14.敵に塩を送った夫
社内、特に奏一郎が所属する課に於ける藤代の評価は、文字通りうなぎ上りの勢いだった。
米中などは幾分複雑そうな面持ちではあったが、藤代が確実に実力をつけてきていることを認めており、藤代単独での出張デバッグや顧客対応もいずれ遠からず可能になるだろうとの見立てを口にしている。
その評価は奏一郎も同様で、次の人事評価では藤代を主任に推薦してやっても良いのではとすら思い始めていた。
茉央の浮気相手というプライベートな部分に於いては相当に複雑な気分ではあったが、こと仕事に限っていえば、藤代は間違い無く奏一郎の下で大事な戦力へと育ちつつある。
尤も、年齢的には既に中堅へと足を踏み入れ始めている藤代だ。少しばかり出遅れ気味なのは否めないが、その遅れを相当に挽回しつつあるのは誰の目から見ても明らかだった。
「藤代の奴……本当に変わったよなぁ」
この日、幾つ目かのウェブ会議を終えたところで米中が隣席から声をかけてきた。
東北支社へ異動となる前はお荷物的な存在だった藤代が、今や奏一郎の下でデバッグ現場に於けるエース的な立ち位置を得るまでに至っている。
課長クラスからの覚えも良く、彼を指導している奏一郎に対しても育て上手だとの評価が得られる結果となっていた。
「けどさ、俺が見たところ……藤代ってお前に随分懐いてないか?」
米中の指摘に、奏一郎は何ともいえぬ苦笑を返した。
実のところ、奏一郎も藤代から何かと頼りにされていることを実感している。それだけに、プライベート面に於けるもやもや感が尚一層強まっているのも事実なのだが。
上司の妻を寝取っておきながら、普通あそこまで心酔する様な表情を見せるだろうか。
奏一郎には藤代の考え方が今ひとつ、理解出来なかった。
と、ここで更に米中はもう一歩踏み込んだ話題を振ってきた。
「なぁ……ここんとこ、茉央ちゃんの様子はどうなんだ?」
周囲に聞かれまいと声を顰めつつ、米中は心配そうな面持ちで問いかけてきた。
奏一郎は一瞬だけ藤代に視線を流してから、特に変わりはないと小さくかぶりを振った。
厳密にいえば、全く変化が無い訳ではない。というのも、茉央が妙に夜の誘いを仕掛けてくる様になったのである。
以前から考えれば、相当な変化だといって良い。
しかしここ二カ月程、奏一郎は何かと理由をつけて全て拒絶していた。藤代とは既に肉体関係を持っているであろう浮気妻と肌を重ねるなど、奏一郎の中では絶対にあり得ない選択だった。
(茉央にしたかて、好きでもない男といやいやセックスするなんて、しんどいだけやろ……)
藤代との浮気を悟られたくない為に、望まぬ男と望まぬセックスに身を投じるなど、かなりツラい筈だ。であれば、奏一郎の方から断ってやった方が茉央としても気分的に楽だろう。
そんな配慮から、奏一郎はひたすら茉央からの誘いを躱し続けていた。
その際の文句は大体、茉央から借りた漫画やライトノベルを読みたいから、或いは茉央から勧められたアニメを視聴したいからといったもので、それらを理由に持ち出すと彼女はいつも若干寂しそうな笑みを浮かべつつ、それでも一応納得する様子を覗かせていた。
そして結果的に奏一郎は、茉央が所有している漫画やライトノベルはほぼ全てを読破し、彼女がどの様な作品を好むのかを大体把握するに至っていた。
場合によっては、奏一郎の方がストーリーや設定面で茉央よりも相当に詳しくなっていることがあり、
「うわー……奏さんに追い越されちゃった」
などと、茉央は嬉しそうな、それでいて少し悔しそうな笑みを浮かべることが段々増えてきた。
時にはカップリングの解釈について茉央と延々語り合うこともあったが、その時の茉央は本当に嬉しそうに奏一郎と議論を戦わせていた。
(こんな生活、いつまで続くんかな……)
己の人一倍性欲を我慢しつつ、愛する妻からの夜の誘いを断るという矛盾した毎日。正直、かなり精神的に参っているのだが、ここで欲望に負けてしまえば、茉央の心を傷つけることにもなりかねない。
敗者はやせ我慢して何ぼだ――奏一郎は改めて腹を括った。
そしてその日の定時間際、奏一郎が休憩室で缶コーヒーを飲みながら一服していると、藤代がノートPCを小脇に抱えて姿を現した。
「あ、お疲れ様です。今日の分のログ取り、終わりました」
「ご苦労様です。今日はもうこれ以上の作業は発生しないと思うんで、上がって貰って良いですよ」
この時奏一郎は休憩室内の壁掛け時計にちらりと視線を走らせた。
今日はもう少しだけ残業して、きりの良いところで帰ろうかなどと考えていたのだが、どういう訳か藤代は尚もその場に居座り、何ともバツの悪そうな顔で頭を掻いている。
「どうか、なさいましたか?」
「あの……すみません、こんなこと、俺なんかが訊いて良いものかどうかってな話なんですけど……」
藤代は周囲に視線を走らせてから、更に奏一郎との距離を詰めてきて声のトーンを落とした。
「立ち入ったことを訊いてしまって恐縮なんですが……奥さん、ちゃんと、若峰さんを支えてくれてます?」
奏一郎は思わず、ぎょっとした顔で目を丸くした。
遂に仕掛けてきたか――とも思ったが、しかし何故よりによって会社内なのか。もっと他に場所を選べば良いだろうに。
そんな奏一郎の驚きに対し、藤代は渋い表情で眉間に皺を寄せている。
「あんまり奥さんの悪口いうのも何ですけど……あの子、俺と付き合ってた時もめっちゃマイペースっていいますか……まぁお互いに価値観も時間の取り方も全然合わなくて、それで俺が結局他のオンナに手ぇ出したのが全部悪かったんですけど……」
何がいいたいのか、よく分からない。奏一郎と茉央の関係を探ろうとしているのだろうか。
しかし奏一郎は今更、茉央と藤代の仲を引き裂くつもりはなかった。
夫という立場からすれば浮気相手を叩きのめして妻を取り戻そうとするのがあるべき姿なのかも知れないが、奏一郎は茉央の将来、茉央の心の幸せを何より望んでいる。
ここは敵に塩を送るのがベストの選択だろう。
「あー、そういう意味なら、今も変わってませんよ。マイペースもマイペース、天上天下唯我独尊ですわ」
奏一郎が苦笑を滲ませながら小さく肩を竦めると、藤代は愕然とした様子でその場に棒立ちとなった。
「え……マジ、ですか……こんな良い旦那さんを、そんな蔑ろにするなんて……」
この後、藤代はお疲れ様ですと小さく会釈を送ってから踵を返した。その際彼は、
「ひと言ガツンといってやった方が良いかな……」
などと呟いていた。
(何もそこまで芝居せんでも……)
溺愛妻を演じ続ける茉央、尊敬する上司の為に一肌脱ごうというアピールの藤代。
不倫に走った浮気妻と間男の妙な連携に、奏一郎は小さくかぶりを振った。
矢張り、ふたりの不貞行為についてはもう全て知っている旨を教えてやった方が良いだろうか。




