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お前を愛することはない?白い結婚?そうですか。であれば王国乗っ取りです!

 宮廷の回廊には、夕陽が斜めに差し込んでいた。

 磨き上げられた大理石の床が橙色に染まり、壁にかけられた絵画の金の縁がきらきらと光を返す。

 どこを見ても、歴代の栄光と権威を誇る装飾ばかり――けれど、そこにひびが入り始めていることを、気づいている者はどれほどいるのだろう。


 私はソルラート公爵家の長女、ヴァイオレット・ソルラート。

 ――この国の三割の財を握り、軍と街道網の要を押さえる名門の娘。


 当然のように、私は物心つく前から「未来の王妃」と呼ばれていた。

 周りの誰もが、私が王太子アレクシスの隣に立つ未来を疑わなかった。


 幼い頃の記憶の中でのアレクシスは、気まずそうに視線をそらしながらも、私の手を引いて庭を走ってくれた少年だった。


「なぁヴァイオレット、また難しい本読んでるのかよ。外で遊ぼうぜ」


「今は税の歴史を勉強中ですの」


「税の歴史って……」


 あの頃はまだ、彼のため息に半分は呆れ、半分は微笑ましさが混じっていた。

 やがて王立学舎に上がる頃には、私は常に首席。礼儀作法も舞踏も外交儀礼も、「未来の王妃としてふさわしいように」と一歩先を求められ続けた。

 そのたびに、アレクシスの瞳の色は少しずつ濁っていく。


「……またお前が一番かよ」


 試験結果を見たあの日、少年の不満げな呟きに、私は深く考えなかった。


「殿下が本気を出されれば、いくらでも――」


「うるさい。慰めなんかいらない」


 冷たい声も、「思春期の気まぐれ」としか受け取らなかった。

 今にして思えば、あの頃にはもう、彼のなかで何かが捻じれていたのだろう。


 そんな折に、男爵令嬢ラウラが現れた。

 初めて舞踏会に姿を見せた彼女は、淡い紅色のドレスにふわりと巻いた栗色の髪。「庶民出のシンデレラ」を演じるには申し分ない姿だった。礼儀はぎこちなく、言葉遣いも粗いが、それを補う図々しい愛嬌がある。


「まぁ、アレクシス殿下って、本当にお優しくていらっしゃるのね!

