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1.見てしまった夫

 35年ローンで購入した3LDKのマンション自宅のドアを開けると、美味そうな香りが漂ってきた。


(今夜はカレーか)


 子供の様に浮かれた気分で、若峰奏一郎(わかみねそういちろう)は手早く革靴を脱ぎ、広いリビングダイニングへと足を向けた。


「あ、おかえりー」


 4Kテレビでサブスク契約のアニメを視聴していた妻の若峰茉央(わかみねまお)が、声だけで出迎えた。

 奏一郎もそこそこアニメを見る方だが、茉央のアニメ好きは更にその上を行き、好きなタイトルは必ずブルーレイボックスを一式揃え、原作小説や漫画も保管用、布教用、実用の三冊を必ず買い揃えるという中々の徹底ぶりだった。

 当然ながら、一度アニメを見始めた茉央は帰宅した奏一郎には一瞬たりとも視線を向けることはない。

 奏一郎もそんな彼女の態度にはすっかり慣れたもので、着替え終えた彼は自身の手で夕食の準備を始めた。


「今日のそれ、一気見の何か?」

「うん」


 問いかけに対しても、茉央は最低限の応えしか返さない。

 一度アニメに意識が向くと、奏一郎の存在はほとんど空気と化している様な節が伺えた。


(相当好きなんやな……)


 そんなことを思いながら、奏一郎はカレー皿に温かい白飯を盛り、その上から盛大にカレーを流し込んでダイニングテーブルへと就いた。

 それから後も、ふたりの間にはほとんど会話らしい会話は無い。

 新婚の頃はもっと色々と言葉のやり取りがあったのだが、ここ最近はまるで倦怠期の様に会話の回数が減ってしまっていた。

 かといって、奏一郎は茉央から心が離れた訳ではない。

 むしろ、その逆だ。


(今日もどうせ、無理やろなぁ)


 内心で項垂れつつ、カレースプーンを口元に運ぶ。

 茉央は家事をしっかりとこなしてくれるし、奏一郎の稼ぎに文句をいうことも無い。仕事や飲みなどで多少帰りが遅くなっても、彼女は一切不平を垂れることも無い。

 奏一郎にとっては本当に有り難い存在であり、茉央が居てくれるからこそ自分も頑張れるという気持ちが強かった。

 が、彼女との生活に於いて、奏一郎にはひとつだけ不満を抱えていることがあった。

 実にここ数年、セックスレス気味に陥りつつあったのだ。

 言葉で明確にセックスを拒まれた訳ではない。しかし茉央は奏一郎がベッドに潜り込んでもひたすらアニメや推しのライブの視聴にばかり時間を割き、一向に寝室へ足を運んでくる気配が無い。

 そのうち待ちくたびれた奏一郎が先に眠り込んでしまうということが、一年のうちの大半を占めていた。下手をすれば数カ月完全にセックスレス状態が続くこともあった。

 どうやら茉央はセックス自体は嫌いではないものの、それ以上にアニメや推し活が好きである様だ。

 同じアニメ好きとして茉央の気持ちは分からなくもないが、しかしここまで極端に夫婦生活を蔑ろにされてしまうと、かなり辛いものがあった。


(せやけど、だからっちゅうて浮気すんのもなぁ……)


 奏一郎は自分でいうのも何だが、貞操観念は割りと強い方だった。

 会社には色々と慕ってくれる女子社員も大勢居るのだが、彼女らがどれだけ色目を使おうとも、彼は一切応じるつもりは無かった。


(俺には茉央が()るしな)


 ひたすらその一念のみで、モーションを仕掛けてくる女子社員の全員を撥ね退けていた奏一郎。

 それだけに、茉央からの無意識の拒絶には中々堪えるものがあった。

 そんな奏一郎の密かな葛藤を知ってか知らずか、茉央はまたもや夫婦の間を裂きかねないひと声を呑気に浴びせかけてきた。


「あー、そうだ、奏さん。今度の土日、わたしライブ行ってくるから」

「え、またかいな。よう行くなぁ自分」


 幾分呆れて、奏一郎はやれやれとかぶりを振った。

 茉央は熱烈に応援している推しの声優が何人か居る。その声優のライブが近隣で開催されると、必ずといって良い程に足繁く通っていた。


(まぁ、それで本人の人生が楽しくなってくれるんやったら、何ぼでも行ってくれたらエエんやけど……)


 ただここのところ、推し活に時間を割く余り、夫である奏一郎へのケアが相当に蔑ろになっている様な気がしないでもない。

 それでも奏一郎は、いつも家のことをやってくれている彼女に対しては感謝の気持ちを込めて、茉央のひとりでの自由な行動には極力口を出さぬ様に努めていた。

 土日は、奏一郎も休日である。

 本当なら夫婦ふたりでデートでもしたいところだが、そこは敢えてぐっと我慢した。

 それもこれも、茉央に楽しく幸せな人生を送って貰いたいと心から願っているからであった。


「ほんなら土日は、俺も適当に飯食うといたらエエんやな」

「あ、一応食費は置いてくから、お小遣いから出さなくても大丈夫だよ」


 茉央もそれなりに気を遣ってくれているらしい。

 こういうところがあるから、奏一郎としても茉央には好きに遊んできて欲しいと思うのである。

 と、ここで茉央がテレビの前のソファーから立ち上がった。

 どうやらアニメの連続放送がひと段落ついたらしく、これから入浴を済ませようということらしい。

 鼻歌で何かメロディーを奏でながら、茉央は脱衣所へと去っていった。


(今日も御機嫌やな……)


 そんなことを思いながらカレー皿をシンクに片付けていた時、不意にリビングテーブル上で鈍い震動が鳴り響いた。

 茉央のスマートフォンに着信が届いたらしい。

 キッチンからリビングへと足を運び、リモコンチャンネルを取ろうとして何気なくリビングテーブルに近づいた奏一郎だったが、この時たまたま、彼は茉央のスマートフォンの画面にちらりと視線を流した。

 そしてその瞬間、奏一郎はその場に凍り付いてしまった。


(え……誰?)


 茉央のスマートフォンに届いていたのは、先程彼女が口にしていた週末のライブに関してのことらしい。

 だが、その見出しの一文には、


「今週末のライブのチケットのことだけど、またこの前と同じ様に……」


 と記されており、しかもその差出人の名前が『TAKUYA』となっていた。

 どう見ても、男性名だった。


(何? ひとりで行くんやなかったんか?)


 この時、奏一郎の胸中にふと、ひとつの疑念が湧いた。

 今まで茉央は、ライブにはひとりで行っていたと語っていた筈だ。

 それなのに、この文面はその証言が嘘であることを暗に示している。


(まさか……他所で俺の知らんオトコと会ってたんか?)


 奏一郎は急に心臓が高鳴るのを感じた。

 やけに息苦しい時間が、静かに流れていった。

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