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炭鉱町の残照

雨音や電子レンジのタイマー、小さな会話や湯気のぬくもり。日々をかたちづくるものは、意外とそんな静かな音や、見落としそうな光景だったりする。


 この物語には、派手な出来事や大きな事件は出てこない。登場するのは、くたびれたジャージのズボンと、背中の湿布。安酒とちくわと、ご褒美に買う菓子。孤独と向き合う夜、そしてほんの小さな勇気。


 でも、それこそが「生きる」ということの、手ざわりなのだと思う。ひとりの中年男性の、静かで、少しだけあたたかい数日間を通して、誰かの胸にそっと届く何かがあるなら――それだけで、この物語にはきっと意味がある。


 あなたの心の片隅に、やさしく寄り添うように。


 ページをめくる、その手のぬくもりを信じて。

レンジのタイマーが、小さく鳴る。




 弁当のふたを開けた途端に、しっとりした湯気が部屋の空気に混じった。味のしみた卵焼きと、昨日の残りのひじき。買い置きの安いソーセージを、パックのまま小さくちぎる。


 ちゃぶ台の上、セドリックのキーが転がっている。金属の冷たさが、今夜はやけに指先にまとわりつく。




 窓の外は、ずっと雨が降っていた。ベランダのプランターが濡れて揺れている。夏に植えたミョウガをひとつ摘んだ痕が土に残ったままだ。


 腰をひねると、湿布がシャツに貼りつく感覚。そこから冷たさが背中に広がって、すこしだけ息が詰まる。


 部屋のどこかで冷蔵庫が小さく唸っている。




 母親の留守電。短い声が、スマホ越しに何度も繰り返される。


 「身体、だいじにしなさい」


 それだけ。夜のしじまに、声だけが染みていく。




 松井さんの部屋の灯りは、ここ何日も消えたままだ。階段の手すりのさびが、手にうつった赤茶けた跡を消せないでいる。


 足音は聞こえない。


 アパートの壁越しに、誰かの子どもの声が遠く跳ねていく。自分の部屋だけ、空気が湿って重たい。




 ふと、テーブルの上でセドリックの鍵が転がる音。金属同士がぶつかっただけなのに、妙に大きく響く。


 この音を聞くと、なぜだか昔のことを思い出す。


 あの頃、俺はまだ48だった――何を守ってきたんだろうな――




 静かな部屋で、レンジのタイマーがまた鳴った。




---







 外はまだ暗い。


 アパートの廊下に出ると、壁伝いにしみ込んだ冷気が足首を刺した。階段を下りるたび、古いコンクリートがミシミシと鳴る。


 鼻をすする音が、やけに大きく響く。手のひらの中でお守りの根付がじっとり冷たかった。




 神社までの道、街灯のオレンジが遠くにひとつ灯っている。


 道端の水たまりが薄く凍って、踏むたびにグシャ、と音がする。


 鳥の声は聞こえない。神社の鳥居の向こう、空がほんのり青みがかってきた。


 息を吐くと白い。


 ポケットの中で小銭を探す指が、しびれる。




 賽銭箱に五円玉を落とす。手を合わせる。


 ――母ちゃんが元気でありますように。


 ――自分も、今日一日、事故に遭いませんように。


 短く願いごとを並べて、指先をぎゅっと合わせる。


 背中を丸めて深くお辞儀。


 目を開けると、手水舎の水面に空の色が揺れていた。




 帰り道、空き缶が転がっている。小走りに拾ってポケットにねじ込む。


 アパートの自分の部屋に戻ると、まだ誰も起きていない気配。


 台所で冷えたご飯を納豆でかき込む。卵焼きは前夜のうちに作っておいた。


 弁当箱にご飯を詰め、卵焼きを二つ。ちくわの端切れを入れて、ラップを被せる。




 出発前、鏡の中にパンチパーマとクマだらけの自分の顔。


 ジャージのズボンに指を突っ込んで、背中を軽く伸ばす。


 古いセドリックのキーを手に取り、外に出た。


 車のボディに夜露がうっすら光っている。


 運転席に腰を下ろし、エンジンをかける。ラジオは昨日のまま演歌の番組。




 シートベルトを引き、ダッシュボードの上に母親の写真を一枚。


 今日も何も起きませんように、と、呟いてしまった。




 アパート脇で、野良猫がじっとこっちを見ている。


 足が止まる。


 財布の中、小銭だけでキャットフードが買えるか指を数えてみる。




---







 会社の門をくぐると、砂利を踏む音だけが自分の足下で跳ね返った。


 中村産業の事務所は小さく、木枠の窓から黄色い光が漏れている。


 ドアを開けると、暖房のぬるい風と、古いストーブの灯油の匂いが鼻にまとわりつく。


 タイムカードを押すと、機械のガシャという音が、静かな事務所に一発響いた。




 同僚の坂田が新聞を広げて座っている。


 「おはようございます」と声をかけると、


 「だんちゃん、今日の配送多いみたいよ」と、ぶっきらぼうな返事。


 誰かの笑い声が奥のほうで転がる。


 自分は軽く会釈だけして、壁際の伝票ボードに近づく。