さっきも、ちょっと裾を踏んでしまった私を、すぐ庇ってくださって……ああいうのって、本物の王子様じゃないとできませんわ!」


「そ、そうか?」


「ええ! 下級貴族の娘にも分け隔てなく優しくしてくださるなんて……殿下って、“民の王”って感じがします」


 たどたどしいお世辞。だが、アレクシスの耳には甘露のように響いたらしい。

 その日以来、彼は彼女の視線だけを求めるようになった。


 ――殿下、それはおだてられているだけです。

 ――民の王を名乗るなら、まず民の生活から学ぶべきです。


 そう言いたい衝動を、私は飲み込んだ。

 婚約者とはいえ、男爵令嬢をあからさまに否定するのは得策ではない。正論を言ったとて響かないのはわかっている。


 国王陛下も、ラウラの存在には気づいていた。


「アレクシス、あの男爵令嬢とばかり付き合うのはやめなさい。相手も立場をわきまえるべきだが、お前も王族として節度を――」


 だが王妃は、柔らかな笑みでそれをかき消す。


「まぁいいではありませんか。若いうちに恋の一つや二つ。

いずれ落ち着けば、ヴァイオレット様ときちんと夫婦になるのですし」


「母上、ありがとうございます…!」


 王妃にとっては、息子の恋も子供の遊び。

 国王がどれほど諫めても、彼女は「若気の至り」で済ませ、アレクシスは耳を貸さない。

 宮廷では二人の噂がひそひそと囁かれたが、それでも私は楽観していた。


 ――妾の一人や二人、禁じるつもりはない。

 ――王妃の座さえ確保されるなら、感情は後から整えればいい。


 貴族社会の結婚とは、そういうものだ。

 愛情はあれば幸い、なくとも務めは果たせると信じていた。


 そんなある日、国王陛下から密かな呼び出しを受けた。

 病床の陛下は、目に見えて痩せていたが、その眼光はまだ王のものだった。


「……ヴァイオレット。来てくれてありがとう」


「お呼びに応じるのは当然の務めにございます、陛下」


 陛下は窓の外を見つめ、低く言う。


「……アレクシスと、あの男爵令嬢のことは耳に入っているな」


「はい。噂とはいえ、存じ上げております」


「すまない」


 その一言に、私は息を呑んだ。

 王が、公爵家の娘に「すまない」と頭を下げるなど、本来あり得ない。


「ソルラート公爵家には、この国のためにあまりに多くを捧げてもらってきた。その娘であるお前に、辛い思いをさせる。それを止めきれない自分を――王として情けなく思う」


「陛下……」


「だが、あの男爵令嬢に正妃が務まるはずがない。せいぜい妾か側妃どまりだ。世論も貴族も、それ以上は決して認めまい。お前が正式な王妃となることは揺るがない。

ただ、その前後に少し、苦い時期を過ごすかもしれん」


ヴァイオレット、と名を呼び、陛下は続ける。


「王太子がいかに愚かであろうと、王家とソルラート家の結びつきが絶たれれば、この国はたちまち不安定になる。お前には、この国のために動いてもらわねばならん。……頼めるか?」


 私は、胸の奥の痛みを飲み下した。

 感情としては、ラウラを遠くの領地か修道院にでも追い出してしまいたかった。

 だが、それができないことも理解している。

 王太子の感情を完全に無視することは、かえって彼の暴走を招きかねない。


「政略結婚ですから、陛下。

私は、貴族として、ソルラート公爵家の娘としての務めを果たすだけです。感情は、その後ついてくるものでございます」


「ヴァイオレット……」


「苦い役回りを引き受けているのは、私だけではありません。領地の民も、他の貴族も、それぞれの場で苦い決断をしていることでしょう。私だけが逃げるわけには参りません」


 陛下はしばし黙し、やがて深く頷いた。


「……やはり、お前を未来の王妃にと望んだのは間違いではなかった」


 その言葉は、慰めにも、鎖にもなり得る言葉だ。

 だが私は、それを誇りとして受け取ることにした。



 ――その数ヶ月後、国王は崩御した。

 喪も明けぬうちに、王太子アレクシスは王城の大広間で高らかに宣言する。


「俺は、二人の女と婚姻を結ぶ!」


 ざわめく貴族たち。

 誰もが「ソルラート公爵令嬢ヴァイオレットが正妃、男爵令嬢ラウラが側妃」だと考えたはずだ。


「正妃はラウラだ。そして第二妃は――ヴァイオレット・ソルラート」


 空気が凍りつく。

 私は、指先に力が入るのを感じたが、表情は崩さない。


「ラウラは政務が苦手だ。だから、ヴァイオレット。お前には“側妃”としてラウラを補佐させてやる」


「……側妃、にございますか」


「そうだ。正妃のすぐ下の立場だ。ありがたく思えよ。それと――」


「お前を愛することはない、ヴァイオレット」


 大広間に、ぴんと張り詰めた静寂が落ちた。


「お前とは白い結婚だ。俺が愛しているのはラウラだけ。正妃であるラウラの補佐をできる立場、ありがたく思うがいい」


 正妃の椅子に座ったラウラが、勝ち誇った笑みで言葉を添える。


「まぁ殿下……そんなはっきりおっしゃらなくても。でも、ヴァイオレット様ならきっと政務はお得意でしょうし? 私は、難しい書類は考えただけで頭が痛くなってしまいますもの」


 背後で椅子がきしむ音。

 ソルラート公爵――父の声が低く響く。


「……ふざけるな」


 父は立ち上がり、腰の剣に手をかけた。

 その前に、私は一歩踏み出す。


「お父様。剣に手をかけるのはおやめください」


「ヴァイオレット、お前――!」


「ここで血を流せば、得をするのは誰でしょう?」


 私は父だけに聞こえる声で続けた。


「殿下は今、自らこの場で、ソルラート家との『契約を軽んじた』と、世界中の使節の前で示されました。ここで私たちが感情に任せて剣を抜けば、軽んじられた側が“短慮な暴徒”に見えるだけです」


