星空の下で
第一章 暁の散歩
5時30分。
スマートフォンのアラームが鳴る前に目が覚めた。もう体が時間を覚えてしまっているのだ。布団から這い出て、昨夜用意しておいた服に着替える。厚手のフリース、ウインドブレーカー、手袋。まだ二月で、明け方の冷気は容赦ない。
玄関の鍵を閉める音が、静まり返った家に響く。
毎朝、ウォーキングをする時間だ。
始めたのは三年前。不眠と倦怠感に悩まされていた頃、何か変えなければと思って歩き始めた。最初は十分も歩けば息が切れた。でも今では、この時間が一日で一番好きな時間になっている。
真っ暗な田舎道を歩く。
街灯はまばらで、時折通り過ぎる車のヘッドライトだけが闇を切り裂く。都会に住む友人に話すと驚かれるが、ここではこれが普通だ。人の気配はなく、聞こえるのは自分の足音と、遠くで鳴く鳥の声だけ。
空を見上げる。
田舎の星空は天然プラネタリウムだ。
視界いっぱいに広がる無数の星。こぼれ落ちそうなほど密集した光の粒。都会で暮らしていた学生時代には、星なんてせいぜい数個しか見えなかった。こんな星空があることすら知らなかった。
北斗七星。北極星。アルクトゥールス。スピカ。
星座早見盤を買って、少しずつ覚えた。いろんな星がいつもと変わらず私を見下ろしている。いつも同じ場所にあって、いつも同じように輝いている。その変わらなさが、なぜか心地よい。
まだ冬だというのにもうすでに春の星空だ。
季節は確実に移ろっている。人間の感覚より先に、星空はもう春を告げている。
ここで寝っ転がって、ずっと星を眺めていたい。
いつもそんな風に思う。このアスファルトの上に仰向けになって、空だけを見つめていたい。時間を忘れて、何も考えずに。でもそんなことをすれば、確実に風邪をひく。それに、誰かに見られたら変な人だと思われるだろう。
私は生きている。
心臓が脈打っている。肺が空気を取り込んでいる。足が地面を踏みしめている。
この宇宙の片隅で生きているのだと実感する。
地球という惑星の、日本という国の、この小さな町の、さらに小さな一点に、私は今、確かに存在している。
あの星たちは、何を思っているのだろう。
星に意識があるとは思わない。でも、もしあったとしたら。何百光年も前の光を放ち続けている星たちは、この小さな地球の、さらに小さな私のことを、どう見ているのだろうか。
あの星たちは、ずっとそこにいる。
私が生まれる前も、私が死んだ後も。人類が誕生する前も、滅びた後も。ただ静かに、そこにいる。
歩きながら、そんなことを考える。哲学的になるつもりはない。ただ、星を見上げていると、自然とそういう思考になってしまう。
一時間ほど歩いて、家に戻る。シャワーを浴びて、朝食を食べて、仕事に向かう。いつもと同じ一日が始まる。
そのはずだった。
第二章 白い天井
「今日の午後、病院に行ってきます」
朝のミーティングで上司に告げた時、周りの視線が一瞬集まった気がした。気のせいかもしれない。
「検査ですか? お大事に」
上司は簡潔に答えた。それ以上は何も聞かなかった。ありがたい。
私はその日、婦人科に行った。
先週受けた健康診断で、血液検査の値が悪かった。会社に提携する産業医から電話があり、すぐに精密検査を受けるよう言われた。
「ヘモグロビン値が7.2。これは相当低いです」
電話口の医師は深刻な声だった。
「通常、女性で12以上は必要なんです。あなたは重度の鉄欠乏性貧血です」
貧血。確かに最近、階段を上るだけで息切れがした。立ちくらみも頻繁だった。でも、疲れているだけだと思っていた。仕事が忙しいから。睡眠不足だから。そう自分に言い聞かせていた。
別の病院での血液検査の値が悪く、重度の鉄欠乏性貧血だと言われた。
「あなたの血液はスカスカです」
医師の言葉は直球だった。
中年の男性医師は、モニター画面を見ながら淡々と言った。まるで機械の不具合を指摘するように。
「これだけ数値が低いと、婦人科系の問題がある可能性が高い」
婦人科系の病気や不正出血を疑われ、即、婦人科に行くことを勧められた。
紹介状を握りしめて、総合病院の婦人科を訪れた。待合室には、妊婦さんや、母娘で来ている人たちがいた。私は一人だった。いつも一人だ。
名前を呼ばれる。診察室に入る。
婦人科に行く度に傷つけられる。
それは今回が初めてではなかった。以前、生理不順で受診した時も。下腹部痛で診てもらった時も。毎回、同じような経験をする。
