氷血辺境伯のわりにちょろいお兄様は、もうご自由に性悪妻を溺愛しててください
「今帰った」
「ヨシアス様、お帰りなさいませ。ご無事のお帰りをお喜び申し上げます」
「帰ってきたら、ヨシアスと呼んでくれる約束ではなかったか?」
「ええと…あの…人前ではどうにも恥ずかしくて…」
「ああ、可愛い私のララ」
玄関先で甘いやり取りを繰り広げるのは、私の異母兄であるエストマルク辺境伯ヨシアスと、その妻であるララ様。
「お帰りなさいませ、お兄様」
「…ああ」
お兄様はララ様に対するのとは全く違う冷たさで、私に返事をする。
腹違いとは言え兄妹なのに、いつまでも距離は縮まらない。私だって、命をかけて辺境を防衛しているお兄様を尊敬し、兄として愛し、無事に帰ってきたことを心から嬉しく思っているのに。
唇を噛む私を見ながら、ララ様が得意げに笑った気がした。
(まただわ。なんだろう、ララ様のこの感じ)
◇
私の異母兄であるエストマルク辺境伯ヨシアスは、愛のない政略結婚をした両親から生まれ、父にも母にも顧みられることのない寂しい少年時代を過ごした。
そんな彼の実母が亡くなったあとで屋敷にやって来たのが、同じく母を亡くした異母妹の私。お父様は「アグネスは美しくて気立てのいい母親にそっくりだな」と私を溺愛する一方で、お兄様のことは冷遇し続けた。
「私を屋敷に迎えるため、お父様が奥様を殺した」という噂もあって、お兄様は私を警戒して避け続けた。
「お兄様、お誕生日おめでとうございます。拙いですが、お兄様のイニシャルをハンカチに入れました。受け取ってくださいまし」
「…いらない」
「…わかりました。もっと上手になったら、またお渡ししますね!」
「お兄様、雪が降っています。この外套をどうぞ。お兄様に似合うと思って、先日商人から買ったのです」
「…いらない。私が肺炎にでもなって死ねば、そのほうが嬉しいだろ?」
「私はお兄様が風邪をお召しにならないようにと…!」
そして成人すると、お兄様は戦場に追いやられた。
「お父様、お兄様が死んでしまいます!」
「そうなれば、アグネスが婿をとって、この家を継いでくれればいいんだ」
そんなの、いいわけないのに。
お兄様は戦場で生き抜いて大きな手柄を立てたけれど、孤独な少年時代と死と隣り合わせの日々は心を蝕み、彼は「人間不信の氷血辺境伯」と呼ばれるようになってしまった。
(このままじゃいけないわ)
「お兄様、屋敷にいる間は少しゆっくりしてくださいまし。ハーブティーを入れました」
「毒が入っているのか?」
「まさかそんな!」
戦場では毎日血を見て過ごし、家にいても私のせいで心を休められないお兄様。「お兄様のためには、私が屋敷にいないほうがいいのでは」とも思った。
「私だっていきなりここに連れてこられただけで、貴族はどうあるべきとか言われてもわかんないし」
けれどお父様に反対され、屋敷を出ることは叶わなかった。それに私が屋敷からいなくなってしまえば、お兄様が本当に一人になってしまう気もして。
「お兄様にも、お母様がいないのだもの。お父様はお兄様に厳しいし、私がいなくなったらきっともっと寂しくなるに違いないわ」
だけどもう、できることが何もない。残されたのは、神に祈ることくらい。
「どうかお兄様に、心を開ける相手と安らぎをお与えください」
だけどお父様の跡を継いで辺境伯になってからも、お兄様はろくに社交の場に出ない。たまに出ても会場を睨むばかりで誰とも話をしない。さらに戦場で顔に大きな傷ができてしまったこともあって、貴族令嬢やその家族からは恐れられている。
「顔の傷は、お兄様が必死に領地と国を守っている証なのに…!」
そんななかでようやく嫁いできてくれたのが、小さな古い鞄ひとつ携えた子爵令嬢のララ様だった。
「ヨシアスの妹のアグネスです。ララ様、失礼な質問かもしれませんがご容赦を。嫁入りするのに荷物がこれだけだなんて不思議で」
「隠せることでもないので正直に申し上げます。実は私は、家であまりよい待遇を受けていなかったのです。先妻の娘というだけで、継母に嫌われてしまって」
お兄様がちらりとララ様にに目をやる。「冷遇される先妻の子?私と同じだ」と考えていることが、手に取るようにわかる。
同じような境遇にいた二人が政略結婚だなんて、できすぎているように感じたけれど、それが運命なのかもしれない。
