11.とどめを刺された夫
あと5分程で定時退社時刻を迎えようかという頃合い。
奏一郎は依然として、茉央から突きつけられるであろう三行半の恐怖に耐えながら、必死にイメージトレーニングを続けていた。
と、そこへまたもや隣席から米中が心配そうな面持ちで声をかけてきた。どうやら奏一郎の顔つきが、余程に死にそうな表情に見えたのだろう。
「お前……本当に大丈夫か? 顔、真っ青だぞ?」
「ん? いや、まぁ、大丈夫……と思う」
こんなに心配されるということは、相当ヤバい顔になっていたのだろう。
もうこれ以上は誤魔化し切れないかも知れない。であれば、或る程度は話しておいた方が良い様な気もしてきた。
「ほら、前な、友人Aと、その妻Bの話したやんか……覚えてる?」
「あぁ~、アレなぁ……え、まさかあの話って、お前んとこのことだったの?」
心底驚いた様子で目を丸くしている米中。
奏一郎は苦笑を滲ませつつ、小さく頷き返した。
「ってこたぁ……茉央ちゃんが浮気してるって?」
「最初は俺も半信半疑な気分やったけど……多分、そうかなって思う様になってきた」
米中に白状したことで、奏一郎は随分と気が楽になってきた。矢張りこういう問題はひとりで抱え込まずに、もっと早い段階で誰かに相談した方が良かったのだろうか。
しかし、下手に口を滑らせて茉央を傷つけるのが怖かった奏一郎としては、その選択肢は端から消してしまっていた。
尤も、状況がここまで進んできてしまえば、最早今更感は拭えないのだが。
ところが米中は、未だ信じられないといった様子で腕を組んだまま、しきりに首を捻っていた。
「いや……茉央ちゃんが浮気? ちょっと考えにくいんだけどなぁ」
米中も、この会社で茉央が働いていた頃の様子を知っている。彼女が藤代と一時期付き合っていたことも頭に入っているだろうし、その後の事情も全て彼の記憶の中に残っているだろう。
と、ここで米中はあっと小さな声を漏らした。
「まさか……その相手って藤代?」
「……の様な気もしてる。っていうか、それが正解ちゃうかな」
奏一郎は気の抜けた顔で頷き返した。
実際、奏一郎の中ではもう結論は出ている。茉央は藤代と浮気し、そして今夜、彼を食事の場に呼び出して離婚の話を持ち出してくるつもりなのだろう。
ここ最近の茉央の妙な良妻演技と藤代の急な本社復帰。余りにタイミングが符合し過ぎる。
後はもう時間の問題だと思っていた奏一郎だが、いざこうして現実を突きつけられると、中々堪えるものがあった。
「あの……俺がどうしました?」
その時だった。
不意にふたりの背後から思わぬ人物から声がかかった。
振り向くと、そこに誰か宛ての資料を小脇に抱えた藤代の姿があった。
もしかすると、今までの会話を全て聞かれてしまっていたのか――奏一郎は背筋に嫌な汗が噴き出してくるのを感じた。
当の浮気相手が目の前に居るのだから、最早隠し事など無意味なのだろうが、しかし場所が余りに悪過ぎる。奏一郎は愛想笑いを浮かべて、何でも無いとかぶりを振った。
どうせこの後、引導を渡されるのだ。何もわざわざ社内で波風を立てる必要は無い。
ここで終業のチャイムが鳴った。
奏一郎はそそくさと帰り支度を整え、何食わぬ顔で自席から立ち上がった。
米中には軽く事情を話したし、茉央の浮気相手である藤代にも、こちらの覚悟は伝わった筈だ。
後はもう、とどめを刺されるだけであった。
◆ ◇ ◆
そして、茉央との待ち合わせのイタリアンレストランへと足を向けた奏一郎。
店内では既に茉央が、四人掛けテーブルで先に腰を下ろして待っていた。
「あ、奏さん、こっちこっちー」
嬉しそうに手を振って来る茉央。
奏一郎は死にそうな顔ではあったが、一応笑みを浮かべた。そして、茉央の差し向かいの席で小さく会釈してくる女性に、違和感を抱いた。
何故ここに居るのが藤代ではなく、彼女なのか。その見知らぬ女性の正体と茉央の意図が掴めず、奏一郎は思わず警戒して身を硬くした。
ともあれ、まずはテーブルに就かぬことには話にならない。
奏一郎は茉央に招かれるまま、彼女の隣の椅子へと足を運んだ。
「あ、どうも……こうして直接顔を合わせてお話するのは初めてですよね。いつも茉央さんにはお世話になってます、須藤茜です」
「あぁ……須藤さんでしたか」
声を聞いて、やっと分かった。
ライン通話では軽く言葉を交わしたことがある、茉央のオタク仲間の茜だった。
もしかすると、紹介したい相手というのは彼女のことだったのか。藤代との復縁と、奏一郎との離縁の話ではなかったということか。
あれ程に警戒し、腹を括っていたのが馬鹿みたいだ――奏一郎は内心で自嘲しながら、茜との自己紹介を終えて椅子に腰を下ろした。
「実はね、茜ちゃんに奏さんが黄金の撃鉄に目覚めたことを話したら、めっちゃ食いついてきちゃってさ」
「そうなんですよー。アタシ、あれめっちゃ大好きなんで、茉央ちゃんの旦那さんがハマってくれたって聞いた時はすっごく嬉しくなっちゃって」
そういうことだったのか。
奏一郎は首の皮一枚繋がった気分で、内心でほっと胸を撫で下ろした。
これで今少し、茉央との夫婦関係を続けることが出来る――そんな安心感が急に湧いてきた。
が、その安堵は次の瞬間には早くも砕け散っていた。
「……あれ? 茉央じゃん。それに、若峰さんも?」
この日、二度目の硬直。
声の方に面を向けると、物凄く嬉しそうな笑顔を浮かべている藤代の姿が、すぐ近くにあった。
まるで偶然を装ってはいるが、きっと彼は茉央と事前に示し合わせて、同じ店に居たのだろう。そうでなければこんなことはそうそう、起こり得ない。
これは恐らく、最初に奏一郎を安心させてから不意を衝くという茉央なりの心理作戦だったのだろう。
随分と手の込んだやり方だった。
そうまでして、奏一郎を叩きのめしたかったのか。何年も一緒に過ごした夫を、精神的に追い詰めたかったのか。
(おいおい茉央……結局こういうことかいな。ぬか喜びで油断させといてから、とどめの一撃て……めっちゃ手ぇ込んどるがな)
そんなにも茉央は、奏一郎を嫌っていたのか。憎んでいたのか。
一体何をすれば、ここまで妻に恨まれるのか。
性欲が強過ぎたのが、そんなにも彼女の嫌悪感を招く結果になったということか。
では、そもそも茉央と結婚したことが間違いだったのか。
奏一郎は、思わず天を仰いでしまった。
その傍らで茉央は愕然とした表情で凍り付いていたが、奏一郎の視界には彼女のそんな様子は全く入っていなかった。




