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13.NTR確定の夫

 負けヒロイン、という言葉を最近知った。

 要は十分にヒロインとなれる素質がありながら、正ヒロインに全てを持っていかれる不遇な立場のヒロインを指し、正ヒロインから見れば噛ませ犬、或いは当て馬ということになるのだろう。

 今の奏一郎がまさに、そんな状態であろうか。

 最終的にはTAKUYAに負けることが確定しており、愛する妻をいわば寝取られる様なものだ。

 本音をいえば、茉央を強奪してゆくTAKUYAには怒りと憎しみしか無い。

 だがここでTAKUYAを露骨に恨む姿勢を見せることは、茉央の将来に禍根を残し、引いては彼女のこれからの人生を台無しにしかねない。

 それだけは絶対に避けなければならぬと奏一郎は自らを戒めていた。


(俺のことなんか、どうでもエエわ。茉央さえ……茉央さえ幸せになってくれたら、他のことは何も要らん)


 過日、奏一郎は結婚後初めて、茉央と藤代の両者と同時に顔を合わせた。

 あの時の茉央は妙に藤代を邪険に扱う姿勢を見せたが、きっとあれは浮気を隠すためのカモフラージュであろう。ここ最近、彼女がやけにべたべたしてくる奏一郎への溺愛芝居の一環と考えれば、合点がゆく。

 今はまだ、TAKUYAとの浮気発覚は時期尚早と考えているのだろう。

 だが既に奏一郎は、茉央の裏切りを知っている。だから今更あんな形で茉央が場を取り繕うのは、少し気の毒にも思えた。


(もう俺の方から正直に、全部知ってるよってぶっちゃけた方がエエんやろか)


 午前の業務を終えた昼休み。

 コンビニで買って来た握り飯を胃の中に押し込みながら、奏一郎は省エネの為に消灯された薄暗い天井を眺めてひとり静かに唸っていた。

 早い段階で茉央を気苦労から解放してやりたいとも思う。

 勿論そうなれば速攻で茉央との別れという決着に至り、奏一郎自身は相当に手痛い打撃を被ることになるのだが、そんなことよりも茉央の精神状態が心配だった。

 余りに浮気を隠すことに必死になり過ぎて、心が病んでしまったりしないだろうか。

 奏一郎自身、茉央に裏切られたことでかなり気分的に参っているが、自身が受けた精神的打撃よりも、茉央の心中を察する方にどうしても意識が向いてしまう。


(けど、逆に俺の方から切り出して、修羅場に突入する様な心配を茉央に与えるのもなぁ)


 矢張り浮気は、浮気した張本人の口から告げさせるのが、茉央の精神的にも最も負担が少ないであろう。であれば、彼女の芝居に付き合って知らぬ風を装うのが茉央の為になるだろうか。

 米中も何かと心配してくれているが、奏一郎は現段階では一切他言無用だと釘を刺している。こちらが全て把握していることを、どんな形で茉央に悟られるか分かったものではない。


「お前……本当にそれで良いのか?」


 そういって何度も心配してくれた米中には申し訳ないが、今は茉央の心を無駄に乱さぬ様に努めるのが奏一郎の何よりの望みだった。


(俺がひとりで勝手に荒れて自暴自棄とかになるのは、茉央がTAKUYAとちゃんと一緒になって、生活が安定してからでエエわ。俺の自棄(ヤケ)なんて、いつでも出来る)


 奏一郎は、藤代に対しても一切何も知らぬ風を貫き通す腹積もりだった。

 いずれ彼が茉央の伴侶となって、茉央と共に人生を歩んでゆくのであれば、どんなに腹立たしくても、どんなに憎くても、藤代の心身を害する訳にはいかない。茉央の将来を託す相手になるのだから。

 と、その時、その当人たる藤代が別フロアから足を運んできて、わざわざ声のトーンを落として奏一郎に呼び掛けてきた。


「あの、若峰さん……ちょっと、宜しいでしょうか?」

「ん? あ、何でしょう」


 奏一郎は幾分目を丸くして、神妙な面持ちの藤代に視線を返した。隣席では米中が、若干ピリピリした様子で顔を強張らせている。

 ここでは下手な話は出来ない――奏一郎は藤代を休憩室へと誘って席を立った。


「先日は、すみませんでした」


 休憩室でふたりきりになるなり、藤代はいきなり頭を下げてきた。

 イタリアンレストランでばったり顔を合わせた時のことを、詫びているのだろうか。


「茉……奥さんのこと全然知らなかったとはいえ、大変な失礼をしてしまいました。改めてお詫びします」

「いやいや、そんな気にせんで下さい」


 幾分拍子抜けした奏一郎だったが、藤代は尚も相当に凹んだ様子で頭を掻いた。


「これから若峰さんに教えを乞う立場だってのに、ホント、俺って何やっても間が悪いんですよねぇ」

「ん? 俺に教えを?」


 詳しく話を聞くと、近々藤代の所属が異動になるらしい。その異動先が奏一郎と同じ課であり、もっといえば奏一郎の直属の部下になるという話だった。


(うわぁ……こらまたエラい人事やらかしてくれたな)


 愛する妻を寝取った男を部下として使わなければならないのか。流石に奏一郎も、少しばかり緊張の汗が滲んできた。


(けど、将来茉央の全てを託す相手や……ちゃんとひとり立ちして、しっかり茉央を養っていけるぐらいの男には仕立ててやらんとな)


 ここはもう、憎いだの悔しいだのと己の些細な感情に囚われている場合ではない。

 全ては茉央の為に――奏一郎は腹を括った。


◆ ◇ ◆


 奏一郎の部下として新たな仕事に着手した藤代だったが、奏一郎の懐の深さ、器の大きさにはひたすら感服する毎日が続いていた。


(凄ぇや、若峰さん……俺なんかじゃ絶対、真似出来ない)


 自分を指導する奏一郎はいつでも懇切丁寧で、藤代が理解出来るまで徹底して教え続けてくれた。

 更に藤代が何かのミスをやらかしても、奏一郎はいつでも上司として庇ってくれている。

 妻の元カレという男に対して、ここまで寛容に、ここまで心広く接してくれる男など居るだろうか。


(下手したら無茶な仕事振られまくったり、色々細かいところでイジめられることも覚悟してんだけど……)


 恐怖に震えつつ、覚悟を持って臨んだ新たな部署、新たな立ち位置での仕事。

 しかし奏一郎は藤代を安心させる為にと、あれこれ手を尽くしてくれている。心を砕いてくれている。

 その姿に、藤代は感動すら覚えていた。


(俺……一生、このひとについていきたい。このひとの為なら、何だってやれる。若峰さん……俺、貴方のことを師匠って呼んで良いですか……)


 藤代は、奏一郎への心酔を自ら認めた。

 彼ほどの素晴らしい男になりたいと、心の底から本気で思った。

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