37歳。
医師がカルテを見る。私を見る。再びカルテを見る。
「セックスのご経験はおありではないんですね」
必ず言われる言葉。
問診票に書いた。「性交渉の経験: 無」。事実を書いただけ。嘘をつく理由はない。でも、この項目を書くたびに、ペンを持つ手が震える。
「はい」
小さく答える。顔が熱くなるのがわかる。
医師や看護師の顔に嘲笑のようなものが浮かんでいる、ような気がする。
実際には笑っていないのかもしれない。でも、その表情の微妙な変化。一瞬の沈黙。それが私には嘲笑に感じられる。「37歳で?」という驚き。「何か問題があるのでは?」という憶測。そういうものが空気中に漂っているような気がする。
「そうですか。では、内診をしますが……」
医師は看護師と目配せをした。
「ヴァージンの方には痛いと思いますが」
「もし痛かったらお尻の方から入れますね。子どもにもそういうやり方を取るので」
そんな言葉の一つひとつに傷つく。
「ヴァージン」という言葉。医学用語として使っているのだろう。でも、その響きには何か、揶揄するようなニュアンスが含まれている気がする。考えすぎなのかもしれない。でも、そう感じてしまう。
そんなに悪いことなのか。
カーテンの向こうで体を診られながら、そう思った。経験がないこと。それがなぜこんなにも特別なこととして扱われるのか。
経験がないことは恥ずかしいことだとされている。
社会がそう決めている。37歳で経験がないのは異常だと。何か問題があると。そういう空気が、確実に存在する。
恥ずかしい。
顔を覆いたかった。ここから逃げ出したかった。
帰りたい。
でも、検査は続く。超音波検査。細胞診。質問。回答。すべてが苦痛だった。
「子どもと同じやり方」で検査を終えた私は、「結局、3センチほどの子宮筋腫が見つかっただけ」という医師の、「だけ」という言葉に、少しほっとした。
「この大きさなら、貧血の主な原因とは考えにくいですが、経過観察が必要ですね」
がん検診の結果は3週間後だ。
「それまで心配でしょうが、この年齢なら、がんの可能性は低いと思います」
この年齢。37歳。子宮頸がんのリスクが上がり始める年齢。でも、「性交渉がない」ことで、リスクは下がる。皮肉なものだ。
「鉄剤を処方します。毎食後、必ず飲んでください」
貧血の薬をもらって帰る道すがら、私は泣いた。
最初は我慢していた。病院を出て、駐車場に向かう間は。でも、車に乗り込んでシートベルトを締めた瞬間、涙があふれてきた。
ハンドルに額を押し付けて、声を殺して泣いた。駐車場には他にも車があった。誰かに見られたくなかった。でも、涙は止められなかった。
経験がない。
そんなに悪いことなのか。
何度も自分に問いかける。答えは出ない。
それは私が人非人のように扱われる理由になり得るのか。
医師や看護師は、そんなつもりはなかったのかもしれない。ただ医学的な事実を確認しただけ。でも、私にはそう感じられた。人間以下の存在として見られているような。
医師は終始、冷たかった。
あるいは、それは私の被害妄想なのかもしれない。医師は忙しい。一人一人の患者に感情的に関わっていられない。そうわかっている。でも、もう少し優しい言葉はなかったのか。もう少し配慮した態度はなかったのか。
もっと堂々としていれば良かった。私の尊厳は私自身が守る。誰に何と言われようとも、誰に嘲笑されようとも。
第三章 孤独の重さ
泣き止むまで、どれくらいかかっただろう。
ティッシュで顔を拭いて、バックミラーで自分の顔を確認する。目が赤く腫れている。これでは会社に戻れない。
スマートフォンを取り出して、上司にメッセージを送った。「体調が優れないため、午後は休ませていただきます」。嘘ではない。体調は最悪だ。心も体も。
車を発進させて、家に向かった。
なぜ、こんなに苦しいのだろう。
37年間、恋愛経験がないわけではない。好きになった人はいた。告白されたこともあった。でも、どれも長続きしなかった。タイミングが合わなかったり、価値観が違ったり、何となくしっくりこなかったり。
そして、気づけば37歳。
周りの友人たちは次々と結婚していった。出産報告を受けるたびに、おめでとうと言いながら、心のどこかでひりひりとした痛みを感じた。取り残されていく感覚。
