラスに同じ中学出身の生徒はいない。見知らぬ顔ばかりでとても新鮮だ。初めの数日間は、座席の近い生徒から順に、1人1人の人物を把握しようと努め、互いの距離感や位置関係を手探りするのだった。
4日目ともなれば新しい環境に少しは慣れせいか、いくらか心に余裕が生じ、つい気が緩みがちになってきた。そして授業中に何気なく鉛筆を持った手が、ノートいっぱいにいたずらを始めたのだった。
授業終了のチャイムでハッと我に返った。ノートに描かれているのはおれの嫁、そう、二次元嫁だ。
はぁ、なんてことをしてしまったのだ。完全に油断していた。この手の落書きは中3で卒業したはずだったのに。ちなみに下世話にいう中2病も、早々と中3で卒業している。
とにかくこの絵を他人に見られたら、危機的に破滅的に終末的にマズい。周囲から妙な誤解を受けてしまうだろう。いや、誤解ではないか。
慌てて消しゴムを手にとった。他人に見られる前に消さなくてはならない。いいや、そんな悠長なことなどしていられない。もう休み時間に突入したのだ。消すのは家に帰ってからでいい。いまできることは、さっさとノートを閉じ、机の中に仕舞うこと。それを可及的速やかに実行しなければ、絵を消しおわる前に誰かに見られてしまう。
「大川くん」
左隣の席に座る女子の声。おれは大川ではない。大川の席は彼女の左隣だ。
「じゃなかった。佐藤くん」
彼女はいい直した。佐藤はおれの名だ。さっきは名前を間違えたらしいが、そんなことはどうでもいい。彼女にあの絵を見られたかもしれないのだ。もしそうだとすれば最悪だ。心臓がバクバクしてきた。でもノートはすぐに閉じたはずだ。そうさ、きっと大丈夫……。
「絵、巧いんだね」
見られていた!
ハイ、おれ終了。高校生活4日目にして、楽しいはずの3年間が、これからさき地獄と化していく。
当然のことだが、彼女のいう『巧いんだね』は褒め言葉じゃないことくらい、よく理解している。仮に巧いというのが嘘ではなかったとしても、そこにリスペクトなんか一切ない。
「何、何、どうしたの」
ほら、声に反応した生徒たちが寄ってきたぞ。どうするんだ?
「佐藤くんって、ノートに描いていた絵がとっても巧いの。プロの漫画家さんみたい」
「ノート? ああ、これか」
後席の男子だ。机の中に仕舞っておいたノートを勝手にだし、ページをめくる。
「おい、コラ! 勝手に見るな」
慌ててノートをとり返したが、すでに遅し。多数の生徒に見られてしまった。やや幼顔で胸を強調した絵。別に拝乳主義者ではないが、おれの画風なのだ。これを見た奴が、今後どんな視線をおれに送ってくるのか? それは容易に想像できる。
貼られたレッテルは簡単に剥がせるものではない。ああ、もうどうにでもなれ。キモオタと呼びたければ呼ぶがいい。
この日から周囲の男子生徒は、あまり近づいてこなくなった。つまり友達を作る機会を失ったわけだ。わかっている。別にみんなを恨んだりしないさ。親しくすることで同類に思われたくないのは当然。それにおれは、いじめられているわけでも、無視されているわけでもない。ただある程度の距離を置かれているだけだ。親しげな笑顔はないけれど、愛想笑いならばいくらでも返ってくる。
日が経つにつれ、呼び捨てやあだ名で呼びあう声が普通に聞こえるようになったが、おれに対しては誰もが『佐藤くん』。くんづけのままだ。
1ヶ月経っても状況は変わらなかった。帰宅途中だったおれは、ぼんやりと曇り空を見あげた。そういえばここ最近、ほとんど口を開いていない。声をだしていない。大丈夫だろうか。これほどまで他人と話さなくなると、口が退化してしまうのではないか、と不安にもなってくる。コホン。あー。
「バスガス爆発、バスガシュばあく発、バシュガスばきゃひゃか……」
はぁー、思ったとおりだ。すでに舌と口周りの筋肉が鈍っている。おっと、うっかり早口言葉を声にだしてしまった。この独り言を他人に聞かれてはいないだろうか。
前後を確認する。交通量の多い車道とは違い、歩道には誰もいなかった。ああ、よかった。大丈夫だ。
「佐藤くーん」
あれ? 大丈夫じゃない? おれを呼ぶ声だ。空耳ではない。誰もいないっていうのは勘違いだったか。となると……
マズいぞ。独り言を聞かれていたかもしれない。もし同じ学校の人だったら、キモ人間のレッテルが、ますます強固なものにされてしまう。いいや、待て。おれが呼ばれたとは限らない。佐藤なんて苗字はゴマンといるのだ。全国で200万人くらいいるとも聞いた。しかし周囲に人がいないとすると、やはりおれを呼んでいたのか。ならば知りあいか? 声の主は誰だ? どこにいるのだ?