「正直に答えてくださってありがとうございます、ララ様。ドレスや装飾品などはこちらですべて用意しますのでご安心を。明日にでも商人を呼びますから、好きなものを買ってください」
私はララ様に安心して過ごしてもらえるよう気を配ったし、お兄様も自分と境遇の似ているララ様を邪険にはしなかった。
そしてララ様はというと、お兄様にハーブティーを振る舞い、小さなお守りに下手な刺繍を入れて渡し、伯爵夫人の予算でお兄様へのプレゼントを買い、お兄様が出征するたびに教会に通って無事を祈った。
「…なんでこんなことをするんだ」
「私はヨシアス様の妻ですから」
「私のことが怖くないのか」
「噂なんて気にしません。私は自分の目で見たものだけ信じます。今目の前にいるあなただけを」
「でも私は…こんな傷もあって、醜いだろう…っ!君のような美しい女性にはふさわしくない…っ!」
「そんなことはありません。この傷は、ヨシアス様が必死に領地と国を守った証。勲章のようなものですわ。誇らしく…そして愛おしく思います」
「…っ!」
お兄様は、あっさりと陥落した。
そしてララ様を冷遇していたという彼女の継母をこらしめ、ララ様にこれでもかというほどのドレスと宝石を贈って、どんな難しい戦争も早く終えて屋敷に戻って来るようになったのだ。
「…なんだか腑に落ちないけれど」
だって、ララ様がやっていることは、私がやってきたことと同じだ。なのにどうしてお兄様はララ様にだけあっさりと心を開いたのだろう。
ララ様がお兄様と同じ境遇で育ったからだろうか。それとも、ピンク色の髪と水色の目をもつララ様が、天使のように可愛らしいからだろうか。
一方で私は愛人の娘だから、どれだけお兄様のことを考えて努力して寄り添おうとしても、信じてもらえなかったのだろうか。
「そんなことを考えるのはやめるのよ、アグネス。お兄様が幸せなら、それでいいじゃないの」
私は毎日、自分に言い聞かせていた。
◇
お兄様は、私からあっさり目を逸らし、ララ様を抱き上げて見つめる。
「ララは神が私に遣わしてくださった天使だ」
「ヨシアス様、みんな見ているところでそんな…!」
ララ様がわかりやすく照れて小さな手で小さな口を隠すと、使用人たちはそっと肘でお互いをつつき合って、温かな笑いをこらえる。
――その様子にどこか白々しく胡散臭い空気を感じているだなんて、決して言えなかった。
◆
「アグネス、久しぶりだな。元気にご令嬢をやってっか?」
「うん、元気だよ」
その日、私は辺境伯家に引き取られる前に住んでいた田舎町に里帰りしていた。この田舎町に住んでいた母は、視察に来た父に見初められて私を身籠ったそうだ。
母方の祖母に顔を見せ、頼まれてあれこれと買い物をする。
「ほら、この林檎も籠ごと持ってけ。ばあちゃんによろしくな」
「おまけがこんなに?ルカったら、こんなので商売になるの?」
「…べっぴんになって帰ってきたアグネスには特別だ」
「まったく」
気前が良すぎる八百屋のルカに呆れたとき、目の端に、珍しいピンク色の髪が映った。
「…え?」
思わず振り返る。
間違いない、ララ様だ。
「どうしてこんな田舎町にララ様が」「声をかけたほうがいいのかな」なんて考える暇もなく、彼女はその細い腕を、男性の腕に絡めた。
――お兄様ではない男性の腕に。
どくんと心臓が跳ね、反射的にララ様に背を向けて、横目で様子を窺う。
「アグネス?」
「黙って、ルカ」
ララ様は私に気づいていない。
「湖に行きたいの」
「いいね」
二人はこの町で唯一の観光名所である、澄んだ湖に向かう。私は「なんだなんだ」と戸惑うルカに荷物を預けて、二人の後を追った。
「旦那にはバレてないのか?」
「ええ、ヨシアスには『留守がちな夫を支える辺境伯夫人として、一人で領地を回って勉強したい』って言ってあるから。それに彼は『散々辛い思いをしてきたのに、純粋さと人を信じる心を失わない私』を信じ切ってるもの」
「ふふっ」というララ様の笑いには、人を小馬鹿にするような傲慢さがあった。
「経験から言って、生い立ちが可哀そうな人ほど簡単なの。邪険にされても無視されても、とにかく目を潤ませて『愛してる』『信じてる』『私だけは離れない』と繰り返せば、忠犬の出来上がりよ」
息が苦しくなってくる。ララ様がお兄様に向けていた甘い言葉や思いやりは、すべて嘘だった。
