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6.不意打ちを喰らった夫

 黄金の撃鉄の2クール目を観終わったところで、茉央が盛大な欠伸を漏らした。


「ふわぁ~ぁ……御免、わたしもう眠たくなってきたぁ……」


 どうやら、そろそろ睡魔に勝てなくなってきた様だ。リビングの壁掛け時計に視線を走らせると、既に午前3時を過ぎていた。


「もうぼちぼち、エエ時間やな」


 奏一郎はまだまだ頑張れるが、ここは敢えて眠たげな顔が可愛らしい妻に合わせることにした。

 茉央は、近所のスーパーマーケットで早朝の品出し作業のパート勤務で働いている。

 このスーパーマーケットは朝9時から営業している為、品出しは毎朝7時から始まる。その為、茉央はパート勤務のある日は朝5時前後に起床していた。

 家を出る時間はいつも決まって朝6時45分。

 男性ならば、もっとギリギリまで眠りこけることも可能だろう。

 が、矢張り女性はメイクやヘアアレンジ等の身だしなみ作りに時間を要する上に、コーヒーを飲んでひと息入れ、目をシャキッとさせる時間も必要だから、どうしても5時ぐらいに起きなければ間に合わないのだとか。

 それ故、茉央の日頃の就寝時間は同世代の女性と比べても、割りと早い方であろう。まだ27歳という若さながら、余り夜更かしをしない生活習慣であることは、誇って良いかも知れない。

 この時間帯に睡魔が強くなるのは、そんな彼女の健康的な生活習慣の賜物といっても良いだろう。

 そして何より、明日――いや、既に日付は変わっているから今日になるのだが、茉央は推しのライブに泊りがけで出かけることになっている。

 ライブ会場に向けては、昼過ぎに自宅を出る予定らしいから、今から就寝すれば丁度良い時間帯になるだろうか。


「んじゃあ、もう寝よっかぁ」


 ふにゃふにゃと溶けた様な笑顔を浮かべながら、ひと足先に寝室へと去ってゆく茉央。

 その後ろ姿を、奏一郎は複雑な表情で眺めていた。

 今から半日後には、妻は見知らぬオトコとふたりだけの時間を過ごすのだろう。

 その腹立たしい予感に対する悔しさと悲しさがここで再び込み上げてきたのだが、奏一郎は顔には出さず、ひたすら奥歯を噛み締めるのみであった。

 そして、ふたり揃ってダブルベッドに潜り込む。

 この時茉央は、いつもとは違う場所にその豊満なカラダを置いた。仰向けになった奏一郎に、半ばしがみつく様な形で身を寄せてきたのである。

 まるで新婚当初を思わせる位置取りに対し、奏一郎は嬉しさなど微塵も感じず、ツラい思いだけにひたすら耐え続けた。


(これもどうせ演技か……それとも、TAKUYAって奴といちゃつく為の予行演習かな)


 ただ兎に角、情けない程に敗北の感情しか湧いてこなかった。

 一方の茉央はというと、安堵と嬉しさを同時に滲ませた、本当に幸せそうな表情で静かな寝息を立て始めていた。

 そして陽が昇り、昼前に寝室を出たふたりは、ブランチで軽く腹ごしらえをしてからそれぞれの予定に向けての準備に取り掛かった。

 茉央は当然ながらライブ会場へ向かう為の身繕いだが、奏一郎は茉央の書棚から大量の漫画を引っ張り出し、リビングテーブルに次々と並べ始めた。


「わたしが帰ったら、また感想とか聞かせてね」

「あぁ、うん」


 すこぶる機嫌良さそうに笑う茉央に、奏一郎は若干引きつった形で唇の端を吊り上げた。


「じゃあ、いってきまーす!」


 大き目の旅行鞄を背負って元気に飛び出してゆく茉央。

 玄関口で彼女を見送ってから、奏一郎はリビングへと戻った。


◆ ◇ ◆


 その日、奏一郎は茉央のことを忘れるかの如く、一心不乱に借りた漫画を延々と読み続けた。

 どの作品も奏一郎が思っていた以上に面白く、どんどんストーリーに引き込まれてゆく。

 そのお陰で、ほんの一時的にでも茉央とTAKUYAの不倫の可能性という地獄の様な発想から解放され、ただひたすら目の前の作品群に没頭することが出来た。

 そして気が付けば、陽が傾き始めている。窓の外から射し込むオレンジ色の斜陽に視線を巡らせた時、急激に空腹感が襲って来た。

 と同時に、思考が現実へと引き戻されてしまった。

 茉央は今頃、ライブ会場入りしている頃だろうか。

 ここで再び嫌な感情が湧き起こってきた。妻が見知らぬオトコと連れ立って歩いている姿を想像してしまったのである。

 だが、今は我慢だ。

 茉央のことを知り、茉央の想いを理解し、そして何故彼女の心が夫である自分から離れていってしまったのかを把握する。

 現在、奏一郎がやるべきことは、ただその一点のみ。

 それが出来れば、茉央と別れるという結末に至っても、無用に彼女を恨むこともなくなるだろう。茉央の想いを理解すれば、自分に何が足りなかったのか、何をすべきだったのかも自ずと分かる筈だ。

 奏一郎は、絶対に茉央を憎んだり、或いは恨んだりなどはしたくはなかった。

 最初は何とか茉央の心を取り戻したい一心で始めた、彼女を理解する為の作業。それがいつしか奏一郎の中では、茉央との別れに耐え切る為の修練という位置づけへと変わり始めていた。

 つまり、奏一郎は事実上、茉央を諦めていたのである。

 そもそも、秘密裏に浮気をされている時点でもう何もかもが終わっていたと考えるべきだろう。

 昨晩、彼女が奏一郎に見せてきた妙な親密さ、愛情表現の諸々が全てを物語っている。あそこまで徹底して旦那を愛する良妻を演じるということは、逆をいえばもう終わりが近いということだ。

 であれば、今更どんな手を講じたところで手遅れであるに違いない。


(じたばたしたところで、もう遅いってこっちゃな……)


 敗北感、悔しさ、怒り、悲しさ、喪失感――色々な負の感情が次々と去来してゆくが、しかしその中でも絶対に変わらないことがある。


(裏切られても構へん……茉央は、幸せになってくれよ)


 例え相手から傷つけられても、自分は絶対に相手を傷つけたくはない。

 奏一郎のその一念だけは、どんなことがあろうともブレることはなかった。

 ところが翌朝、つまり日曜の朝になって、思わぬ事態が舞い込んできた。


「ただいまー!」


 いきなり玄関ドアが開き、茉央が帰宅してきたのである。

 事前に聞いていた話では、確かホテルで一泊するということだったのだが。


「予定変更して、夜行バスで帰ってきちゃった!」


 幾分の疲れを滲ませながらも、心の底から湧き上がってくる様な明るい笑みを向けてくる茉央。

 一体何があったのか――奏一郎はただただ困惑して、リビングへと駆け込んでゆく茉央を目で追うしか無かった。

 てっきり、TAKUYAと一夜を共にするものとばかり思っていただけに、完全に不意打ちを喰らった格好だった。

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