「佐藤くんってばー」
あそこにいたのか。声は通り道の前後ではなく、左手の公園からだった。ブランコに腰をかけてこっちを見ている人物が約1名。その顔をじっくりと見てみる。
ギョエーーーー。同級生だ。
亜澄さんではないか。なんてことだ。いや、待て。冷静になれ。そもそも彼女のところまでは距離がある。おれの独り言は聞こえていなかったに違いない。さっきは彼女の声が大きかったからこそ、おれの耳に届いたのだ。
ちなみに彼女はクラスで1番人気の女子生徒――そのくらいはボッチのおれですら知っていることだ。ルックスよし、学力も上位。それから明るくまっすぐな性格で、誰とも親しくできるタイプ。おれとは真逆の人生を歩んでいる。
正直、彼女のことは嫌いだ。別に憎んでいるわけではない。ただ彼女を見れば見るほど自分がみじめに思えてくる。だから彼女に近づくことを避けていた。なるべく見ないように心がけていた。
そんなこっちの事情も知らず、彼女はたびたび話しかけてくる。おれのようなキモ男に対しても、平等に接するのが自分の使命だとか思っているに違いない。あるいは自分が博愛主義者だということを周囲にアピールしているのか。とにかくおれはそんなことに利用されているだけなのだ。
亜澄さんが寄ってきた。公園の生垣越しにいう。
「話したいことがあるの。だから佐藤くんがここを通るのを、ちょっと待ってたんだ。いま時間あるかなぁ?」
「少しくらいなら」
「よかった。じゃあ、いまそっちにいくね」
彼女は小走りで公園の生垣を回ってきた。おれの正面に立つと、荒くなった呼吸を整えた。上目遣いに見つめているが、どうしたのだろうか。
「あのね、佐藤くん」
やっぱり亜澄さんは可愛い。とてもキュートだ。
ああ、いかん、いかん。彼女は雲の上の人、別世界の人なんだ。心を奪われたらいけない。わが身が破滅する。もう一度、心の中で叫ぶ。彼女のことが嫌いだ。
「おれ、急いでいるんだ。だから話は簡潔に頼む」
いった直後に後悔した。いくらなんでもそんないい方はなかった。
どうしておれは、いつもこうなんだ。
「ごめんなさい」
「あっ、いや、こっちがごめんなさい。ちゃんと聞く。それで話って?」
「うん、あのね……」
このあと彼女はとんでもないことを口にした。
「……つきあってください」
「えっ?」
ズッゴーン。
スリップを起こした大型トラックがおれを轢いた。
トラックの運転手は、とびだしてきた猫を避けようとしたらしい。
猫は助かり、おれは死んだ。そう。かわゆいニャンコちゃんは助かり、キモいおれは死んだ。めでたしめでたしってか。
だけどどうしてどうしてどうして、いつもおれだけがこんな目に……。初めて女子から告白されたところだったのに。しかもあの亜澄さんからだったのに。これから高校生活がバラ色に変わるかもしれなかったのだぞ。なんだったんよ、おれの人生。
そして命尽きたおれに待っていたものは……。