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星空の下で

作者: トミヤマ
掲載日:2026/01/30

第一章 暁の散歩

 5時30分。

 スマートフォンのアラームが鳴る前に目が覚めた。もう体が時間を覚えてしまっているのだ。布団から這い出て、昨夜用意しておいた服に着替える。厚手のフリース、ウインドブレーカー、手袋。まだ二月で、明け方の冷気は容赦ない。


 玄関の鍵を閉める音が、静まり返った家に響く。


 毎朝、ウォーキングをする時間だ。

 始めたのは三年前。不眠と倦怠感に悩まされていた頃、何か変えなければと思って歩き始めた。最初は十分も歩けば息が切れた。でも今では、この時間が一日で一番好きな時間になっている。


 真っ暗な田舎道を歩く。

 街灯はまばらで、時折通り過ぎる車のヘッドライトだけが闇を切り裂く。都会に住む友人に話すと驚かれるが、ここではこれが普通だ。人の気配はなく、聞こえるのは自分の足音と、遠くで鳴く鳥の声だけ。


 空を見上げる。

 田舎の星空は天然プラネタリウムだ。

 視界いっぱいに広がる無数の星。こぼれ落ちそうなほど密集した光の粒。都会で暮らしていた学生時代には、星なんてせいぜい数個しか見えなかった。こんな星空があることすら知らなかった。


 北斗七星。北極星。アルクトゥールス。スピカ。


 星座早見盤を買って、少しずつ覚えた。いろんな星がいつもと変わらず私を見下ろしている。いつも同じ場所にあって、いつも同じように輝いている。その変わらなさが、なぜか心地よい。


 まだ冬だというのにもうすでに春の星空だ。

 季節は確実に移ろっている。人間の感覚より先に、星空はもう春を告げている。


 ここで寝っ転がって、ずっと星を眺めていたい。

 いつもそんな風に思う。このアスファルトの上に仰向けになって、空だけを見つめていたい。時間を忘れて、何も考えずに。でもそんなことをすれば、確実に風邪をひく。それに、誰かに見られたら変な人だと思われるだろう。


 私は生きている。

 心臓が脈打っている。肺が空気を取り込んでいる。足が地面を踏みしめている。

 この宇宙の片隅で生きているのだと実感する。


 地球という惑星の、日本という国の、この小さな町の、さらに小さな一点に、私は今、確かに存在している。


 あの星たちは、何を思っているのだろう。

 星に意識があるとは思わない。でも、もしあったとしたら。何百光年も前の光を放ち続けている星たちは、この小さな地球の、さらに小さな私のことを、どう見ているのだろうか。


 あの星たちは、ずっとそこにいる。

 私が生まれる前も、私が死んだ後も。人類が誕生する前も、滅びた後も。ただ静かに、そこにいる。


 歩きながら、そんなことを考える。哲学的になるつもりはない。ただ、星を見上げていると、自然とそういう思考になってしまう。


 一時間ほど歩いて、家に戻る。シャワーを浴びて、朝食を食べて、仕事に向かう。いつもと同じ一日が始まる。

 そのはずだった。




第二章 白い天井

「今日の午後、病院に行ってきます」


 朝のミーティングで上司に告げた時、周りの視線が一瞬集まった気がした。気のせいかもしれない。


「検査ですか? お大事に」


 上司は簡潔に答えた。それ以上は何も聞かなかった。ありがたい。


 私はその日、婦人科に行った。

 先週受けた健康診断で、血液検査の値が悪かった。会社に提携する産業医から電話があり、すぐに精密検査を受けるよう言われた。


「ヘモグロビン値が7.2。これは相当低いです」


 電話口の医師は深刻な声だった。


「通常、女性で12以上は必要なんです。あなたは重度の鉄欠乏性貧血です」


 貧血。確かに最近、階段を上るだけで息切れがした。立ちくらみも頻繁だった。でも、疲れているだけだと思っていた。仕事が忙しいから。睡眠不足だから。そう自分に言い聞かせていた。


