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4.挑戦する夫

 帰宅後、奏一郎は茉央が用意してくれた夕食(ハンバーグとサラダ、スープなど)に箸を付けながら、色々と検討し続けていた。

 茉央周辺の諸々の疑惑を、どうすれば解明出来るのか。

 そもそも、どこから手を付ければ良いのか。


(範囲が広過ぎて、さっぱりやな……)


 堂々巡りに近しい考えが次から次へと湧いては消え、湧いては消えという無限ループを繰り返している。

 本当に着手出来るのかという不安さえ浮かび始めていた。

 するといつの間にか、ダイニングテーブルの差し向かいの位置に座っている茉央が、心配げな表情で覗き込んできていた。


「奏さん、大丈夫? 何かさっきから、凄く真剣な顔で悩んでるみたいなんだけど……」

「ん? あぁ、いやぁ、ちょっと仕事のことで」


 硬い表情で誤魔化してみた奏一郎だが、茉央は納得していない様子で尚もこちらをじぃっと見つめてくるばかりだった。


(目の前に座ってるあんたの浮気を疑っとるんですわ、なんてことは口が裂けてもいえんわな)


 内心で深い溜息を漏らしつつ、奏一郎は再び箸を動かし始めた。

 それにしても、こうして考えてみると自分は茉央のことを余りにも知らなさ過ぎた様な気がする。

 どこから手を付ければ良いのかが分からないということは即ち、茉央に関する情報を把握出来ていないから、どのポイントに絞り込めば良いのかという観点を持つことが出来ていないのと同義だ。

 これはソフトウェア開発に於いて、不具合がどこに潜んでいるのかを抽出する際の考え方と同じで、仕様と設計を理解していなければ、発生した事象に対して観点を絞り込むことが出来ないのと同じ様に思えた。

 ここで奏一郎は漸く理解した。『理解していない』ことを理解した。

 自分はまだ茉央の全てを理解していなかった。

 そう、彼女のことを理解していないという事実を、今この場で初めて認識したのである。


(成程、そうか……そこからか)


 如何に妻であるとはいえ、その出自が他の家庭で育った他人という点に於いては何ら変わらない。

 同じ家族でさえ、血が繋がっているとはいっても生物の個体としては全くの別物なのだ。親兄弟であっても思考を理解出来ないのと同じだ。

 ケーブルか何かで脳同士をリンクさせてお互いの思考を電気信号で通信し合えば相手の考えていることも分かるのだろうが、現実にはその様なことは不可能である。

 では、どうすべきか。

 結論は簡単だった。


(茉央の趣味嗜好を自分でも実践して、その思考を推測する以外にあらへんわ)


 奏一郎と茉央は、同じアニメ好きである。

 が、その好みの傾向は全く別物だ。

 茉央が普段どの様な作品に熱中しているのかも、奏一郎はほとんど理解していない。書棚を眺めれば、並んでいる作品名などは見れば分かるのだが、その内容までをも把握している訳ではなかった。

 ならば、やるべきことはひとつだろう。


(あれを全部借りて、全部攻略して、その良し悪しを自分のモノにせんとあかんわ)


 余りに極端過ぎる思考かも知れないが、しかし妻のことを知る為の取っ掛かりとしては、これ以上は無い選択だろう。

 奏一郎はハンバーグのじゅわっと滲み出る肉汁を味わいながら、茉央の専用とされているオタク書棚を凝視した。

 その奏一郎の視線に気づいたのか、茉央もその先を追って振り向いた。


「奏さん、どしたの? 何か気になるとこでもあんの?」

「うん……あれ全部、貸して。俺も見たい」


 その瞬間、茉央は信じられないものを見た様な驚きの表情を浮かべた。そしてそれから数秒後には、物凄く感激した様に両掌を自身の両頬に押し当てた。


「え……嘘、マジ? ね、マジでいってる? ホントのホントに、あれ全部、見てくれるの?」

「うん。全部見たい」


 何故かやたらと早口で何度も確認してくる茉央。

 これに対し奏一郎は、全てを完全制覇するまでにかかる時間を頭の中でざっと計算しながら、どの作品から攻略していこうかなどと考えていた。


「え、いや、ホント、え、え、嘘、マジ? マジだよね? え、やだもう、めっちゃ、めっちゃ嬉しい」

「……そんな感激する様な話?」


 茉央が余りに感激しまくっている為、奏一郎は眉間に皺を寄せて訝しんだ。

 何故彼女がこんなにも挙動不審になっているのか、全く理解出来なかった。


「え、だってさ、奏さん絶対あーゆーの好みじゃないって思ってたし……だから布教も何もしなかったのに、まさか奏さんの方から見たいっていってくれるなんて、こんな、こんなの、嬉しいに決まってるじゃない」

「ふぅん……まぁ貸してくれるんなら、何でもエエけど……」


 矢張りいまいち、よく分からない。

 それにもしも――もしも茉央がTAKUYAというオトコと浮気しているのなら、今目の前で見せているこの喜び一杯の反応も、単なる芝居に過ぎないのかも知れない。

 そう考えると、ひとりではしゃぎまくっている茉央とは対照的に、奏一郎の思考は逆に冷めてゆくばかりであった。


「あ、じゃあさ、わたしが今ちょっとハマってるやつがあるんだけどさ、後で一緒に見ない? 丁度こないだコレクターズボックスのコンプリート版ゲットしてさ、これから一気見しようって思ってたんだよね」


 今日は金曜。つまり幾らでも夜更かし可能だ。

 これまでの奏一郎ならば、アニメなんて後回しで茉央とのセックスだけを思いっ切り楽しみたいと思っていただろうが、今夜は違う。

 茉央の隣で、一緒になって彼女オススメのBLアニメを全部見る。全て攻略する。

 最早これは戦いだ。己に課した絶対なる試練だ。逃げる訳にも諦める訳にもいかない。


「うん、見よか。分からんとこあったら時々聞いたり、チャプター戻しとかするかも知れんけど」

「えー! イイよイイよ! 存分にやって! あー、何か、めっちゃテンション、アガってきたー!」


 茉央のこの喜びようはちょっと異常な程にも思えたが、奏一郎の心は完璧に冷え切っていた。

 今の自分がやるべきことは『茉央を知る』だ。

 今宵の鑑賞会は、その第一歩に過ぎない。

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