生きるとは
無欲になることなかれ
生きる事楽しくあれ
欲する事ことこそ生きる事
欲望を失った時、人として死する。
欲する事は、生ある者の権利であり、義務である。
生きるとはすなわち欲望を持つことであり、娯楽、贅沢は人が人として生き、欲望を持ち続けんが為に生み出された新たな欲望の形態である。
人は生きる為に次の欲望と成り得る事象を考え生み出してきた。
それは時として、金という欲望の対象であったり、性別、年齢を超えた枠組みとして、階級、権力を生み出した。
つまり、欲望とは、人が欲するものを望もうとする行為そのものが生きる事の代名詞となり、人は欲望を満たし続けようと精進努力することで生きているのだ。
俗にやる気を意欲と呼ぶことからも欲と生が密接な関係にあることを暗に言い表しているようにすら考えられないだろうか。
無欲な人間などこの世には存在しない。
純粋な聖職者で破戒をしていない者であっても私欲がある。
正確を記するならば、私利に溺れる聖職者は困り者だが、私欲に溺れる限りは聖職者として認められるのだ。
断じて、宗教批判を目的としているわけではない。
あくまでも「死ぬ事なかれ」とだけ強く言いたいのだ。
何かを欲する限り、人は生きているし生きられる。
つまり「生きたい」と望み続けている限り生きている訳で「死にたい」と望み続ける限り、人は生きるのである。
また「死にたくない」と望み続けている限り生きている訳で「死にたくない」と望み続ける限り、人は生きるのである。
そして、欲望は無意識下でも存在する。
それは、人が人として生きる根底には生物としての生命活動が不可欠であり、食欲や睡眠欲は生物としての欲望、すなわち本能と称される類、細胞レベルにおいて、人生を存続する為の欲望としては代表的なものではなかろうか。
生を幸福として受け入れる為に対極となる不幸に死が存在し、人は過去の歴史においても、永遠の生を得ようと時の権力者達は涙ぐましい努力をしてきた。
美や若さを求めるのも一つの欲望であり、生を立証する欲望の一種ではあるが、生を欲するものとは違い、どちらかというと私利に溺れた聖職者と変わらない類ではないかと思われる。
現代社会においては、生あるものは死を必ず迎えるという、人類にとって当たり前の摂理との理解が進み、幸福な死という得体の知れない慣習さえ生まれつつある。
前段から述べているものは、あくまでも個人内部の生に対する欲望の必要性であって、死後の世界を幸福に導くということではない。
つまり、死後の世界でも幸福に過ごして欲しいというのは生者の願望、すなわち欲望であって、死者の欲望を満たそうとしている訳ではない。
勿論、生前からの親しみで幸福な死後の世界を望もうとする慣習や思いやりは愛情表現として賞賛すべき事柄であるし、非常に大切でもあるが、無欲となった死者の欲望はそれを望んでいる訳ではないし、望んでいると立証する術は現代科学ではまだない。
魂の存在や霊魂といった議論も必要ではあるが、生きるとは欲することという観念からは完全死を迎えた人から魂や霊魂を摘出、あるいは抽出されたという報告が無い以上は現段階でそれらが欲望なる生の象徴を有しているかどうかは立証されていない以上は考慮しないで進むこととする。
これは、精神論ではない。
事実に基づき、現実の中で立証する事が可能な範囲でのみ適応される事実であり、摂理なのである。
世の中には時として強欲という言葉や事例が現れる。
生きるとは欲望を持つという一点に絞れば、強欲は決して存在悪ではない。
欲が強い、または強すぎるという事は言い換えれば生に対しての執着が強いということでもある。
生への執着が強い事は悪であろうか、どんな形であれ、生きたいと願い、望み、欲することは尊いことである筈なのに、日本語で強欲と表現すると、欲深く嫉妬深く感じてしまうのは何故なのだろうか。
何度も申し上げるが、生への執着は必要であり、生への執着は幸福への近道であり絶対条件である事は重ねて申し上げる。
さて、ではなぜ強欲がダークなイメージを持ってしまうのかを解説しよう。
ポイントは言葉自身が表している。
欲望自体は欲望があるからこその生と言ってきたわけであるし、言い換えれば人が生きていく為に必要不可欠な重要な要素であることはわかっていただけると確信している。
その上で強欲とは、強+欲、つまり、欲に強という言葉が付くとその意味合いは大きく変化する。
そもそも強という比較に用いる語句を含んだことによって、言葉上で悪辣なイメージを持ってしまった。
強という文字を含んだ言葉には相対する言葉が存在している場合においては、どちらかというと強が肯定的立場に置かれるか若しくはそれ以上、或いは期待値を含んだ未来的に望ましい姿、あるべき姿を表現している。
例えば強者などがその一例である。
一方で対極に言葉が存在していない場合はどちらかというと、行き過ぎたものに対する戒めのような表現に用いられている。
例えば強情などがその一例である。
では、強欲の対極にあるのは?