 父の手が、わずかに剣の柄から離れる。


「怒りは十分理解しております。私も辱めを受けています。ですが――諸外国は、今この瞬間も“誰が軽率で、誰が長期的な視野を持つか”を見ております。

 誰と同盟を結ぶべきか、誰から距離を置くべきかも」


 私は父をまっすぐ見つめた。

 

「お父様、私に時間をください。数字と条約と現実で、“剣より確実な答え”を揃えてみせます」


 長い沈黙ののち、公爵は息を吐いた。


「……よかろう。だが長くは待たんぞ」


 アレクシスも王妃もラウラも、このやり取りの意味を理解していなかった。

 ただ、「ソルラート家は従った」とだけ認識した。

 その甘さこそが、のちに彼らの首を絞める縄となる。


*****


 それから数年。

 アレクシスとラウラは、ほとんど仕事をせず、朝から晩まで遊び呆けた。


 「アレクシスさまぁ〜、このネックレスも欲しいですぅ」「いいともラウラ。棚ごと買ってやるさ」


 そんな会話が王都中に響く一方で、王城西翼の政務室の灯りは夜更けまで消えない。

 国境問題、税率調整、新条例案、通商協定、軍編成――山のような書類が、ことごとく私の机に積まれていく。


「ヴァイオレット様、本来は殿下にご覧いただくべきなのですが……」「殿下曰く、“難しい話は全部ヴァイオレットに回せ”と」


 数字を整え、条文を修正しながら、私は静かに見極めていった。

 誰が本当に国を憂え、誰がただ王家に媚びているだけか。


 公爵領から時折届く報告書の端には、父の短い言葉が添えられていた。

 ――すべて読み、理解した。

 ――必要とあらば、いつでも動ける。


 そんな折、隣国から特命大使がやって来る。名をルシアンと名乗った。

 灰色の瞳をもつ長身の男は、冷静な理性と、皮肉まじりのユーモアを併せ持っていた。


「現行の通商税率では、御国を経由する利が薄い。少しばかり算盤を弾き直す必要がありますね」


 地図と数字を挟んで議論する夜が続く。

 窓の外からは、ラウラの笑い声と楽団の音が響く。


「――なるほど。この国の“未来の王”は、政務を回すことよりお飾りの妃と回る方が好みらしい」


 その言葉に、私は小さく笑う。

 人差し指を唇にあて、ルシアンの言動を窘めながらも、胸の奥では同意している自分がいた。


 そうして三年が過ぎた。

 白い結婚が、条件を満たすだけの年月が。


*****


 そして、その年の春。

 五年に一度、各国持ち回りで主催される大規模な夜会――『星冠の晩餐会』が、我が国で開かれることになった。

 各国の王と王妃、皇太子、宰相、名だたる貴族が一堂に会し、公には祝宴、裏では交渉が飛び交う場。

 アレクシスは、それを「自分を見せびらかす舞台」と信じて疑わなかった。


「ヴァイオレット、準備はいいな?今夜は俺とラウラが主役だ。お前は第二妃として、引き立て役に徹しろ」


「ええ、心得ておりますわ」


 私はソルラート家の紺青に銀糸で星々を散らしたガウンを身につけ、ラウラは真っ赤なドレスに宝石を山ほど身につけていた。


「ヴァイオレット様って、本当にお仕事ばかりで可哀想ですわぁ。でも誰かが働いてくださらないと、殿下も私も困りますものね?」


「お役に立てているなら何よりです」