 今日の配送リスト。県内を横断、二か所寄って夕方戻り。


 天気予報は「のち雨」。ため息が出そうになるのを腹で押しとどめる。


 伝票をめくりながら、手の甲に油じみた紙のざらつきが残る。




 社長が奥から出てきて、「無理せんでいいぞ」と短く言った。


 そのまま、他の若い連中に目をやる。


 整備士がトラックのキーをまとめて持ってきて、


 自分は自分の番号札を無言で受け取る。




 荷台の扉を開ける。冷たい鉄の匂い。


 段ボールの山をひとつひとつ積み込む。


 腰に一瞬鋭い痛み。


 ぐっと歯を食いしばって、持ち上げて荷台へ滑らせる。


 自分だけしかいない。誰も手伝わない。


 トラックの床板に膝が触れ、冷たさが骨にまで届く。




 作業を終えると、周りにはもう誰もいない。


 手袋を脱ぎ、息を吐き出す。


 運転席のドアを開けて乗り込むと、事務所の方からまた笑い声がした。


 窓ガラスに自分の顔――強面でむすっとして、髪も乱れて、


 「やっぱり俺はこういう顔か」と、どこか他人事のように思う。




 エンジンをかけると、ラジオの演歌が流れ始めた。


 アクセルをそっと踏み込む。


 会社の駐車場を出ると、まだ朝の光が弱く、


 今日一日、何も壊れませんように――


 強くは願わず、ただそう思う。




---







 ハンドルを握る手が、じんわり汗ばむ。


 国道を抜け、山のふもとに差しかかる頃、窓の外に薄い雨雲が広がってきた。


 ワイパーのゴムが、ガラスをひっかくリズム。


 眠気がじわじわと首の後ろから這い上がる。


 演歌のラジオは、知らない曲を静かに流している。




 トラックの荷台から時々、段ボールがきしむ音がした。


 助手席には弁当箱。冷蔵庫で冷やした麦茶のボトル。


 眠気覚ましに、少しだけ窓を開ける。湿った空気が首筋を撫でる。




 最初の配送先、スーパーの裏口に車を着ける。


 小走りで荷降ろしを始めると、腰に一瞬だけ鈍い痛み。


 歯を食いしばる。段ボールの重さと、金属ラックの冷たさ。


 いつものこと、と自分に言い聞かせて、黙々と荷を運ぶ。




 荷降ろしの途中、スーパーのパートの女性が


 「すみません、駅はどちらですか?」と親子連れを連れて近づいてきた。


 声をかけられた瞬間、


 「駅は――」と口を開いたけれど、


 親子の視線が一瞬自分の顔を見て、すぐに伏せられる。


 子どもの手が母親の服をきゅっとつかんでいる。




 何も言えなくなってしまった。


 彼女たちは礼もそこそこに、足早に店のほうへ消えた。


 残ったのは湿った空気と、胸の奥に残る何か重たいもの。




 荷降ろしを終えて、スーパーの休憩室で弁当を広げる。


 誰もいない、壁際の机。


 卵焼き、ご飯、ちくわ。


 黙って箸を進める。


 他の運転手たちが遠くで世間話をしている声が、壁越しにぼんやり聞こえる。




 昼前、弁当箱を洗って、再び運転席へ。


 湿布を腰に貼り直す。


 冷たさが肌に沁みて、ちょっとだけほっとする。




 財布を取り出して、小銭だけで缶コーヒーを買う。


 自販機の前で、指先の感覚を何度も確かめる。


 残りの小銭を数えながら、


 「今日はもう余計な出費はしない」と、そっと自分に言い聞かせる。




---







 配送を終えて会社に戻るころには、雨は上がっていた。


 セドリックのシートに背をあずけたまま、窓の外をぼんやりと眺める。


 ダッシュボードの上で、中古車雑誌の切り抜きが風にふるえる。


 毎週土曜だけは、自分のための小さな決まりごと――


 コンビニで、最新の中古車雑誌をめくる時間だ。




 アパート近くのコンビニに入る。


 蛍光灯の冷たい光、ドアの鈴の乾いた音。


 レジの奥、女性店員が品出しをしている。


 顔を見た瞬間、心臓が一度ドクンと跳ねた。


 手元がぎこちなくなる。


 雑誌コーナーまで、何でもないふりで歩く。




 棚の一番上、今週の雑誌をそっと抜き出す。


 車体写真とパーツの値段、見覚えのあるメーカーの広告。


 ページをめくる指先が少しだけ震える。


 どの部品がいちばん安いか、脳裏で暗算。


 中古パーツの相場、メモがわりに指の腹で数字をなぞる。




 レジに向かう途中、ご褒美菓子をひとつだけ手に取る。


 袋のカサカサする音がやけに大きく感じる。


 女性店員がこちらに気づき、レジに立つ。


 「いらっしゃいませ」


 その声が少しだけ優しく聞こえた気がして、


 目を合わせられず、小さく会釈した。




 会計を終えて、レシートを受け取るとき、手と手が一瞬だけ触れた。


 自分の指が汗ばんでいるのが、恥ずかしい。


 「ありがとうございました」


 声に出せず、袋を握りしめて店を出る。




 外の空気はまだひんやりしていた。


 雑誌と菓子の入ったビニール袋が、指先で揺れている。


