世界に触れる指
最初に自分の手を認識したのは、生後どれくらい経った頃だったのか分からない。
視界の端で何かが動くことに気づき、目で追ってみると、それは小さな指だった。ぎこちなく開閉を繰り返し、空気を掴もうとしている。
俺の手だ。
理解した瞬間、妙な感動があった。
思い通りには動かない。握ろうとしても力が足りず、狙った場所には届かない。それでも確かに、自分の意思で動いている感覚があった。
生きている。
その単純な事実が嬉しかった。
「……見ているな」
低い声が落ちる。
公爵だ。
いつものように椅子へ腰掛け、俺を腕に抱いたまま観察している。その視線は鋭いはずなのに、俺へ向けられるときだけ驚くほど柔らかかった。
俺は手を伸ばす。
目標は、揺れる金色の鬣だった。
光を受けてきらめくそれは、生まれたときからずっと視界の中心にある。触ってみたかった。何度も挑戦しては失敗してきたが、今日は少し違う気がした。
指先が毛先に触れる。
温かい。
柔らかい。
想像していたよりずっと滑らかな感触に、思わず声が漏れた。
「あ……」
公爵の動きが止まる。
数秒の沈黙のあと、胸の奥で低く笑う振動が伝わった。
「捕まえたか」
誇らしそうな声だった。
俺は意味も分からず、もう一度鬣を握ろうとする。今度はちゃんと掴めた。離したくなくて、ぎゅっと力を込める。
公爵は抵抗しない。
ただ静かに見下ろしている。
その視線の温度が心地よくて、俺は満足したまま目を細めた。
世界はまだ遠い。
天井と腕の中と、たまに運ばれる庭の光。それが今の俺のすべてだ。それでも少しずつ、感覚が増えていく。
匂いを覚える。
足音を聞き分ける。
公爵の足音は特別だった。重く、ゆっくりで、床を叩く振動が安心に変わる。近づいてくるだけで、体の力が抜けるのが分かった。
この人が来る。
守られている。
理解は理屈ではなく、本能だった。
ある日、初めて屋敷の外気に触れた。
庭だった。
抱き上げられたまま外へ出ると、空気の広さに驚いた。室内と違う匂い。草の匂い、土の匂い、花の甘さ。風が頬を撫で、視界いっぱいに色が広がる。
思わず息を呑む。
世界はこんなに大きいのか。
蝶が飛んでいた。
光を帯びた羽を揺らし、ゆっくり宙を舞う。魔法で生まれた生き物だと後で知ることになるが、そのときはただ、美しいと思った。
指を伸ばす。
届かない。
それでも目で追い続ける。
公爵は何も言わず、俺の視線の先を一緒に見ていた。
共有している。
同じ景色を。
その事実がなぜか嬉しくて、胸の奥が温かくなった。
この世界は怖い場所だと思っていた。
けれど少なくとも今は、光に満ちている。
俺はこの腕の中から、少しずつ外を知っていく。
急がなくていい。
この人が許す限り、世界はゆっくり広がっていく。
それでいいと思えた。




