12.肩透かしを食らった夫
最初に反応したのは、茜だった。
「えっと……お知り合いですか?」
そのひと言で、奏一郎はほとんど瞬間的に冷静さを取り戻した。
仮に茉央が奏一郎に三行半を叩きつける為に画策したことだとしても、普通であれば同席者には最低限の情報は伝えておいて然るべきだろう。
しかし茜が藤代に対してこの様に振る舞っているということは、少なくとも彼女は何も知らされていないと考えて良い。
であれば、この場に藤代が現れたのは本当にただの偶然の可能性もある。
奏一郎は茉央が何かいい出すよりも先に、藤代に笑顔を向けた。
「いやぁ、ちょっと三人で飯食おうかって話で。藤代君も?」
「はい。実はここ、茉央と何度か来たことがあるんですよ」
そうなのかと頷き返しながら奏一郎がちらりと傍らの茉央の表情を盗み見ると、茉央はむっつりとした表情で藤代を睨んでいる様に見えた。
どうやら、彼女と藤代の間で何らかの行き違いがあった様に思われる。段取りに問題があったのか。今の茉央の顔つきを見ると、藤代のこのタイミングでの登場は歓迎されてはいない様に見えた。
「でも久しぶりだな、茉央。今、何やってんだ?」
「……若峰です」
するとどういう訳か、茉央は随分と不機嫌そうな面持ちで藤代をじっと睨み返した。
藤代は一瞬、怪訝そうな色を浮かべる。そして奏一郎も同様に、茉央の反応がいまいち読み切れず、露骨に訝しんだ表情を示した。
「わたしは、若峰茉央です。もうたっ……藤代さんとは無関係なので、馴れ馴れしく呼ばれるのは正直、不愉快です」
その瞬間、藤代は喉の奥で変な声を漏らしていた。
まるで予想だにしていなかったといわんばかりの反応だった。
何故彼が、ここまで驚くのかよく分からない。或いはこれも、茉央と藤代の間で準備していた芝居の一環なのだろうか。
「えっ……茉央、もしかして……若峰さんと……結婚してた……?」
「藤代さんは転勤したから、御存知なかったでしょうけど、今はわたし、こちらの若峰奏一郎さんの妻です。なので、もう昔の様に馴れ馴れしく振る舞うのはやめて貰えますか?」
妙に邪険な態度だった。
これも奏一郎に対する何らかの策の一部なのかと思えるのだが、その割りにはやけにとげとげしい。
対する藤代も、迫真の演技で本当に困惑している様に見えた。素人の芝居とは思えぬ程の表情だ。
(これ、もうちょっと様子見た方が良い?)
一体自分は何に付き合わされているのかと内心で小首を捻りながら、奏一郎はふたりの顔をそれとなく見比べてみた。
一方、茜は茜で困惑している様に見える。いきなり見も知らぬ他人が割り込んできて変な空気になりつつある状況を受けて、どう対処したら良いのか迷っている様子だった。
すると藤代は頭を掻きながら、そうですかと小さく呟く。
「いや……ちょっと俺は、お邪魔みたいですね……じゃあ若峰さん、また会社で……お疲れ様です」
「え? ああ、うん。お疲れ様です」
そうして遂に藤代は、尚も要領を得ないといった顔で立ち去っていった。恐らく別のテーブルへと場所を変えたのだろう。
それにしても、よく分からない。
何故茉央は、浮気相手である藤代をこの場で追い返す必要があったのか。
もしかすると本当に今夜は茜と奏一郎を引き合わせることを目的として、この食事の場をセッティングしただけなのだろうか。
少し信じ難い話ではあったが、先程の茉央と藤代のやり取りを見ていると、本当にそうだとしか思えなくなってきた。
「御免ね、茜ちゃん。何か妙なのに割り込まれちゃって」
「え、うん、それは別に良いけど……知り合い?」
茜に問い返されて、茉央は心底嫌そうな顔で柔らかな唇を突き出した。
「えっとね……一応元カレ。あ、でも三カ月ぐらいしか付き合ってなかったし、それに、その、えっちする前にあいつが他のオンナに手を出したから、体の関係とかも全然無くて……」
最後の方はどういう訳か、奏一郎にちらちらと伺う様な視線を送りながら、若干もごもごと口ごもる様な調子だった。
茉央のこの態度は、奏一郎としてもどう反応すれば良いのか、正直よく分からなかった。
(何やろうな、この違和感は……もしかして、今日はまだ勝負をかけるつもりはなかったって訳か)
だから茉央は、藤代を追い返した訳か。
今の段階ではまだ浮気がバレるのは拙い。だから敢えて、奏一郎の前で藤代を邪険に扱ったのか。
そういうことであれば、奏一郎としても合点がいった。
(多分、もっとしっかり作戦を練ってから、俺を突き放そうってな魂胆かな)
しかしこれで、奏一郎自身はまだ少しばかり茉央との夫婦関係を続けられることが出来る訳であり、そういう意味では若干安堵したのも事実だった。
いずれ捨てられるとしても、今少しだけ、茉央とは穏やかな関係で居続けたい。
もっとしっかりと覚悟を決めた段階で別れを切り出されるならば何とか耐えられるが、今はまだ少し、心の整理が追い付いていないのが本音だった。
(もしかしたら、茉央もその辺は考慮してくれたんかな)
こういうところの優しさは、まだ健在なのかも知れない。
浮気をしていても、奏一郎に対する配慮を持ってくれているというのは、それだけで有り難かった。
「なぁ~んか、変なのが割って入ってきちゃって、おかしな空気になりかけたけど……もう一回、仕切り直そっか!」
茉央がグラスを掲げると、茜も笑顔で応じながら同じくグラスを手に取った。
そして奏一郎も肩透かしを食らった気分ではあったが、茉央に倣ってグラスを手にした。
(けど、これで終わりやないからな……決着が先延ばしになっただけやからな。安心すんなよ)
笑顔の裏で、自らにそういい聞かせた奏一郎。
そしてその目は、離れた席でこちらをちらちらと伺っている藤代の端正な面をも密かに捉えていた。