 溜息がひとつ、静かに胸の底に沈んでいく。


 帰り道、袋の中のご褒美菓子が、どうしようもなく重たく感じた。




---







 夕方になると、アパートの階段の古い鉄骨が軋んだ。


 酒の紙パックを片手に持ち、階下の松井さんの部屋へ向かう。


 ドアの横に置かれたサンダルが、かすかに傾いている。


 軽くノックをすると、中からゆっくり足音が近づいてくる。




 「おう、団ちゃんか」


 ガタついた引き戸の隙間から、松井さんの顔が覗いた。


 髪はほとんど白く、ほっそりとした指が扉を押さえている。


 「今夜も飲んでいくやろ」


 頷いて部屋に入る。




 畳の上、ちゃぶ台の上には塩昆布と漬け物。


 松井さんがコップに安酒を注いでくれる。


 窓の外、空が茜色に染まり始めていた。




 二人で黙って酒を口に運ぶ。


 松井さんがぽつぽつと昔話を始める。


 炭鉱の頃、仲間のこと、死んだ友のこと、


 煙草を吸いながら、時々遠くを見て咳き込む。




 「今の若ぇもんは、あんまり根性がねぇ」と、


 松井さんは苦笑いして酒を煽る。


 自分は何も言わずに、塩昆布をつまんだ。




 話題が「家族」に移ると、松井さんの声が少しだけ掠れる。


 「死んだ嫁も、こんな夕方が好きだった」


 そう言って、卓上の古い写真立てをそっと撫でる。




 自分は黙って相槌を打つだけだった。


 畳の感触、酒の温度、遠くの方で救急車のサイレンが微かに聞こえる。


 松井さんの咳が長引き、コップを持つ手が止まる。


 自分はそっと、彼のコップに酒を足す。




 ふと見上げると、天井の蛍光灯が薄く瞬いている。


 外の空気が夜に変わっていく気配。


 二人きりの夕暮れ――温もりと、どこか底の知れない寂しさが、畳の上に漂っていた。




---







 目が覚めたのは、まだ外が白む前だった。


 ベランダに出てみると、夜露がプランターの葉に丸い粒を残していた。


 冷たい空気を吸い込むと、眠気が一気に吹き飛んだ。




 台所でコーヒーを淹れ終わる頃、スマホが小さく震えた。


 画面には「母」の名前。


 胸のどこかがじわっと重くなる。




 「……もしもし」


 受話器の向こうから、母ちゃんの声が流れてきた。


 「団ちゃん、元気にしとるね?ご飯はちゃんと食べとるね?」


 「大丈夫、大丈夫」


 そう答えながら、食卓の隅に弁当箱を並べる。




 母の声が前よりも弱くなった気がした。


 何度も「無理せんでよか」と繰り返す。


 こちらから話しかけようとしたが、声が詰まってしまう。


 会話は短く終わった。




 電話を切ったあと、冷蔵庫の中を覗き込む。


 残った野菜を刻み、卵焼きを多めに焼く。


 今日くらいは母の分も、と、弁当箱に詰める手に少し力が入る。




 支度を終え、古いセドリックの助手席に母への土産の栄養ドリンクを置く。


 エンジンをかけると、車内に昨日の雨の匂いが残っていた。




 家を出てすぐのコンビニで、菓子と追加の栄養ドリンクを買う。


 レジの女性店員に「実家に帰るんです」と伝えかけたが、


 やっぱり口にはできなかった。




 幹線道路へ。


 道の脇に、うどん屋の赤いのぼりがはためいていた。


 ふいに、子どもの頃――母ちゃんと二人、うどんをすすった日のことが、胸の奥で鮮やかに蘇る。




 ハンドルを握りしめ、無事故で帰れますようにと、ただそれだけを思う。




---







 帰り道、夜の空気は思ったよりも冷たかった。


 コンビニの灯りが、路地に小さく滲んでいる。


 いつもの菓子を買いに、ためらいがちにドアを開けた。




 レジにはあの女性店員。


 小さな声で「ありがとう」と言いかけて、


 喉の奥で言葉が絡まった。


 目だけで会釈を返す。


 袋詰めの途中でレジ袋をもらい損ね、


 不器用に手を伸ばしたら、カゴの中の菓子を一つ落とした。




 店を出ると、遠くから若い男の笑い声。


 振り返ると、さっきの女性店員が常連客と親しげに話していた。


 手の中のレジ袋がやけに薄く、頼りなく感じた。


 胸のあたりが、急に冷たくなる。




 アパートへの帰り道、足音だけが自分を追いかけてくる。


 部屋に入って、弁当をレンジで温め直す。


 安酒を紙コップになみなみ注ぎ、一気に喉へ流し込む。


 アルコールの熱さが胃の奥でじんわり広がった。




 松井さんの部屋は今日も真っ暗だ。


 階段の踊り場で誰かが小さく咳払いをした気がしたけれど、


 気のせいかもしれない。




 スマホの画面が静かに光る。


 母親からの未読LINE。「元気にしとる?」


 文字を返せないまま、しばらく画面を見つめていた。




 弁当の温もりが、夜の空気にすぐ奪われていく。


 いつもの部屋、いつもの食卓。


 その静けさが、今日は妙に重かった。




---