 ――全て、今夜で終わりだ。

 シャンデリアが煌々と大広間を照らす。


 開会の辞のあと、王妃がアレクシスとラウラの婚姻と三年間の「麗しき歩み」を讃え始めた、その時。


「失礼いたします、王妃殿下」


 私は、一歩前に出る。

 音楽が止まり、視線が集まる。


「アレクシス・ローヴァイン殿下、ならびにこの場にお集まりの皆さまに、一つご報告がございます」


「なんだよヴァイオレット。今は俺とラウラの――」


「ええ。殿下とラウラ様の物語に、一区切りをつける時だと思いまして」


 壇上の中央に立ち、私は告げた。


「本日をもって、私はアレクシス殿下との婚姻を破棄いたします」


 大広間が息を呑む。


「……は?」


「白い結婚が三年続いた場合、一方が離縁を申し出れば、もう一方の合意なく婚姻を破棄できる。王国法第四十二条です。殿下も学ばれたはず」


「そんなもの覚えてるわけ――」


「覚えていらっしゃらなくても結構。殿下が法を無視してこられた証拠として、むしろ分かりやすい」


 静かなざわめきが広がった。


「本日でちょうど三年。ゆえに、私は自由の身となります」


 アレクシスが叫ぶ。


「ふざけるな! お前は俺の第二妃だぞ!? 誰が白い結婚だって証明するんだ!」


「殿下。この三年間、私の部屋を訪れたことが一度でもおありでしたか?」


 言葉に詰まる殿下をよそに、私は続ける。


「侍女たちも、医務室も証言してくださるでしょう。私が清い乙女であることは、いくらでも証明できます」


 ラウラが顔を赤くして割って入る。


「べ、別にいいじゃないの! 殿下がヴァイオレット様を愛してらっしゃらないなんて、皆知ってるわ!」


「ええ。だからこそ、白い結婚は無事成立したのですわ」


 私は、彼女ににっこりと微笑みかける。


「そしてもう一つ」


 私は父を振り返った。ソルラート公爵は静かに頷く。


「ソルラート公爵家は本日をもって、王国から独立いたします」


 雷鳴のようなどよめきがあがる。


「なっ――!」


「これに呼応し、我が家もソルラート家に従う!」「我が領も!」


 あらかじめ水面下で合意を得ていた諸侯たちが次々に名乗りを上げていく。

 ソルラート家と経済的に結びつく家々、王太子の浪費にうんざりしていた地方侯、王都を離れたがっていた者たち――。

 王妃が蒼白になって立ち上がる。


「何を勝手なことを! そんな宣言、認められると――」


「認めるかどうかを決めるのは、もはや王宮ではなく、この国の民と世界ですわ、王妃殿下」


 私は淡々と言う。


「殿下が政務を放棄して三年。その間、誰がこの国の基盤を維持してきたか――皆さまは既にご存じでしょう」


父が一歩前へ出る。


「三年前、娘は申した。“数字と条約と現実で、剣より確実な答えを揃える”と。本日、それをお見せしたのみ」


 諸外国の王や使節が、低く囁き合う。

 ――最近の交渉窓口は常にソルラート令嬢だった。

 ――条約文はむしろ精度を増していた。

 ――王太子の署名は、ほとんど見なかったが……。

 やがてひとつの結論へと収束する。

 ――この国を支えてきたのは王太子ではなく、ソルラート家だ。