対極は無欲ではないし、弱欲などという熟語は使用していない、であれば、強欲とは後者に属し、戒める言葉として、意味する事が大きいのではないか。
強い欲望は戒めるべしとの先人の知恵の賜物であり、己の欲望を満たした結果、他者の欲望を破壊、粉砕してしまう可能性もあるという本質的欠陥として、非情な側面を持ち合わせている事について、十分に留意すべきであるということは認識しておいていただきたい。
本質的欠陥というのは、生命維持において食物連鎖というサイクルが表すように、動物的本能という言い訳、つまり欲望という人が抱く特有の生存理念によって他者の欲望達成を阻害し、他者の生命を奪うことを目的にして、欲望を満たすことがあるということに他ならない。
確かに生きる証としての欲望には違いないので、一方的に否定するには至らないし、人は過去の歴史の中で、いや、現代社会にあっても愚劣な欲望を抱き続けてしまっているのもまた事実である。
しかしながら、反論の余地がないわけではない。
人が生きるとは欲望を抱くことであるのと同時に欲望があることこそが生きるということと連呼してきた。
つまり、このどちらかが自らの意思ではなく他人によって阻害されることは不幸であり、生命または欲望を失うことは死を意味するのであるから、欲望を満たすという生きる目的を奪うことは罪と呼ばれ、罰せられる。
その罰によって、人偽的に数々の欲望を奪われるという代償を払うことになるので、必ずしもただ欲望を満たしていけば良いというわけではないと理解していただきたい。
さて、生きるとは欲を抱き、湧き上がる欲望こそ生きる活力と断言してきているが、生きている、若しくは生きていた人の中に全ての欲望を満たして尚、生き続けた人がいないこともまた事実であるということも知っておくべきである。
言い換えると欲望というものは、生き続ける限り常に増え続け、更に言い換えれば、決して満たされないからこそ人は生き続けようと思う。
これを出口なき迷宮の矛盾と考えていただいては困るし、今更と思う事もあろうと想像するが、時に自己の欲望は他人を傷つけてしまう事もあり、時に他人から奪い、時に他人を失望させる事もあるという自覚の上に望むということを考えなくてはならない。
勿論、各個人が欲望という生の源を満たす為に生命活動を続ける場合においてはどちらの立場にも成り得るのは必然で、しかも本来、この権利や機会は平等に与えられているものである。
ところが、現代社会のように、動物的本能に裏付けられた欲望の他に飽くなき欲望を求める、つまり生を続けていく為に人は文明という人類独自の欲望の坩堝を生み出すことで、生の必要性を定義付け、次々に様々な欲望や欲望の対象と成り得る事物を作り出していった。
結果、本能的に必要とされる欲望以外の欲望が出現し、新たに人が作り出した欲望と本能的欲望にアレンジが加わった欲望の出現は次世代の人にとっては当たり前の欲望へと理解されていったのである。
例えば、本能的、動物的欲望としての食欲から派生した物欲、更に文明によってアレンジされた金欲、更に金欲を満たす為の権力欲、現代社会では出世欲という欲が生まれ、生命体の遺伝子継承、子孫を残す為に存在する性欲は文明文化との融合により、本来の目的、遺伝子継承とは違った複雑な雌雄関係とも融合して情欲を生み出し、更に、歪に変化した情欲は色欲という新たな欲望まで生むに至った。
お気づきだろうか、現代社会に生きる我々が暮らすこの社会は新たに派生した欲望によって便利に変化し、進化し、成り立っているのだということを、つまり、新たに派生した欲望によって新たな文明が芽吹き、新たな発見や技術を生み出し、人々が欲望を満たす為に新たな技術や物体を売買することで新たなビジネスが生まれる。
すなわち、人の社会そのものが欲望の渦中にあって、その渦巻く欲望の撹拌工程の中から次々と新たな欲望が生まれるのである。
いわば社会活動そのものが新たな欲望を生み出す温床であり、人が飽くなき欲望を持っている証なのである。
そうでなければ、未だ人は動物でしかなかっただろう。
哺乳類でもなければ、霊長類でもない、それすら人の知識欲、研究欲が生み出した産物であり、学問という文明が作り出した勝手な分類でしかない。
我々、人は欲望によって生み出された産物であり、暮らす世界は欲望の渦中にあり、湧き上がる欲望を満たす事に生きる意義を見出している。
人は人であるがゆえに無欲では生きられず、無欲を欲すること、そのものが欲望なのである。
だから、生きるとは欲望を抱くことであり、欲望を抱くことが生きるということになるのではなかろうか。