 週末の午後、雨がぽつぽつとベランダのトタン屋根を叩いていた。


 新聞を取りに階段を降りると、下の廊下がいつもより湿って冷たく感じる。


 松井さんの部屋の前を通ると、中から妙に長い咳き込みの声が漏れてきた。




 ノックしようか、迷った。


 そのまま一度自分の部屋へ戻り、


 冷蔵庫から栄養ドリンクと安酒を取り出す。


 なんだか落ち着かなくて、コップに酒を注ぐ手も震えている。




 しばらくして、廊下に人の気配。


 アパートの別の住人が「松井さーん」と呼びかける声。


 返事がなく、ドアを開ける音。


 次の瞬間、誰かが「あかん!倒れとる!」と叫んだ。




 自分も慌てて駆けつける。


 畳の上で、松井さんが小さく丸まっていた。


 顔色が悪く、冷や汗で前髪が額に貼り付いている。




 救急車を呼ぶ。


 受話器を持つ手が汗ばんで、うまく番号が押せない。


 救急隊員が到着するまでの時間が、とても長く感じた。




 隊員に状況を説明しながら、


 何もできない自分が、ただその場に立ち尽くしていた。


 松井さんは担架に乗せられ、静かに運ばれていった。


 廊下の端に、松井さんの杖が転がっていた。




 雨の匂いと、遠ざかるサイレンの音。


 手に持っていた安酒がぬるくなっていた。




 部屋に戻っても、動悸が収まらない。


 窓を開けて深呼吸。


 ベランダのプランターに水をやる手が、微かに震えた。




 夜、何度も安酒に手を伸ばしそうになりながら、


 結局、冷めたままのコップをテーブルの端に置いた。




---






 日曜の昼過ぎ、雨上がりの空がやけに明るかった。


 病院の白い廊下は静かで、足音だけがコツコツと響く。


 受付で名前を告げると、細い声で「奥の窓際のベッドです」と教えられた。




 松井さんはシーツに半身を埋めて、細くなった指先を膝の上に置いていた。


 目を開けて自分の顔を見ると、ゆっくりと、いつもの笑みを浮かべた。


 「団ちゃん……わざわざ、来てくれたか」


 その声が小さく震えていた。




 ベッド脇の椅子に腰を下ろす。


 松井さんは少し体を起こして、手元の封筒をじっと見ていた。


 「これ、頼まれてくれんか。昔の仲間に、もう一度だけ会いたいけん」


 震える指で、黄ばんだ封筒を差し出す。




 封筒の表には、知らない名前と古い住所。


 「わしが死んだらでいい。無理はせんでよかけん」


 そう言って微笑む横顔に、細い頬骨と、寂しげな皺が刻まれていた。




 しばらく黙って二人で外を眺めた。


 遠く、病院の窓の向こうに、ぼんやり霞んだ山並みが見えた。


 「若いころは、あの山の向こうまで毎日歩いとった」


 松井さんの声が、遠くに消えていくようだった。




 「ありがとうな、団ちゃん」


 松井さんがそう言ったとき、胸の奥がぎゅっと痛くなった。


 自分は、ただ強くうなずくことしかできなかった。




 帰り道、封筒を胸ポケットにしまい、病院の長い廊下を歩く。


 ガラスの自動ドアが開くと、春の匂いがかすかに流れ込んだ。




 アパートに戻ると、松井さんの部屋の灯りはやっぱり消えたままだった。


 自分の部屋に入り、テーブルの上に封筒をそっと置いた。


 しばらくそのまま、封筒の文字をぼんやり見つめていた。




 夜、ベランダに出ると、山並みの向こうに、薄く星が瞬いていた。




---






 翌朝、松井さんの封筒をポケットに入れて外に出た。


 空は薄曇りで、アパートの廊下には誰もいない。


 ポストの前で足が止まる。


 何度も封筒の宛先を指でなぞる。知らない名前、遠い町。




 投函口の縁に封筒を当てたまま、なぜか指が動かない。


 松井さんの弱った声、あの笑みが脳裏に浮かんだ。


 「死んだらでいい。無理はせんでよかけん」


 胸の奥で言葉が重たく沈んだ。




 しばらく立ち尽くし、結局封筒をポケットに戻した。


 帰り道、コンビニの前を通る。


 入り口脇の植え込みに、いつの間にか小さな花が咲いていた。


 淡い紫色。しとやかに風に揺れていた。




 部屋に戻ると、スマホの画面が光る。


 母からの着信。「今日は寒かね、風邪ひかんごと」


 通話ボタンに指をかけるが、何も話せる気がせず、そのまま画面を伏せた。




 冷蔵庫から残り物を弁当に詰め、テーブルの端に封筒を置いた。


 温め直したご飯をかき込みながら、


 手紙を見ないふりで、ただ箸を動かし続けた。




 雨が窓ガラスを伝う音が、部屋中に響いていた。




 夜になっても、封筒はテーブルの隅でじっとこちらを見つめていた。




---






 日曜の昼、窓の外はどんよりした曇り空だった。


 部屋の片付けをしていると、スマホが小さく震えた。


 画面に「母」の名前が浮かぶ。


 指が止まり、深呼吸ひとつ。




 電話を取ると、母ちゃんの声はいつも通りだが、