 アレクシスが、子供のように叫ぶ。


「ヴァイオレット! 行くな! お前がいなきゃ、俺は――!」


「殿下。私はもう自分の未来しか見ませんの。

そこに――殿下の居場所はありませんわ。」


*****


 あの日から、旧王国の崩壊は早かった。

 ソルラート家と諸侯が離脱し、税収は激減。軍の主力も失われた。

 優秀な官僚は新国家へ移り、王城に残ったのは王家に媚びる取り巻きと、責任を他人に押しつける者ばかり。

 アレクシスとラウラ、そして王妃は、最初こそ「裏切りだ」と怒り狂ったが、すぐに互いへの罵倒へと転じる。


「アレクシス! あなたがヴァイオレットを甘く見たからよ!」


「うるさい! 母上が甘やかすからラウラも調子に乗ったんだ!」


「殿下が何でも買ってくださるって言ったじゃないですか!」


 王都の外では、民が飢え始めていた。

 やがて、ラウラが夜陰に紛れて王都から逃げ出そうとしたとき、怒り狂った民衆に捕まり、その場で命を落としたそうだ。


「こいつが俺たちの税を吸い取った女だ!」「見ろ!宝石をたんまりと隠し持ってるぞ!」


 その報せを聞いた時、私はしばらく手を止めた。哀れだとは思った。

 だが何より――あの時、正妃の椅子に座るべきではない女を座らせたのは、他ならぬアレクシス自身だ。

 その事実の重さを、誰よりも理解している自分がいた。


 そして、ラウラを失ったアレクシスは、

 最後の支えを求めるように、こちらの国境門を叩いてきた。


*****


 新国家の首都となった城の謁見の間。

 白い大理石に深い青の絨毯。天井には、新しい紋章――太陽とソルラート家の紋を組み合わせた意匠が描かれている。

 私は玉座に座し、侍従の声を聞いた。


「陛下。旧王国より、お一方が……」


 扉が開き、引きずられるようにして一人の男が現れる。

 泥にまみれ、やせ細り、伸び放題の金髪。だが瞳だけは、まだ自分を「特別」だと信じている光を宿していた。


 アレクシス。


「ヴァイオレット!」


 衛兵の制止を振り切り、彼は半ば這うようにして近づいてくる。


「ヴァイオレット……助けてくれ……!

ラウラは民に殺された……母上も、もう何を言っているのか分からない……王都は混乱して、誰も俺の言うことを聞かない……!」


 私は黙って見下ろした。


「お前がいなきゃ、国は……国は……!

ヴァイオレット、頼む……戻ってきてくれ……!」


「……殿下。ここは、もはや殿下の国ではありません」


「わかってる! だから頼んでるんだ……!

お前が戻って俺を支えてくれれば、俺はやり直せる……!

今度は……今度はちゃんと、お前を愛するから……!」


 その言葉で、広間の空気がひやりと冷えた。


「ラウラはもういない……俺が愛せるのは、お前しかいない……!

今度はちゃんと、お前を正妃にする……! だから――」


「……何故?」


 私ははっきりと問い返した。


「……な、ぜ……?」


「なぜ今になって、私を“愛する”などと仰るのですか」


「ラウラが……もういないから……」


「殿下。それは、“正妃の椅子が空いたから、お前でいいや”と仰っているのと同じですわ」


 アレクシスの顔から血の気が引いていく。


 「ち、違う……!

