マイペースすぎる妻をなんとかしたい
「貴大さん、今日ね──」
また妻の耳障りなお喋りが始まった。
仕事で疲れ切って帰って来て毎日これでは心が休まる暇もない。
「それでね、新井さんとこ、19歳の時に作った息子がもう8歳とかなってて──」
遠回しに「子どもが欲しい」と言っているようだ。いい加減にしてくれ……。
子どもなんて拵えたら、妻のお守りまで俺がしなくてはならなくなることぐらい、目に見えている。
付き合っていた時はその無邪気さが愛しく見えていたが、こんな世間知らずのお嬢様なんか嫁に貰うもんじゃなかった。彼女の両親が他界していて付き合う必要がないのも魅力だったが、考えればそれって、なんでもかんでもうちが金を出さなければいけないということだ。そしてもちろん、妻には貯金などない。
「なぁ……美紀」
俺は不機嫌を隠しもせずに、食事を続けながら、妻に言った。
「毎日仕事で疲れてるんだ。少しは気遣ってくれ」
妻の頬がみるみる膨らみ、俺を責める目になった。
「私だって……! 慣れない家事で毎日疲れてるのよ?」
「……わかってる。元々料理もできなかったのを、頑張って少しは出来るようになってくれたよな。わかってる」
そう言いながら、冷凍食品のハンバーグを俺は箸で割る。
「……でも、少しは俺にも話をさせてくれよ。俺の愚痴なんかも聞いてくれ。いつも俺がおまえの話を聞かされるばかりじゃないか。しかも面白くも何もない話を──」
妻の眉が吊り上がった。
猿のように下の歯をすべて見せつけて、俺を詰ってくる。
「あなたの話なんて、いつも面白くもなんともないんだもの! どうせゲームがどうの、女性アイドルがどうの、そんな話がしたいんでしょうが? くっっだらない! それに忙しくて疲れてるのはあなただけじゃないのよ! 主婦は地上で一番大変な仕事だって、聞いたことない!? あなたなんて仕事ばっかりで、家事のひとつもしてくれないくせに!」
「子どももいないし、近所付き合いもしてないじゃないか。よその家の奥さんは子育てしながら働きながら家事もこなしてるんだぞ? そんなのだったら俺だって、気遣って、家事の手伝いでもしようと思うよ」
「何よ! 私が悪いっていうの!?」
「少しは俺の話も聞いて、働かないならせめて毎日手料理作れよ!」
「信じらんない!」
妻が勢いよく立ち上がった。
「もう、あたしへの愛はないってことね!? もしかして帰りが遅いの、外で浮気してる!? いいわ! あたしも浮気してやるから!」
「ああ、浮気しろよ! してくれ! そうしたら離婚だからな!」
妻が玄関のほうへ行った。
戻ってくると、俺の仕事の革靴を持ってきて、食べている途中のハンバーグの上に叩きつけた。
「はい、手料理」
睨みつけながらそう言うと、忙しい主婦の顔になる。
「お風呂、沸かしてくるわ」
浮気なんて口だけのようだ。何しろ俺しか男を知らないお嬢様だからな。浮気のしかたも知らないようだ。
もう、嫌だ……。こんな結婚生活。
でも正直いうと、離婚はしたくなかった。俺も美紀しか女を知らない。離婚なんかして、また新たに結婚できるとは思えない。
何より美紀は、俺のものだ──
妻は、俺のものなんだ!
俺は靴の乗った皿を置いて立ち上がった。
美紀の後を追って、浴室へ歩く。足音を、忍ばせて──
美紀が上半身を屈め、浴槽を洗おうとしていた。水はまだ抜いておらず、なみなみと浴槽を満たしている。
勢いをつけて、美紀の首の後ろを掴むと、俺はそのまま冷たい水の中へ突っ込んだ。
12月の冷たい水の中で、妻の言葉にならない声がもがく。必死で腕を振り、俺の腕に爪を立てる。しかし男の力に敵うはずもない。
俺はただ必死だった。
じぶんが何をしているかもわかっているつもりだった。
ただ、妻を俺のものにしておきたくて──
やがて妻の全身から力が抜けきった。
手を離しても、美紀は浴槽の水に頭を浸したまま、動かなかった。ただ長い黒髪が、暴れた妻の作った波に、海藻のようにユラユラと揺れていた。
俺は食卓へ戻った。
ハンバーグの上に乗った靴を取ると、水道の水で洗った。
ハンバーグは生ゴミ袋の中へ捨てた。
じっとしていられなかったので、車のキーを持つと、外へ出た。
行く宛もなく、夜の町に車を走らせた。
結婚前には美紀とよく行っていたレストランの前を通り過ぎた。
その店で、彼女のほうからプロポーズして来たのを思い出していた。
「私、絶対に、貴大さんのこと、幸せにするからね」
幸せにしてくれるんじゃなかったのかよ。
結婚してから何もしてくれなかったじゃないか。
毎日、どうでもいいじぶんの話ばかり、仕事で疲れて帰って来た俺に聞かせるばかりで──
手料理に自信がないからって冷凍食品やスーパーの惣菜ばかりで──
おまえが悪いんだ──
おまえが悪いんだぞ──
おまえがあまりにマイペースで、俺に合わせてくれなかったから、こんなことに──!
帰ると食卓の席に美紀が座っていた。
呆けたような表情をしていたが、帰ってきた俺に気づくと、青白い顔を半分振り向かせ、だるそうな笑顔を浮かべた。
「……あっ。おかえりなさい、貴大さん。晩ごはん……どうしたっけ」
俺は何も答えなかった。
答えられなかった。
顔を背けて浴室へ急ぎ、ドアを開くと、そこに美紀の死体はそのままあった。
体をこわばらせながらキッチンへ戻ると、美紀はやっぱりそこにいて、だるそうに座っている。
「……どうしたのかしら、私」
紫色の唇を動かし、言う。
「なんだかね……しんどいの。何もやる気がしない」
俺は黙って、美紀が喋るのを聞いた。
「……でもね、頑張るから。ちゃんと手料理、毎日作れるようになるから、頑張って……。そうしたら貴大さん、褒めてくれる?」
「ああ……」
唾で喉が詰まりそうで喋りにくかったが、俺は答えた。
「いっぱい……褒めてあげるよ」
「嬉しい」
焦点の定まらない目をして、笑った。
「……じゃ、私、お風呂沸かしてくるね」
ガタガタとした動きで立ち上がろうとした美紀を、必死で止めた。体には触らないように、言葉で止めた。
「いいよっ! しんどいんだろう? 美紀は病気なんだよ! 俺、一日ぐらい風呂に入らなくても平気だから……!」
「うん……。しんどいの……。どうしちゃったんだろう、私……。何も覚えてないの……」
「も……、もう寝ろよ。無理すると……その……体に悪いぞ」
「ありがとう」
俺をまっすぐに見た美紀の笑顔は、鼻から黄色い液体をだらだらと垂らしていた。
「じゃあ、一緒に行こうよ、ベッドに」
俺は急いで玄関から外へ飛び出した。
車のエンジンをかけ、慌てて発進させた。
今夜は会社で寝ようと決めていた。
ついでにスマホで調べて、探そう。
本物だという評判の霊能力者に依頼して、会って相談し、明日部屋に帰ってまだ妻がそこにいたら──
『夫が優しすぎて幸せすぎるhttps://ncode.syosetu.com/n3912jy/に続く』