 別の病院での血液検査の値が悪く、重度の鉄欠乏性貧血だと言われた。


「あなたの血液はスカスカです」


 医師の言葉は直球だった。

中年の男性医師は、モニター画面を見ながら淡々と言った。まるで機械の不具合を指摘するように。


「これだけ数値が低いと、婦人科系の問題がある可能性が高い」


 婦人科系の病気や不正出血を疑われ、即、婦人科に行くことを勧められた。


 紹介状を握りしめて、総合病院の婦人科を訪れた。待合室には、妊婦さんや、母娘で来ている人たちがいた。私は一人だった。いつも一人だ。


 名前を呼ばれる。診察室に入る。


 婦人科に行く度に傷つけられる。

 それは今回が初めてではなかった。以前、生理不順で受診した時も。下腹部痛で診てもらった時も。毎回、同じような経験をする。


 37歳。

 医師がカルテを見る。私を見る。再びカルテを見る。


「セックスのご経験はおありではないんですね」


 必ず言われる言葉。

 問診票に書いた。「性交渉の経験: 無」。事実を書いただけ。嘘をつく理由はない。でも、この項目を書くたびに、ペンを持つ手が震える。


「はい」


 小さく答える。顔が熱くなるのがわかる。

 医師や看護師の顔に嘲笑のようなものが浮かんでいる、ような気がする。


 実際には笑っていないのかもしれない。でも、その表情の微妙な変化。一瞬の沈黙。それが私には嘲笑に感じられる。「37歳で?」という驚き。「何か問題があるのでは?」という憶測。そういうものが空気中に漂っているような気がする。


「そうですか。では、内診をしますが……」


 医師は看護師と目配せをした。


「ヴァージンの方には痛いと思いますが」


「もし痛かったらお尻の方から入れますね。子どもにもそういうやり方を取るので」


 そんな言葉の一つひとつに傷つく。


 「ヴァージン」という言葉。医学用語として使っているのだろう。でも、その響きには何か、揶揄するようなニュアンスが含まれている気がする。考えすぎなのかもしれない。でも、そう感じてしまう。


 そんなに悪いことなのか。

 カーテンの向こうで体を診られながら、そう思った。経験がないこと。それがなぜこんなにも特別なこととして扱われるのか。


 経験がないことは恥ずかしいことだとされている。

 社会がそう決めている。37歳で経験がないのは異常だと。何か問題があると。そういう空気が、確実に存在する。


 恥ずかしい。

 顔を覆いたかった。ここから逃げ出したかった。


 帰りたい。

 でも、検査は続く。超音波検査。細胞診。質問。回答。すべてが苦痛だった。


「子どもと同じやり方」で検査を終えた私は、「結局、3センチほどの子宮筋腫が見つかっただけ」という医師の、「だけ」という言葉に、少しほっとした。


「この大きさなら、貧血の主な原因とは考えにくいですが、経過観察が必要ですね」


 がん検診の結果は3週間後だ。


「それまで心配でしょうが、この年齢なら、がんの可能性は低いと思います」


 この年齢。37歳。子宮頸がんのリスクが上がり始める年齢。でも、「性交渉がない」ことで、リスクは下がる。皮肉なものだ。


「鉄剤を処方します。毎食後、必ず飲んでください」


 貧血の薬をもらって帰る道すがら、私は泣いた。


 最初は我慢していた。病院を出て、駐車場に向かう間は。でも、車に乗り込んでシートベルトを締めた瞬間、涙があふれてきた。


 ハンドルに額を押し付けて、声を殺して泣いた。駐車場には他にも車があった。誰かに見られたくなかった。でも、涙は止められなかった。


 経験がない。

 そんなに悪いことなのか。

 何度も自分に問いかける。答えは出ない。

 それは私が人非人のように扱われる理由になり得るのか。


 医師や看護師は、そんなつもりはなかったのかもしれない。ただ医学的な事実を確認しただけ。でも、私にはそう感じられた。人間以下の存在として見られているような。


 医師は終始、冷たかった。

 あるいは、それは私の被害妄想なのかもしれない。医師は忙しい。一人一人の患者に感情的に関わっていられない。そうわかっている。でも、もう少し優しい言葉はなかったのか。もう少し配慮した態度はなかったのか。


 もっと堂々としていれば良かった。私の尊厳は私自身が守る。誰に何と言われようとも、誰に嘲笑されようとも。




第三章 孤独の重さ

 泣き止むまで、どれくらいかかっただろう。

ティッシュで顔を拭いて、バックミラーで自分の顔を確認する。目が赤く腫れている。これでは会社に戻れない。


 スマートフォンを取り出して、上司にメッセージを送った。「体調が優れないため、午後は休ませていただきます」。嘘ではない。体調は最悪だ。心も体も。


 車を発進させて、家に向かった。

 なぜ、こんなに苦しいのだろう。


 37年間、恋愛経験がないわけではない。好きになった人はいた。告白されたこともあった。でも、どれも長続きしなかった。タイミングが合わなかったり、価値観が違ったり、何となくしっくりこなかったり。