 お前は俺のことが好きだっただろ……? 俺のために働いて、俺の国のために身を粉にして……!」


「いいえ」


 私はきっぱりと言った。


「私は、“貴族として当然の務めを果たす”ために働いただけです。殿下という“個人”のためではありません」


「で、でも……お前はまだ独りだろ……? 俺が迎えに来てやったんだ。今度はちゃんと――」


「それも違います」


 私は玉座から立ち上がる。


「私はもう独りではありません。すでに、妻としての席も、隣に立つべき人も手に入れております」


「……は?」


「殿下の知らないところで、世界は進んでいるのですよ」


 私は玉座の隣に控えていた影を見る。

 一歩、前に出る足音。灰色の瞳を持つ長身の男。


「――俺の妻に、馴れ馴れしくしないでいただきたい」


 ルシアン・グレンフィールド。

 この国の王配。私の夫。

 穏やかな声に、鋭い刃が潜む。


「お前……いつの間に……結婚なんか……」


「言っておりませんでしたもの。言う必要もありませんでしたし。私の人生を、殿下に報告する義務はありません」


 ルシアンが一歩進み出る。


「アレクシス殿下。あなたはこの三年間、何を為されましたか?」


「な、何をって……」


「税制改革の議論に出席なさいましたか。軍の再編に署名されましたか。民の前に立ち、その不満を聞かれましたか」


 矢継ぎ早の問いかけに、アレクシスは一言も返せない。


「あなたが為したのは、宴を開き、宝石を買い漁り、気に入った女を王妃の椅子に座らせ、反対する声を無視したことだけです」


「ち、違う……! 俺だって国のことを――」


「では、証をお見せください」


 ルシアンの声は淡々としていた。


「あなたが署名した法案でも、主導した交渉記録でも、民へ向けて出した布告文でも、一つで構いません。“あなたが王にふさわしい”と示す何かを」


 沈黙。何も出てこない。

 彼の中にあるのは「自分は王太子だ」という妄想だけで、それを裏付ける現実はない。


「あなたが今、ヴァイオレットに差し出しているのは、崩壊寸前の小国と、責任を放棄した人生の残骸だけです。それを抱えてくれと頼むことが、どれほど傲慢か、お分かりになりますか?」


 アレクシスの膝が崩れ落ちる。


「……ヴァイオレット……頼む……もう一度だけ、チャンスを……今度こそ、本当に――」


「私は、殿下の人生をやり直すための道具ではありません。殿下が捨ててきたものを拾い集める便利な手でもありません」


 私は最後の言葉を告げた。


「私が愛しているのは――この国と、この国に生きる人々と、この手を取って共に歩むと誓ってくれた人だけです」


 ルシアンが私の手を握る。

 その瞬間、アレクシスの目から最後の光が消えたように見えた。

 衛兵が静かに彼の腕を取る。抵抗はなかった。

 扉の向こうに消える背中を、私は一度も目を逸らさず見送った。


*****


 ――それから、そう長い時間は経たなかった。

 旧王国は、自力では立ち直れなかった。

 王太子は不機能、王妃は錯乱し、貴族同士の争いは泥沼となり、

 民は疲弊し、隣国からの圧力も増した。


 程なくして、旧王国から一つの報せが届く。


「元王太子アレクシスが、暗殺された」


 首謀者は分からない。復讐に燃えた貴族か、飢えた民か、王家内部か。

 だが、それを突き止めようとする者はほとんどいなかった。

 皆、次の一歩に忙しかったのだ。

 過去の亡霊に縛られている暇など、誰にもなかった。


 数年後。

 旧王国の残滓を名乗る小国から、使節団がやって来る。


「我らの国を、新国家の属国として認めてほしい」


 かつて王家に仕えた官僚たちの顔が並んでいた。

 私は玉座から降り、彼らと同じ高さに立つ。


「私はあなた方を突き放すつもりはありません。ただし――」


 王権の大幅な制限、議会制の導入、財政の公開、新国家への報告義務――厳しい条件を突きつける。

 彼らは、それでも顔を上げた。


「受け入れます」


 その声には、かつてアレクシスにはなかった覚悟が宿っていた。


「ようこそ。新しい未来へ」


 私はそう告げた。




 窓の外では、新国家の旗と、新たに属国となる小国の旗が並び、同じ風を受けていた。

 かつては一つの王国だった色が、いまは二つに分かれてはためいている。

 その境界線を決めた署名が、自分の手によるものだと思うと、少しだけ肩が重くなる。


「……疲れましたか?」


 隣でルシアンが問う。


「いいえ。ようやく、出発点に立った気分ですの」


 旧王国を救うことも、滅ぼすことも、私一人の望みではなかった。

 ただ事実として――剣ではなく、条約と離縁届で、一つの王国のかたちを変えてしまった。


「これから先は、あなたが選んだ“国”が、あなたを裁く番ですね」


「ええ。だからこそ、今度は国に恥じないように生きないと」


 “王妃”という肩書きは失った。

 代わりに得たのは、もっと重く、もっと逃げ場のない立場だ。

 それでも、あの大広間で「側妃」と呼ばれたあの日より、今の方がずっと息がしやすい。

 二度と、誰かの気まぐれひとつで切り捨てられる場所には戻らない。

 自分で選んだ椅子から、自分の意思でしか立たない。


 それが、私がこの人生で選び直した、たった一つの贅沢なのだと思う。



〜fin〜

ここまでお読みいただきありがとうございました!

シリアス調&ざまぁをガッツリ!の短編でした。

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