 何となく、前より細くなったような気がした。


 「団ちゃん、またご飯作って食べとるやろ?」


 「うん。ちゃんとしとる」


 会話はどこかぎこちなく、


 母が「無理せんでね」「また帰っておいで」と繰り返すたび、


 自分の返事がだんだん短くなっていった。




 電話を切ったあと、テーブルの上の封筒と母からの仕送り通帳を並べてみる。


 ふとした拍子に、通帳の残高欄を指でなぞった。


 母ちゃんの字で「団ちゃんへ」と書かれたメモが挟まっている。




 夕方、気を紛らわせたくて神社まで歩く。


 参道の石は濡れていて、靴の底に冷たさが伝わる。


 手水舎で手を洗うと、冷たい水に指先がかじかむ。


 賽銭箱の前で、小さな声で「みんな元気で」と願う。




 帰り道、路地の隅で子猫が丸くなっているのを見つけた。


 コンビニで安いキャットフードを買い、しゃがんで皿にあけてやる。


 小さな背中が震えながら餌を食べているのを、しばらく黙って見ていた。




 ふいに、自分は一体何を守ろうとしているのか、立ち尽くしてしまう。


 胸の奥が、少しだけ、空っぽになった気がした。




---






 月曜の朝。


 会社の駐車場に着くと、曇った空の下でエンジン音が何台も重なり合っていた。


 事務所の中は、月初めの忙しさでざわついている。


 坂田たち若い連中が談笑している輪には、なんとなく入りづらい。




 タイムカードを押し、伝票をめくる手に油じみが残る。


 今日の配送は少なめ。


 「坂田、こっちも頼むぞ」と、上司が若い子に声をかける。


 自分には「こっちはもう、無理せんでいいからな」と小さく言った。




 伝票整理や配車の手伝いをしていると、


 後輩の坂田がにこにこしながら「だんちゃん、これで大丈夫っすよ」と書類を受け取っていった。


 ありがとうとだけ返して、誰かの輪の外に立っている自分に気づく。




 昼休み、休憩室で弁当を開く。


 卵焼きとご飯、ちくわ。


 他の連中はテレビの健康番組を見ながら盛り上がっている。


 母親世代の健康法、サプリの話。


 自分の席だけ、ぽつんと離れている。




 窓の外を見やると、会社の駐車場に並んだトラックの中で、


 自分の古いセドリックだけがぽつんと取り残されているように見えた。


 ふと、ボンネットの下でエンジンが不安げに鳴る幻聴がした。




 仕事を終えて帰るとき、セドリックのエンジンをかけた。


 ときどき、咳き込むような振動が伝わる。


 自分ももう古い機械みたいだな、と


 無意識にハンドルを強く握りしめた。




---







 仕事帰り、コンビニの自動ドアが開く。


 蛍光灯の冷たい光、菓子棚の向こうで、あの女性店員がレジに立っていた。


 心臓が小さく跳ねる。


 ご褒美菓子を一つと、今夜は缶コーヒーを手に取る。




 レジの前で順番を待つあいだ、


 店内に流れる有線のポップスが、やけに遠く聞こえた。


 自分の番になっても、言葉がうまく出てこない。


 商品を差し出すと、


 彼女の指先がほんの一瞬だけ震えた気がした。




 「大変そうやな」と、つい口をついて出た。


 自分でも驚くほど小さな声だった。


 彼女は少し驚いた顔をして、


 「いえ、家がちょっとバタバタで」と、目を伏せた。




 レジ袋に菓子と缶コーヒーを入れながら、


 彼女がぽつりと「兄が就職うまくいかなくて」と呟いた。


 それきり沈黙になった。




 会計を済ませ、


 「お疲れさま」と言おうとしたが、


 結局、いつものように会釈しかできなかった。




 外に出ると、夜風が顔に触れた。


 買ったばかりの缶コーヒーの温もりを手に感じながら、


 今夜はなかなか眠れそうになかった。




 布団に入っても、


 レジで交わしたほんの少しの会話が


 ずっと耳の奥で反芻されていた。




---






 夜のコンビニ。


 用もなく菓子コーナーをぶらつく。


 蛍光灯の下、商品棚を整える女性店員の背中が、小さく丸まって見えた。




 そのとき、レジ奥からもう一人の店員が顔を出し、


 「今日も家、大変そうだな」と小声で話しかけていた。


 彼女はうつむき加減に「実家、今月で閉めるかも」と呟く。


 「兄も就職できずに、みんな疲れてて……」


 その声が途切れがちに、空気に溶けていく。




 自分は手に取っただけの菓子を棚に戻し、


 レジに進む。


 気まずい沈黙のまま、彼女が会計をする。


 レジ袋の音がカサカサ響く。




 商品を受け取るとき、


 「がんばってな」と言おうとして、


 言葉にならず、小さくうなずくだけになった。




 コンビニの外、夜の道路に雨粒が落ち始めていた。


 信号の向こう、空き地の隅で、


 野良猫が段ボールの中で雨を避けて丸くなっていた。




 傘もささずに立ち止まり、