でも、焦って誰かと付き合う気にもなれなかった。好きでもない人と、体だけの関係を持つ気にもなれなかった。それは私の価値観だった。間違っているとは思わない。
なのに。
なのに、なぜこんなに苦しいのか。
家に着いて、玄関のドアを開ける。誰もいない部屋。いつもの静寂。
ソファに倒れ込んで、天井を見つめた。白い、何の変哲もない天井。病院の天井も白かった。
星になりたい。
ふと、そう思った。
あの空に輝く星のように、静かに下界を見つめていたい。
星は孤独だ。一つ一つが遠く離れて、宇宙空間に浮かんでいる。でも、星は孤独を嘆かない。ただ静かに輝き続ける。何億年も、何十億年も。
私も星のようになれたら。
人間の価値観や、社会の基準や、そういうものすべてから解放されて。ただ存在するだけでいい存在になれたら。
私は生きている。
心臓が動いている。呼吸をしている。考えている。感じている。
こんなにも生きているのに。
なぜ、生きていることが、こんなにも苦しいのか。
第四章 星空への祈り
翌朝、5時30分。
アラームが鳴る。体は重かった。昨日、ほとんど眠れなかった。でも、ウォーキングに行こうと思った。行かなければ、このまま沈んでいきそうな気がした。
いつものように着替えて、外に出た。
空気が冷たい。吸い込むと肺が痛い。でも、それが心地よかった。生きている証拠。痛みを感じられるということは、まだ生きているということ。
真っ暗な田舎道を歩く。
星空は変わらずそこにあった。昨日と同じ星たちが、同じ場所で輝いている。
私がどんなに苦しんでいても、星は変わらない。地球上で何が起ころうと、星は黙って輝き続ける。その無関心さが、今日は救いに思えた。
北斗七星。北極星。アルクトゥールス。スピカ。
一つ一つの名前を心の中で唱える。まるで祈りのように。
星たちは答えない。でも、それでいい。答えを求めているわけではない。ただ、そこにいてくれればいい。
歩きながら、昨日のことを反芻する。
医師の言葉。看護師の表情。診察台の上で感じた屈辱。
でも、朝の冷気の中を歩いていると、少しずつ心が落ち着いてくるのがわかった。昨日ほど、苦しくない。まだ傷は残っているけれど。
私は間違っていないはずだ。
経験がないことは、恥ずべきことではないはずだ。
それは単なる事実で、良いも悪いもないはずだ。
社会が作り上げた価値観に、縛られる必要はないはずだ。
そう自分に言い聞かせる。でも、完全には信じきれない。37年間、この社会で生きてきた。その価値観は、私の中に深く根付いている。
涙はなかなか止まらなかった。
気づけば、また涙が流れていた。冷たい頬を伝う温かい涙。矛盾した感覚。
でも、昨日とは少し違った。昨日の涙は、悲しみと屈辱の涙だった。今日の涙は、それだけではない。何か、別のものも混じっている。
諦めではない。怒りでもない。
受容、だろうか。
自分が傷ついたことを認める。その傷を抱えたまま、それでも生きていくことを選ぶ。そういう決意のようなもの。
空が少しずつ明るくなってきた。東の空が、紺色から藍色へ、藍色から薄紫へと変化していく。星の光が、少しずつ弱くなっていく。
でも、星は消えたわけではない。ただ、太陽の光に隠れただけ。夜になればまた、同じ場所で輝く。
私も、そうありたい。
傷ついても、苦しんでも、それでも消えない。隠れることはあっても、存在し続ける。
そして、いつか。
いつか、この傷も癒える日が来るかもしれない。あるいは、傷を抱えたまま、それでも平穏に生きられる日が来るかもしれない。
今はまだ、そう信じることしかできない。
でも、それでいい。
家に戻る頃には、空はすっかり明るくなっていた。鳥たちが賑やかに鳴いている。新しい一日が始まる。
シャワーを浴びて、朝食を食べる。鉄剤を飲む。小さな錠剤が、喉を通っていく。
今日も、生きていく。
明日も、生きていく。
星空の下で生まれた小さな命として、この宇宙の片隅で、静かに生きていく。
三週間後、がん検診の結果は陰性だった。子宮筋腫は経過観察。鉄剤を飲み続けることで、貧血も少しずつ改善していった。
体調が良くなるにつれて、心も少しずつ軽くなっていった。
あの日の傷は、完全には消えない。でも、それは私の一部になった。
そして、私は今日も、朝5時30分に家を出る。
星空の下を歩く。
私は生きている。この宇宙の片隅で、確かに生きている。
それだけで、十分なのだと、少しずつ思えるようになってきた。




