弥生と邂逅したクレナイを招き入れる桐谷
「あ~るうっひ♪ あ~るうっひ♪ もりのなっか♪ もりのなっか♪」
吸血鬼である緋波弥生は声が出せないわけではない。
考明塾でずっと黙っているのは声を出すと噛み付く時に相手に気付かれてしまうからだ。
だから誰もいない場所では声を出す。
特に夜間の反射してくる自分の声は心地よかった。
この歌だってフラグを立てようという思惑ではなく、一人輪唱が周囲から反射してくる音を楽しむ為なのだ。
眷属になって初めての外出ではないが、人目を盗んだりドサクサにまぎれたりして抜け出せたことは数回あったが、こうして人気のない場所、森林地帯に紛れ込むことが出来たのは眷属となって初めてだった。
「くまさ~んっに♪ くまさ~んっに♪ で~あ~あった♪ で~あ~あった♪」
弥生がグールやゾンビではなく眷属であることをもっともはっきり認識しているのは弥生自身であるのかもしれない。
なぜなら血を求めて人を探すよりも、こうして夜の風情になびく散歩の方が大切に思えるからである。
そう、何も考えていないように若生を始め塾の面々に評価されているが欲望の優先順位ぐらいは持っているのだ。
多少恐怖感が希薄になってしまっているだけなのだ。
「はなさっくもりのな~かあ~♪ くまさんに~で~あ~あった♪~っあ?」
だから正面に黒い大きな影が現れて驚かない。
それが立ち上がってこちらに来ても怖くはない。
目の前で何か聞いたことのない音で吼えながら口をあけても逃げない。
それが肩に噛み付いて自分の骨を砕いても手を添えてみる。
「いたひ・・・」
痛みを感じても拒絶はしない。
毛の感触を確かめてみる。
それは口を離した。
牙が引き抜かれた跡から弥生の血があふれ出す。
それは最初飲む為に血を舐め始めたのだが、次第に傷口を癒すような舐め方に変わっていった。
黒い毛を生やしたモノの体表に見る見る毛が潜り込んでいく。
殆どの体毛が無くなり耳は縮み、鼻も低くなり上下の顎も頬に潜り込んでいった。
歪な異形の生き物となり熊であった時の面影は想像できないほどに変わり果ててしまっていた。
「ヒューム」
異形の者は声を鼻から出した。
「ふーむ」
弥生が真似をしてみる。
「ヒューム」
「ふーむ」
桐谷翔太が弥生を見つけたのは、そんな怪物が弥生を肩に乗せて立ち上がった時であった。
ベン・マルリック、十海七緒、そして桐谷はいなくなった弥生を手分けして探していた。
街中はマルリックと七緒に任せ、桐谷は自宅マンションから山越えのルートを考明塾に向かって探索していたのだが、それが大当たりだったようだ。
「なんだ? てめー緋波姉をどうしようてんだ?」
桐谷はそれが熊であったなどとは想像出来ない。
「ヒューム・・・」
「ふーむ」
人間でないモノが鼻声を出し、弥生はそれに答えているように見える。
弥生は殆どなで肩で背中と区別が付かないような肩に両腕を曲げて乗せ、さらに顎を乗せくつろいでいるように見える。
引き離した方がいいのか?
何故なら弥生の右肩のブラウスは破れ血が付着していたからだ。
さらけ出された肩は外傷こそなかったが窪んだり盛り上がったり、骨にまで損傷がありと見受けられた。
異形の者はこちらを見てはいるが無表情で怯えたり敵意を表したりはしていない。
桐谷は意を決して弥生の脇を抱いて怪物から引き離そうとした。
しかし弥生は抱きついた背中にさらに腕を伸ばして離れようとしない。
怪物も弥生を抱いた反対側の方を向いて桐谷に割って入るような体制になった。
「緋波を何処に連れて行こうってんだ?」
怪物は桐谷に手を伸ばして上着・厚手のパーカーコートをつかんだ。
桐谷は一瞬身構えたが怪物はそれ以上のことはしてこない。
「着るものが欲しいってか?」
「ヒューム」
「ふーむ」
応えているのかどうなのか、怪物が鼻を鳴らし弥生が声を出す。
桐谷はコートを脱いで怪物に被せた。
抱き上げた弥生が邪魔で着せることは出来なかったがあまり背は高くなかったので尻までは十分に覆うことは出来ている。
「来いよな? 来てもらっていいよな? 緋波とコートをくれてやる訳にゃいかねーんだ」
桐谷は弥生を片手で抱きかかえたままの相手に背を向けて数歩歩いて振り返った。
怪物は歩みを止めて立ち止まった。
相手はしっかりこちらと等距離をとって、ついて来てくれるようだった。
こうして桐谷は珍客を考明塾に招き入れることになったのである。




