2.心を鬼にした夫
結局、奏一郎は茉央に、TAKUYAとは何者なのかという点について問いただすことが出来なかった。
下手に訊けば、勝手に妻のスマートフォンを覗き見たことを自ら暴露する様なものである。
如何に夫婦とはいえ、他者の個人情報を盗み見るという行為は以ての外であろう。
(あー、くそ……でもやっぱ気になる……)
奏一郎は悶々とした気分を抱えながら、風呂上がりの茉央の姿をじっと凝視した。
茉央はドライヤーでキャラメルブラウンのセミロングレイヤーを手早く乾かしながら、サブスク視聴で最近始まったばかりのBLアニメに真剣な表情で見入っている。
(こないして見たら、ホンマに自分の趣味にしか興味無いただのオタクなんやけど……)
しかし茉央は夫の奏一郎の目から見ても、相当な美人である。
もし彼女が既婚者でなかったら、間違い無く夜の街で何人かの男にナンパされていることだろう。
そんな茉央だが、身持ちの堅さは周囲からもよく知られている。
職場の飲み会などがあった時でも、茉央は毎回開始時と終了時にラインで報告を入れてくれるし、どういう面子だったのかも極力詳細に書いてくれていた。
だから奏一郎としても、茉央に限っては変な間違いは絶対に無いと信じていたのである。
ところがここに来て、謎の人物TAKUYAの登場だ。
ただでさえセックスレス気味で何気にもやもやしているところへこの追い打ちなのだから、奏一郎としても己の疑念を心の内側に押し込めるだけで精一杯であった。
(落ち着け、落ち着け……もしかしたらチケットを手配してくれただけの、ただの知人やという可能性かてあるやないか。何の判断材料も無いのに、一方的に浮気とか決め付けたらあかんって……)
茉央に気付かれぬ様、奏一郎はひとりで何度も深呼吸を繰り返していた。
そうこうするうちに次第に気持ちの高ぶりが鎮まってきて、何とか平静な気持ちで茉央の姿を見ることが出来る様になってきた。
が、そんな奏一郎の努力を嘲笑うかの様に、茉央が再び週末の予定について語り出していた。
「あー、そうそう。今度のライブだけど、茜ちゃんと一緒に行くことになったから」
まるで思い出したかの様に奏一郎へ振り向きながら、そんな言葉を投げかけてきた茉央。
すると奏一郎は再び、心臓が高鳴り始めるのを感じてしまった。
「あ……ふーん、そうなんや……」
何気ない体を装いながら、奏一郎は曖昧に頷き返した。
(それ、わざわざ俺にいう必要ある? 何か、すんごく弁解じみて聞こえてしまうんやけど……)
一度疑念が湧いてしまったが最後、茉央から飛び出してきた同行者情報ですら、オトコと一緒にふたりで旅行することをカモフラージュする為の偽情報だという風に聞こえてしまってならない。
勿論、茉央のオタク仲間である須藤茜に直接訊くことが出来ればそれに越したことは無いのだが、そもそも奏一郎は茜とは然程に親しくは無く、彼女の連絡先すら知らない。
そんな状態で一体どうやって茜に確認しろというのか。
まずもって、無理な話だった。
となると、今の段階では茉央からの言葉を馬鹿正直に受け取って信じるしか無いのだろうか。
(いや……そうや、チケットの話振ったら、何か出てくるかも……)
件のTAKUYAなる人物は、チケットに関する話題を持ち出していた様な気がする。
であればここで、単なる興味本位という体でチケットの手配はどうなっているのかと訊いてみるのもひとつの手であろう。
「急にひとり増えたんやな。そんなんでチケットの手配とか、出来るんかいな」
「それなら大丈夫だよ。茜ちゃんがそこんとこはきっちりやってくれてるから」
ここで奏一郎は思わず眉間に皺を寄せてしまった。
あのTAKUYAという男からのメッセージの序盤を読み解く限り、彼がチケットを手配している様にも取れる。しかし茉央は、茜がチケットを用意したなどと口走った。
ここで既に、情報の齟齬が出てきてしまっている。
もう少し何か複雑な事情があるのだろうか。もしそうであるなら、それはそれでも構わない。
だがもしも茉央が嘘をついているとなれば話は別だ。
(あかん……何かもう、聞けば聞く程もやもやが止まらん)
お互いに好き合って結婚したふたりだ。
こんなところでつまずく様なことはしたくないのだが、しかし一度膨らみ始めた疑念というものは、中々払拭し難いものである。
しかもそこに、茉央からの無意識なセックス拒絶という爆弾が潜んでいるのだから、奏一郎としてはもう堪ったものではない。
他のオトコに目が向いてしまったから、夫とのセックスが嫌になり始めてきた。その結果、奏一郎との間にセックスレス問題が浮上した。
もしもこの仮説が正しければ、奏一郎は妻の不倫旅行を自ら黙認する格好となる訳だ。
(うわぁ……それだけは、絶対嫌やなぁ)
奏一郎はげんなりしてソファーに深く腰を落としてしまった。
今まで信じていた筈の妻が、実はとんでもない裏切りをやらかしている――まだ今の段階では何ひとつとして有力な証拠は出てきていないのだが、こういう疑念を抱いてしまった段階で、奏一郎の心はもう乱れに乱れてしまっていた。
一方の茉央は、大好きなBLアニメを一心不乱に視聴し続けている。全く無邪気なものだ。
夫・奏一郎の心をこんなにも掻き乱しておいて、当の本人は素知らぬ顔で好きなアニメに没頭出来ているのだから。
と、この時、茉央のスマートフォンから再びラインの着信音が鳴り響いた。
「おっと、噂をすれば茜ちゃんだ」
茉央は通話ボタンをタップし、オタク仲間の茜と通話を始めた。
「茜ちゃん、お疲れオツカレー。チケットの方は手配出来たよね?」
スピーカーではないから相手の声は余り聞こえてこないが、茉央の安堵した表情を見ると、茜の方でもチケットの確保は成った様だ。
となると、ますます分からない。
あのTAKUYAなる人物は如何なる関係で、茉央にチケット絡みの連絡を寄越してきたのだろうか。
兎に角、分からないことが多過ぎる。
そんなこんなでひとり悶絶していた奏一郎だったが、サブスクのBLアニメを区切りの良いところまで見終えた茉央が、寝る準備を整え始めた。
そして彼女はふと思い出した様子で、頬を若干上気させながらはにかんだ笑みを送ってきた。
「あ、奏さん……今日は、どうする?」
これはもしかして、夜のお誘いなのだろうか。
奏一郎は滅多にというか、ほとんど記憶に無い茉央からの誘い文句に頭の中が真っ白になりかけた。
が、即座に応じる気分にもなれなかった。
もしも茉央が本当にTAKUYAなる人物と何らかの関係を持っているのなら、ここでほいほいと喜び勇んで飛びつくのは如何なものであろう。
ここは自らの欲望を抑え込み、冷静に徹しなければならない。
「あー……いや、今日は、エエわ……」
「えっ? うっそ、マジなの? 奏さん、えっち大好きだったんじゃなかったっけ……」
茉央は心底驚いた様子で、ソファーの隣席からその端正な面をずいっと寄せてきた。
だが、ここで情に流されたり己の欲望に負ける訳にはいかない。
奏一郎は重ねて、
「今日はやめとく」
と宣言した。