10.想像力が豊かな夫
翌日、奏一郎が外注先のソフトウェア開発会社との定例ウェブ会議を終えて休憩室に足を運ぶと、不意に誰かが呼びかけてきた。
自販機から缶コーヒーを取り出しながら面を上げると、そこにどこかで見た覚えのある顔が佇んでいた。
「ども、御無沙汰してます、若峰さん」
爽やかな笑顔で小さく会釈を送って来るその人物に、奏一郎は内心であっと声を上げた。
茉央の元カレ、藤代だった。
昨日東北支社から本社へと戻ってきたという話だったが、復帰後に彼と顔を合わせるのは、今日が初めてだった。
「あ、藤代君、お久しぶりですね。元気やった?」
「はい、お陰様で……その節は本当に、ありがとうございました」
藤代は改めて背筋を伸ばし、深々と頭を下げてきた。
奏一郎は、複雑な気分であった。彼の元カノである茉央が、今は奏一郎の妻となっている。いわば奏一郎は藤代のお下がりを貰った様な立場だ。
下世話な表現をすれば、奏一郎と藤代は穴兄弟ということになり、しかも藤代の方が兄に該当する訳だ。
尤も、肝心の茉央は既に夫たる奏一郎から心が離れてしまっているから、そんなことをいえる立場でもなくなっているのだが。
(随分、大人になったなぁ)
東北支社へ異動となった頃の印象とは随分と様変わりした藤代に、奏一郎は感心した。
以前の藤代はもっとやんちゃで、少々態度の悪い若者だったのだが、矢張り相当に鍛えられたのか、或いは年齢相応の落ち着きを身につけたのか、あの頃とは比較にならない程の大人な顔を見せる様になっていた。
そして藤代が世話になったといって頭を下げているのは、彼が会社に出してしまった損害を、当時奏一郎が所属していた開発チームが総出で尻拭いしたことを指しているのだろう。
あの当時は確かに大変ではあったが、奏一郎自身も中々貴重な経験をさせて貰ったと思っている。
「何事も経験ですから、藤代君にもエエ勉強になったでしょう。これからは、どんどん活躍して会社を見返してやったらエエんですよ」
「ははは……本当に、若峰さんには頭が上がらないです」
きっと藤代本人も相当叱責され、天狗の鼻をへし折られたに違いない。
これ程に丸くなって帰ってきたのだから、東北支社で鍛えて貰ったのは大正解だったといえるだろう。
だがそれは、飽くまでも会社の同僚としての話である。
藤代が茉央との関係を取り戻そうとしている恋敵という面で見れば、最も顔を合わせたくない相手だった。
「今後、また何かとお世話になるかと思いますので、その時は宜しくお願いします」
「はい、こちらこそ」
そこでふたりは再度会釈を交わし、それぞれの部署へと引き返した。
結局藤代は茉央のことについては一切触れなかったのだが、そのことが却って不気味だった。
(勝者の余裕ってなとこなんやろうかね……)
内心で大きな溜息を漏らしつつ、奏一郎は自席へと辿り着いた。
その途中、女子社員らが妙にざわついている声を幾つか耳にした。いずれも藤代に関するものだった。
曰く、以前とは比べ物にならない程の大人になっており、その言動も実にスマートなものだったとか云々。
確かに奏一郎の目から見ても、随分立派になったと思った程であった。
元々藤代は結構なイケメンだったから、そこに加えて落ち着きを身につけたとなったら、女子社員らが騒ぎたくなるのも無理からぬ話であろう。
(せやけど、残念やったね……彼はもう、茉央とヨリ戻すから……)
自嘲の笑みを浮かべながら自席に腰を下ろした奏一郎。
茉央との別れが近いことを改めて実感しつつ、それでも今は業務に集中すべきだと頭を切り替えた。
◆ ◇ ◆
そしてその日の夕刻、定時退社時刻の少し前。
奏一郎のスマートフォンに、茉央からのメッセージ着信を告げるポップアップ通知が表示された。
何事かとロックを解除した奏一郎。何となく、嫌な予感が脳裏を過っていった。
「ねぇ奏さん。今夜、お外で食べない? 実は紹介したいひとが居るんだけど」
その瞬間、奏一郎は思わず息を呑んだ。
遂にこの時が来たか――まるで死刑宣告を浴びた囚人の様な気分で、彼は自身のスマートフォンの画面をじぃっと凝視した。
その余りに深刻な姿が異様に映ったのか、隣席から米中がどうしたのかと声をかけてきた。
「あ、いや、茉央から晩飯は外食にしたいって連絡来ただけ……」
「そうなのか? 何か、その割りには随分深刻そうな顔に見えたんだけど」
矢張り、顔に出てしまっていたか。
奏一郎は誤魔化す様に苦笑を浮かべながら頭を掻いた。
「いやー、ちょっと俺の苦手な料理とかやったら困るなーなんて思うて」
「ふぅん……」
米中は一応頷きはしたものの、しかしその面には納得のいっていない色がありありと浮かんでいた。
だが流石に、茉央が浮気しているなどという話は口が裂けてもいえない。そんなことが奏一郎の口から外部に伝われば、彼女は間違い無く傷つく。
茉央自身の意思で藤代との元サヤを周囲に伝えるのであれば問題無いのだろうが、今の時点では一切を秘密にしておかなければならない。
それが奏一郎がしてやれる茉央への気遣いだった。
ともあれ、返事は必要だ。
奏一郎は地獄に叩き落とされる様なツラさに必死に耐えつつ、OKの返事を打ち込んだ。
(今日でいよいよ、引導を渡されるって訳か……)
本来なら、愛する妻との外食は喜ぶべきなのだろう。
しかし今の奏一郎の心を占めているのは、どうにもならない絶望のみであった。
(もしかしたら、もう離婚届とかも全部、用意してんのやろか)
嫌な考えばかりが、次々と浮かび上がってくる。
どうやら今宵は、長い夜になりそうだ。
(今からイメトレしとこか……ぶっつけ本番は流石に無理や)
無駄な抵抗だとは知りつつも、それでも奏一郎は必死の思いで、色々なシチュエーションを頭の中で描いていった。
この際、少しぐらい想像力が豊か過ぎる方が、自身の精神を守るには丁度良いだろう。