 財布の中、小銭だけで買える餌を思い出していた。


 それでも、足が動かなかった。




 何もできないまま、


 冷たい雨の音だけが、胸の奥でどこまでも遠ざかっていった。




---







 雨は本降りになっていた。


 コンビニの軒下、傘もささずに立ちすくむ。


 レジの奥で、女性店員が同僚と短く話している声がかすかに漏れてくる。


 ガラス越しに、彼女の笑顔が消えているのが見えた。




 助けたい、何か言葉をかけたい。


 でも、足が一歩も動かなかった。


 財布の中にある、わずかな小銭。


 「これで何かできるのか」と、情けなくなる。




 雨の中、コンビニを離れて歩き出す。


 足元の水たまりに、にじんだ街灯の光。


 道端の段ボールの陰で、小さな猫が震えていた。


 そっと傘をさしかけるが、猫はすぐに逃げていった。




 自分の手の中には、買ったばかりのご褒美菓子と、


 湿ったレシートだけが残っていた。




 部屋に戻ると、湿った靴下を脱いで、


 安酒をコップになみなみ注いだ。


 テーブルの上の手紙とLINE通知が、ぼんやり光っている。




 酒を一気に流し込み、目を閉じる。


 涙が勝手にあふれてきた。


 何もできない。


 情けなくて、悔しくて、誰にも見せたくない顔を両手で覆った。




---







 翌朝、雨は止んでいた。


 寝不足の頭を冷やすように、窓の外の空気が澄んでいる。


 仕事前、コンビニに立ち寄ると、女性店員がレジで淡々と品出しをしていた。




 缶コーヒーと、いつもより少し高めの菓子、それから使い捨てカイロを手に取った。


 レジで会計を済ませながら、


 「これ、よかったら」と、袋ごと差し出した。


 声はうまく出ず、手だけが勝手に動いた。




 彼女は一瞬戸惑ったような顔で、


 「……ありがとうございます」と、小さく礼を言った。


 視線が合わないまま、受け取る手が震えていた。




 店を出て、しばらく入り口の前で空を仰ぐ。


 胸の奥に、ほんの少しだけあたたかいものが灯った気がした。


 何か大きなことが変わったわけじゃない。


 ただ、自分にできる範囲で、手を差し出せたという事実だけが


 静かに残った。




 会社に向かう途中、道路沿いのプランターに、


 昨日見た花がふたつ、朝日に透けて揺れていた。




 夜、母親から「元気にしとるか」と短いLINE。


 返事の文面をしばらく考え、


 「こっちは大丈夫」とだけ打ち込んだ。




 自分の部屋に戻り、


 ベランダの花に水をやりながら、大きく深呼吸した。




---







 翌週の朝、会社から突然、遠距離配送の指示が出た。


 伝票を確認し、積み込みを終えた頃には、腰に鈍い痛みがじわじわ広がっていた。




 セドリックに座り込むと、シートの硬さが骨に沁みる。


 車内のラジオは、古い演歌を静かに流していた。


 アクセルを踏みながら、眠気と痛みを紛らわせる。




 目的地までの道のりは長い。


 途中、持病の腰痛が強くなり、思わずハンドルに顔を伏せそうになる。


 それでも、配送先で重い荷物を下ろし、


 「これが俺の仕事や」と心の奥で呟いた。




 帰り道、ふとコンビニに立ち寄ると、


 母親からの電話が留守電に溜まっていた。


 スマホの画面を見つめたまま、声を聞く勇気が出なかった。




 街道沿いの自販機で栄養ドリンクを買い、


 ベンチに腰かけて缶の温かさを手に感じる。


 頭の中に浮かぶのは、子どもの頃――


 母ちゃんとふたりで食べた、あのうどん屋の湯気だった。




 部屋に戻ると、封筒と通帳がテーブルの上に並んでいた。


 母ちゃんの健康を祈ることしかできない自分が、


 無性に歯がゆかった。




 それでも、いつか母をどこかに連れていきたい――


 その小さな願いだけが、胸の奥で消えずに残っていた。




---







 夜、弁当を作り終えたタイミングで、スマホが突然鳴った。


 表示されたのは実家の近所の番号。


 嫌な胸騒ぎ。


 受話器の向こうから、近所の人の慌ただしい声――


 「お母さん、今、救急車で運ばれてます」




 思考が一瞬止まり、手の中の弁当箱がテーブルから転げ落ちた。


 頭が真っ白になりながらも、母の通帳と手紙、弁当をリュックに突っ込む。


 財布と鍵を鷲掴みにして、靴も揃えず玄関を飛び出した。




 セドリックの運転席に転がり込むと、


 雨が降り出していた。


 フロントガラスを激しく打つ雨粒。


 ハンドルを握る手が汗で滑る。


 心臓の鼓動が耳の奥で跳ね回る。




 高速道路を走りながら、


 いつもなら口ずさむ演歌の歌詞が、


 今日は声にならなかった。




 途中で事故渋滞に巻き込まれる。


 車内で母ちゃんの声を録音した古いガラケーを何度も再生する。


 「団ちゃん、元気でね」「お前はしっかりしとるけん、大丈夫」