「そんなことよりダミアン、キスして。またすぐ会えなくなるんだから」
二人は長くて情熱的なキスを楽しんだ後で、ようやくボートに乗った。そしてボートの上でもまたキスをして。
脚が震えて、木に縋らないと立っていられない。
「なんてことなの」
◆
ララ様は、お兄様を裏切って浮気している。
だけどお兄様には、言えない。
ようやく心を許せる運命の相手に出会えたと思っているのに、実は裏切られていたなんて知ったら、お兄様の心がばらばらに壊れてしまうかもしれないから。
だから屋敷に戻った私は、お兄様ではなく、ララ様に話をすることにした。お茶の時間に、人払いをして。
「ララ様、単刀直入にお伺いします。浮気しておられるのですか」
「何をおっしゃっているのですか、アグネス様」
「私、里帰りしているときにリーム湖で見たのです。ララ様がダミアンという金髪の男性とボートに乗って…キスしているのを」
ララ様の顔色が変わる。
「いつも『アグネス様は私にとっても本当に妹みたい』なんて言うのに、私がどこで何をしているかなんてきにしていなかったのですね。だから私に浮気現場を見られるんです」
「…アグネス様は何を望みですか?私を追い出すおつもりですか?」
「いいえ。お兄様を傷つけるようなことはやめていただきたい、それだけです。お兄様は本当にララ様を大切に想っておられます。それはララ様もわかっておられるはず。だからお願いです、行動を改めてください」
ララ様はぎりっと私を睨んだ。
「行動を改めろ?あんたもあのうざったい継母と一緒のことを言うのね。だったらこうよ」
ララ様はおもむろに紅茶の入ったポットを持ち上げた。
お茶をかけられるのかと身構えた私の前で、自分の頭に熱い茶をかけて、「熱い!やめてください、アグネス様!」と叫ぶ。
「えっ…」
その声に驚いたメイドが部屋に駆け込んでくる。
「奥様…!?早く水と氷を!」
騒ぎを聞きつけて、お兄様もやってきた。ララ様はそのタイミングで、ぽろぽろと涙をこぼす。夫の姿を見て安心して、堪えていた涙が溢れ出したと言うように。
「き、急にアグネス様が私にお茶を…っ!貧乏子爵家出身で血のつながった家族にも愛されていない私が辺境伯家で偉そうな顔をしているのが、気に入らないって…!」
「そんなこと言ってません!」
お兄様は私を睨む。今にも私に掴みかかって来そうな顔で。
「実はこれまでずっとアグネス様には嫌がらせを受けていました。けれどアグネス様はヨシアス様の大切な妹ですから、言えなかったのです。私さえ我慢すればいいと思って…っ」
次の瞬間、お兄様の指が私の二の腕に食い込んでいた。
「痛…痛いです、お兄様!私はララ様にお茶なんてかけてません!信じてください」
「私は、自分の目で見たものだけを信じる」
「自分の目で見たものを信じる」ですって?
その言葉に、私の中の何かが切れてしまった。
「じゃあ…じゃあ私がララ様にお茶をかけたところを見たんですか!?」
「その瞬間は見ていなくても、今の状態を見れば明らかだろ」
「その瞬間を見てないのに、そんなのおかしい!それに自分の目で見たことだけを信じるなら、私がお兄様のためにやってきたことはどうして信じてくれないの!」
悔しいのか、悲しいのか、もどかしいのか、涙が溢れてくる。
「どれだけやっても、私のことは信じてくれなかったくせに!そんな馬鹿だから、ララ様に騙されて浮気されるのよ!」
言わないでおこうと思っていたのに、言ってしまったらもう言葉が止まらない。
「ララ様は痩せっぽちの金髪男と浮気してるわ!リーム湖で二人がキスしてるのを見たの!」
ララ様が青ざめて立ち上がる。
けれどお兄様は私に怒鳴った。
「嘘をつくな!穢れた愛人の娘であるお前が言うことなど、信じられない」
「私は嘘なんてついてない!嘘つきはララ様よ!調べたらすぐにわかることだわ!!」
「嘘だ嘘だ嘘だ!」
やっぱり信じてもらえない。愛人の娘というだけで。半分しか血がつながっていないというだけで。
「本当なのに…っ」
嗚咽しながら、それでも心がすうっと冷えていくのがわかる。
「…もういいです。私はここを出ていきます」
お兄様はだじろいだような表情を一瞬だけ見せて、立ち直ったように私を睨んだ。
「金も宝石も、何もやらんからな。身一つで出ていけ」
「…わかってます。お兄様には何も望みません」