 そして、気づけば37歳。

 周りの友人たちは次々と結婚していった。出産報告を受けるたびに、おめでとうと言いながら、心のどこかでひりひりとした痛みを感じた。取り残されていく感覚。


 でも、焦って誰かと付き合う気にもなれなかった。好きでもない人と、体だけの関係を持つ気にもなれなかった。それは私の価値観だった。間違っているとは思わない。


 なのに。

 なのに、なぜこんなに苦しいのか。

 家に着いて、玄関のドアを開ける。誰もいない部屋。いつもの静寂。


 ソファに倒れ込んで、天井を見つめた。白い、何の変哲もない天井。病院の天井も白かった。


 星になりたい。


 ふと、そう思った。

 あの空に輝く星のように、静かに下界を見つめていたい。


 星は孤独だ。一つ一つが遠く離れて、宇宙空間に浮かんでいる。でも、星は孤独を嘆かない。ただ静かに輝き続ける。何億年も、何十億年も。


 私も星のようになれたら。

 人間の価値観や、社会の基準や、そういうものすべてから解放されて。ただ存在するだけでいい存在になれたら。


 私は生きている。

 心臓が動いている。呼吸をしている。考えている。感じている。


 こんなにも生きているのに。

 なぜ、生きていることが、こんなにも苦しいのか。




第四章 星空への祈り

 翌朝、5時30分。

 アラームが鳴る。体は重かった。昨日、ほとんど眠れなかった。でも、ウォーキングに行こうと思った。行かなければ、このまま沈んでいきそうな気がした。


 いつものように着替えて、外に出た。

 空気が冷たい。吸い込むと肺が痛い。でも、それが心地よかった。生きている証拠。痛みを感じられるということは、まだ生きているということ。


 真っ暗な田舎道を歩く。

 星空は変わらずそこにあった。昨日と同じ星たちが、同じ場所で輝いている。


 私がどんなに苦しんでいても、星は変わらない。地球上で何が起ころうと、星は黙って輝き続ける。その無関心さが、今日は救いに思えた。


 北斗七星。北極星。アルクトゥールス。スピカ。


 一つ一つの名前を心の中で唱える。まるで祈りのように。


 星たちは答えない。でも、それでいい。答えを求めているわけではない。ただ、そこにいてくれればいい。


 歩きながら、昨日のことを反芻する。

 医師の言葉。看護師の表情。診察台の上で感じた屈辱。


 でも、朝の冷気の中を歩いていると、少しずつ心が落ち着いてくるのがわかった。昨日ほど、苦しくない。まだ傷は残っているけれど。


 私は間違っていないはずだ。

 経験がないことは、恥ずべきことではないはずだ。

 それは単なる事実で、良いも悪いもないはずだ。


 社会が作り上げた価値観に、縛られる必要はないはずだ。


 そう自分に言い聞かせる。でも、完全には信じきれない。37年間、この社会で生きてきた。その価値観は、私の中に深く根付いている。


 涙はなかなか止まらなかった。

 気づけば、また涙が流れていた。冷たい頬を伝う温かい涙。矛盾した感覚。


 でも、昨日とは少し違った。昨日の涙は、悲しみと屈辱の涙だった。今日の涙は、それだけではない。何か、別のものも混じっている。

 諦めではない。怒りでもない。


 受容、だろうか。

 自分が傷ついたことを認める。その傷を抱えたまま、それでも生きていくことを選ぶ。そういう決意のようなもの。


 空が少しずつ明るくなってきた。東の空が、紺色から藍色へ、藍色から薄紫へと変化していく。星の光が、少しずつ弱くなっていく。


 でも、星は消えたわけではない。ただ、太陽の光に隠れただけ。夜になればまた、同じ場所で輝く。


 私も、そうありたい。

 傷ついても、苦しんでも、それでも消えない。隠れることはあっても、存在し続ける。


 そして、いつか。

 いつか、この傷も癒える日が来るかもしれない。あるいは、傷を抱えたまま、それでも平穏に生きられる日が来るかもしれない。


 今はまだ、そう信じることしかできない。

 でも、それでいい。


 家に戻る頃には、空はすっかり明るくなっていた。鳥たちが賑やかに鳴いている。新しい一日が始まる。


 シャワーを浴びて、朝食を食べる。鉄剤を飲む。小さな錠剤が、喉を通っていく。


 今日も、生きていく。

 明日も、生きていく。


 星空の下で生まれた小さな命として、この宇宙の片隅で、静かに生きていく。


 三週間後、がん検診の結果は陰性だった。子宮筋腫は経過観察。鉄剤を飲み続けることで、貧血も少しずつ改善していった。


 体調が良くなるにつれて、心も少しずつ軽くなっていった。


 あの日の傷は、完全には消えない。でも、それは私の一部になった。


 そして、私は今日も、朝5時30分に家を出る。

 星空の下を歩く。

 私は生きている。この宇宙の片隅で、確かに生きている。


 それだけで、十分なのだと、少しずつ思えるようになってきた。

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