 音声が掠れ、涙が止まらなかった。




 パーキングエリアで車を止めて、冷めた弁当を分けて食べた。


 口の中に広がる、卵焼きとご飯の味。


 思い出すのは、小さいころ母ちゃんと食べた、あの熱いうどんの湯気だった。




 再びハンドルを握り、


 「間に合ってくれ」と、そればかりを繰り返し願った。




---







 病院に着いたのは、深夜を過ぎていた。


 雨で濡れた靴のまま、無人の廊下を小走りに進む。


 白い天井の蛍光灯が眩しくて、


 息が切れるたび胸の奥で心臓が暴れた。




 案内された病室は静まり返っていた。


 カーテンの向こうで、小さな寝息。


 母ちゃんが点滴につながれて横になっている。


 シワだらけの手。


 思わず膝をついて、その手を包み込んだ。




 手は思ったよりも冷たかった。


 「団ちゃん……来たんかね」


 母ちゃんが、かすれた声で笑った。


 涙が止まらず、鼻水と一緒に頬を伝った。




 「大丈夫やけん」「もう大丈夫やけん」


 何度も言いながら、


 涙と嗚咽で声がうまく出なかった。




 母ちゃんは、ゆっくりと自分の頭を撫でた。


 その手が震えているのが、どうしようもなく怖かった。




 「団ちゃん、立派になったね」


 「ちゃんと弁当も作りよるし、仕事もちゃんとしよるし」


 母ちゃんは、それだけ言って、


 まぶたを静かに閉じた。




 ナースコールの灯りが小さく光る。


 ベッドサイドの椅子に座り込んだまま、


 母ちゃんの手を離せず、


 朝までじっとその体温を確かめ続けた。




---







 夜明け前、病室の窓がうっすら白む。


 母ちゃんの手を握ったまま、うつらうつらしていた。


 ふいに、母ちゃんが小さな声で「団ちゃん」と呼ぶ。




 顔を上げると、かすかに微笑んでいた。


 「昔のこと、覚えとる?」


 「初めて、外でうどん食べた日のこと」




 記憶が一気によみがえる。


 小学校のころ、給食費が払えず、母ちゃんもお腹を空かせて、


 ふたりで入った小さなうどん屋。


 湯気が立つ一杯を、ふたりで分けてすする。


 その時の母ちゃんの笑顔――


 「団ちゃん、よかったね」と泣き笑いで言ってくれた顔。




 気づけば、また涙があふれていた。


 「母ちゃん、俺な――」


 ずっと言えなかった言葉が、喉の奥でせき止められていた。




 「俺、今でも、あの日のうどんの味、忘れたことなか」


 「母ちゃんが俺を育ててくれて、ほんとに、ほんとに感謝しとる」




 母ちゃんの目に、うっすらと涙が光っていた。


 「団ちゃん、もう心配せんでいいよ」


 「お前はちゃんと、やりきっとるけん」


 その言葉が、胸の奥にじんわり広がった。




 朝日が窓から差し込み、


 母ちゃんの頬に小さな光の粒が浮かぶ。




 この瞬間、


 ずっと背負ってきたものが、すこしだけ軽くなった気がした。




---







 朝日が病室のカーテンの隙間から差し込んでいる。


 母ちゃんの寝息は、夜よりも穏やかだった。


 自分はベッドサイドの椅子に座ったまま、まだ母ちゃんの手を握っている。




 ナースがそっと様子を見に来た。


 「今日は検査がありますから、少しだけ外でお待ちくださいね」


 静かに頭を下げて、廊下に出る。


 薄いピンク色の壁に背中をあずけ、深呼吸。




 夜通しの緊張が一気に抜けて、足が重くなった。


 スマホを開くと、松井さんの病院からもメッセージが届いていた。


 「お元気ですか。こちらも少し落ち着きました」


 あの封筒のことが、また胸の奥で小さく疼いた。




 自販機で缶コーヒーを買い、


 ベンチに腰掛けて、遠くの窓から朝の街並みを眺める。


 カップを握る手が、すこしだけ温かい。




 「今度こそ、母ちゃんをどこかに連れて行こう」


 初めて、そんな気持ちがはっきりと浮かんだ。


 現実は変わらない。


 でも、できる範囲で誰かに手を差し伸べたい。


 自分なりに、やり残したことを――ひとつずつ、進めてみようと思った。




 朝の空気が、少しだけやさしく感じられた。




---







 病院からの帰り道、少しだけ遠回りしてアパートに戻った。


 階段をのぼる足が重い。


 自分の部屋に入ると、テーブルの上に置いたままの封筒が目に入った。




 松井さんの入院先から電話があったのは、その翌日だった。


 「お見舞いに来てくれませんか」と、弱々しい声。


 スーパーの袋に栄養ドリンクと、ささやかな差し入れを詰めて向かう。




 病室で松井さんは、枕元に古い写真を並べていた。


 自分を見ると、ほっとしたように目尻が下がる。




 「団ちゃん、こないだの手紙……まだ持っとるか?」


 うなずいて封筒を差し出すと、松井さんは静かに受け取った。