お兄様の幸せを望むのすら、もうやめる。
「お兄様はもうご自由に、ララ様を溺愛しててください」
◆
ララが浮気だなんて、とんでもない。
彼女は、神が私を孤独から救うために遣わしてくださった、天使なのだから。
彼女が私の前に現れてから、私の人生は色づき始めた。彼女が囁いてくれる愛の言葉すべてが、氷のようだった私の心を溶かした。
優しくて賢くて、私が愛の言葉を囁いたらすぐに照れて顔を真っ赤にするララが、浮気なんてするはずはないんだ。
「アグネスが悪いんだ」
――けれどなぜか、アグネスの必死な顔が頭から離れない。
「アグネスは嘘をついていないのかも」
戦場で何度も自分自身の命を救ってきた本能が、そう囁く。
けれどララを疑うこともできない。そんなことは恐ろしすぎて。
「傷つきたくない」
私はララに捨てられないように、今まで以上にララに尽くした。彼女が欲しがるものはすべて買い与え、彼女が行きたがるところにはすべて連れて行って。「近頃の奥様は高圧的だ」「金遣いが荒い」と執事から報告を受けても、知らないふりをして。
だって、天使を失いたくはないから。
けれど、その瞬間はやってきた。
ララが恋人に宛てた熱烈な手紙を読んでしまったのだ。結婚前からずっと二人の関係が続いていることを示唆する手紙。
嘘つきは、ララだった。アグネスが、正しかった。
「どうしてなんだ、ララ」
「ごめんなさい、ヨシアス様。ヨシアス様はお屋敷にいらっしゃらないことが多くて、寂しくて…つい昔の恋人に頼ってしまったのです」
嘘の涙の奥にある、冷たくてずる賢い目。
「でも一番愛しているのはヨシアス様です…!」
手紙の中で私のことを「恋愛経験が少ないから初めての感情に舞い上がって、女の演技も見抜けない男」「下手に出過ぎて、いくら私が好き勝手しても怒れない男」と笑っていた女。すべてが明らかになっても、まだ嘘をついて。
「愛しているんです。信じてくださいますよね?」
――こんな女に騙されていたなんて、本当に愚かだ。
「不貞を働いた女だ。古式にのっとり、髪を切って実家に送り返せ」
「嘘!そんなの冗談ですよね…?」
ハサミを目にして、ララの顔色が変わる。
「私がいなくなったらあなたは一生独身よ!?あなたは気にかけてくれる人なんて誰もいなくなるのよ!?」
「違う、アグネスが…!」
私には、アグネスがいる。
ハンカチ。
外套。
ハーブティー。
《神様、どうかお兄様に優しい夢を》
悪夢にうなされていた夜に聞こえた優しい声も、アグネスだったのだから。
「ずっと目の前にいたのに、見ようとしていなかったんだ」
◆
お兄様が私の故郷に現れたのは、私が本当に身一つで辺境伯家を出てから、半年後のことだった。
「アグネスが正しかった」
「でしょうね」
沈黙。
私はふっと息を吐く。もう言葉をかける気は失せた。
「それだけ言いに来られたのですか。目的を果たされたのならお引き取りを」
「…っ」
そんな雨に濡れた傷だらけの野良猫のような顔をしたって、無駄。
許されたいと思っていることも、前みたいに気遣ってほしいと思っていることも、なんなら屋敷に帰ってきてほしいと思っていることも、もう察してあげない。
いえ、察しているけど応えてあげない。
だって応えてくれなかったのはお兄様じゃない。
お兄様はぎゅっと拳を握り、唇を噛み締めた。
「その…元気か」
呆れてしまう。はるばるここまで来て絞り出した言葉が、当たり障りない近況確認とは。
「元気です」
また沈黙。
私からお兄様の近況を聞くつもりはない。お兄様がここに現れ、私が正しかったと認めた時点で、何があったのかは大体わかるから。
お兄様はまだ何か言いたげだ。
けれど彼の口からは言葉が出てこない。悲劇のヒーローぶって、優しく話しかけてくれる他人としかコミュニケーションを取ってこなかったからだろう。
「確認したかったことが確認できたなら、お帰りください」
「…っ」
お兄様は何か言いたげに、そして恨めしそうに私をちらちら見て、それでも私が何も言わないと、とうとう観念して帰っていった。
「いいのか?」
一部始終を見ていたルカが、ドアから顔を覗かせて聞く。
「いいのよ。外した梯子をかけ直す気はないの」
また梯子をかけたいなら、お兄様が汗をかけばいい。
「もし梯子がかかっても屋敷には戻らないけど、兄妹には戻れるかもしれないわ」




