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9.敗北を受け入れた夫

 月曜、朝。

 奏一郎がいつもの時間に出勤すると、隣席から米中が微妙な顔つきで椅子を寄せてきた。


「なぁ若峰、知ってるか?」

「ん? 何が?」


 突然の呼びかけに、奏一郎は思わず小首を傾げた。

 対する米中は、矢張り知らなかったかと幾分気の毒そうな面持ちで小さくかぶりを振った。


「今日さ、東北支社に転勤してた藤代が急遽、こっちに戻って来ることになったそうだ」

「……藤代?」


 どこかで聞いた名前ではあったが、はっきり思い出せない。

 誰だっただろうか。

 すると米中は、しっかりしろと奏一郎の背中を幾分強い力でバシっと叩いた。


「お前さんの奥さんの、元カレだよ」

「……あ」


 そこまでいわれて、漸く思い出した。

 茉央は、奏一郎と同じ会社に勤めていた過去がある。彼女は高卒枠で採用されたのだが、当時四年目の奏一郎がそろそろ主戦力級の一員として頭角を現し始めた頃に入社してきた。

 その茉央と同期入社したのが、藤代という青年だった。藤代は大卒枠だった為、茉央とは歳の差が四つ。

 藤代は結構なイケメンで、大学生時代は数多くの女性と付き合って来たと豪語していた様だが、奏一郎は余り詳しい話は聞いていない。

 その藤代と茉央は、同期ということもあってかそれなりに親しく、入社してから一週間が経過した頃には早くも付き合い始めていた。

 茉央と藤代の関係はおよそ三カ月程続いたらしいが、藤代が他の女子社員にも手を出したことからふたりの関係は一気に破局し、喧嘩別れという最悪の形で両者は最後を迎えた。

 この時、余りに落ち込みが激しかった茉央を、見かねた奏一郎が励ましてやった。

 その過程で奏一郎は、茉央が結構なアニメファンであることを知り、奏一郎の年代で流行った色々なアニメを紹介してやったところ、次第にふたりは様々な話題で盛り上がる様になり、そして遂には茉央の方から告白された為に付き合うこととなった。

 一方の藤代はというと、茉央と別れた後も社内で色々な女子社員に手を出しまくったことが社内倫理規定に抵触し、更には仕事の面でも大きなミスが続いて少なからず会社に損害を出してしまった為に、東北支社へと異動となった。

 これは事実上の左遷であり、藤代は全国の支社内でも最も厳しいとされる東北支社で、徹底的に鍛え直されることになったのだという。

 その藤代が、急遽本社に復帰することとなったらしい。


(茉央の元カレが帰って来んのか……)


 奏一郎としては、今更な話であった。

 既に茉央はTAKUYAという男に気持ちが相当に傾いている。ここで元カレの藤代が帰ってきたところで、状況的には然程の違いは生じないだろう。


「まぁ、仕事さえ真面目にしてくれたら、それでエエんとちゃう?」

「……若峰が気にしないってなら、俺もとやかくいうつもりは無いけどさ……でも、一応気を付けておいた方が良いんじゃないかな」


 米中の心配げな表情に、奏一郎は苦笑を返した。

 多少考え過ぎな気もしたが、しかし米中の気遣いは素直に有り難かった。こういうところが、米中の良い部分でもある。


(まぁでも……一応茉央にも教えてやっといた方がエエんかな)


 そんなことを思いながら、奏一郎は週初めのミーティングへと頭を切り替えていた。


◆ ◇ ◆


 その夜、奏一郎は帰宅して夕食を終えたところで、藤代が本社に戻ってきた旨をそれとなく伝えてやった。

 茉央は余り感心無さそうな表情で、


「ふぅん……そうなんだ」


 と、まるで他人事の様な相槌を返すばかりであった。

 以前の茉央ならば、もう少し何らかの反応を示していた様な気もするのだが、この日は本当に関心無さげな調子で聞き流している様にも見えた。


「気にはならへんの? 元カレやのに」

「別にぃって感じだよ。あのひと、ホント女癖悪過ぎだったし……第一、今のわたしは奏さんの奥さんだよ? 元カレなんて正直、どうでもイイかな」


 入社直後は人目も憚らず、茉央と藤代は相当にイチャイチャしていた様な記憶があるのだが、ここまで無関心になれるものだろうか。

 少し意外な気もしたが、茉央の中では藤代という男の存在感はそれ程までに薄らいでいるのかも知れない。


「ま、そうだね……わたしが気にするとしたら、たっくんが奏さんに迷惑かけないかってところかな」


 小さく肩を竦めながら、入浴の為に脱衣所へと去っていった茉央。

 ところがこの時、奏一郎は『たっくん』という呼び方に少し引っかかるものを感じた。

 まさかとは思ったが、しかし気になるものは仕方が無い。

 奏一郎は在宅勤務用のPCを起動し、人事異動情報のページへとアクセスした。そしてそこで初めて、藤代のフルネームを知った。

 藤代拓哉(ふじしろたくや)――その名を目にした瞬間、奏一郎は喉の奥であっと声を漏らした。

 拓哉とは、もしかしてTAKUYAのことなのか。

 茉央の浮気相手は、元カレだったという訳か。

 十年近く前に喧嘩別れしたという話ではあったが、東北支社で徹底的に鍛えられた藤代が人間的に成長し、茉央とヨリを戻していたということも十分に考えられる。


(そうか……俺との結婚生活なんかよりも、元カレへの想いが勝ったってなとこか)


 茉央がここ最近、急に良妻を演じ始めたのも、藤代が急遽こちらに帰ってくることを知った為だろう。そう考えると、これまでのこと全てに説明がゆく。


(俺よりも元カレを選んだって訳やな……それが茉央の望みやったんやな)


 正直、精神的にかなり堪えた。

 しかしこれは、茉央の選択だ。恐らく彼女の心は藤代と元サヤに収まることで固まっているのだろう。であれば、奏一郎としては何も出来ることはない。


(離婚を持ち掛けてくるのも、時間の問題かな)


 奏一郎はいよいよもって、覚悟を決めなければならぬと腹を括った。

 本音をいえば死ぬ程に悔しいし、茉央を手放したくもない。

 しかし己の我を通せば茉央は悲しむだろうし、彼女を不幸に叩き落とすことになる。

 それだけは絶対に避けなければならない。


(俺の望みは茉央の心が幸福で満たされることや……ならここは、耐えるしかないわな)


 血反吐を撒き散らす思いで、奏一郎はぐっと奥歯を噛み締めた。

 遂に、敗北を受け入れる時が来たのだ。

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