 「ありがとうな。もう、ええんよ。会いたい人も、みんな遠いけん。


 でも、こうして渡せたことで、もう悔いはなか」




 松井さんが写真を一枚渡してくれる。


 炭鉱時代、若いころの仲間たちと肩を組んで笑う松井さんが写っていた。




 病室の窓から差し込む光の中、


 松井さんと短い昔話を交わす。


 「団ちゃんも、たまには自分を甘やかしてやらな」


 そう言って、笑いながら咳き込む。




 病院を出るころ、胸の奥で何かが静かにほどけた気がした。


 アパートへ向かう帰り道、春の風が背中をそっと押してくれるようだった。




---







 アパートの窓から、やわらかい朝日が差し込んでいる。


 ベランダのプランターには、ネギとミョウガの新芽が揺れている。


 今日も5時前に目が覚め、ゆっくりとお湯を沸かした。




 母ちゃんは、あのあと少しずつ体力を取り戻した。


 月に一度は家に帰り、畑仕事や近所の人と話す母ちゃんの背中を眺める。


 昔よりずっと小さくなった気がするけれど、


 自分もこうして、なんとか生きている。




 仕事は変わらず、中村産業のトラックに乗っている。


 腰は少し悪くなったが、無理はしなくなった。


 仲間とも言葉少なに、ぽつぽつと会話する。


 松井さんは去年、静かに息を引き取った。


 遺品の中に、あの写真と手紙が大事そうに残されていた。




 あのコンビニも、もう違う店になった。


 女性店員のことは、今もふとしたとき思い出す。


 あの日、菓子を渡した自分の手の震えと、


 彼女の礼の言葉が、今でも胸の奥であたたかく残っている。




 今日は母ちゃんと、バスに乗って温泉に行く予定だ。


 「たまには贅沢しようか」と、


 自分から誘ってみることができた。




 財布の中身を確かめ、駅までのバス代と入浴料を計算する。


 昔なら気が気でなかった出費も、


 今日はどこか、軽やかに感じられた。




 玄関を出て、朝の空気を吸い込む。


 セドリックのボディにうっすらと朝日が映る。


 どこまでも静かで、どこまでも続く日々――


 その重さも、やさしさも、全部受け止めて歩いていく。




---






 駅前のバス停で、母ちゃんと並んで座る。


 母ちゃんは手提げ袋を膝にのせて、目を細めて朝日を見ていた。


 昔より口数は減ったけれど、


 その隣に自分が座っていることだけで、胸が少しあたたかい。




 バスがゆっくりと到着し、


 二人で乗り込む。


 窓の外、町の景色が流れていく。


 知らない家、見慣れた坂道、商店街の新しい看板。




 ふと、母ちゃんが小さな声で「団ちゃん」と呼ぶ。


 「今日もええ天気やね。お前と、こうして出かける日がくるとは思わんかった」


 自分は、なんて返せばいいか分からず、


 ただうなずいて外を見た。




 温泉街の小さな食堂で,


 二人で並んでうどんをすすった。


 湯気の向こうで、母ちゃんがうれしそうに笑った。


 その笑顔を見て、


 子どものころの自分が、今も胸のどこかで生きている気がした。




 帰り道、母ちゃんが「また来ようね」と言った。


 自分も「うん」と小さく返した。




 日々は相変わらず厳しく、


 未来もどうなるか分からないけれど、


 それでも――


 今日のこのやわらかい光と、


 母ちゃんの笑顔を、


 自分はずっと忘れずに歩いていける気がした。




最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


 この物語は、誰かの劇的な人生を描こうとしたものではありません。

 むしろ、どこにでもいるような一人の人間――日々を働き、弁当を詰め、小銭を数えながら暮らしている人の、ほんのささやかな心の動きを描きたいと思って綴ったものです。


 寂しさや不安は、しばしば言葉にならない形で私たちのそばにあります。

 それを乗り越えるような勇ましさではなく、ただそこにあるものとして抱えながら、目の前の誰かに手を差し出したり、弱さのまま祈ったりすること。

 そんな姿を描くことで、人はきっと誰かのために「在る」ことができると、信じたくなりました。


 セドリックの鍵の音、冷えた缶コーヒーのぬくもり、うどんの湯気、雨音、そして母の声。

 どれも小さなものですが、積み重なることで、人はまた明日へ進む力を得られるのかもしれません。


 生きていくことに、理由はいらない。

 それでも「また誰かに会いたい」「今日も何も壊れませんように」と願うその気持ちは、たしかに人を支えてくれるのだと信じています。


 この物語が、あなたの記憶のどこかに、ふとしたとき思い出されるような一篇であれば、とても嬉しく思います。


 どうか、あなたの明日も、静かにやさしくありますように。

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