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誰も知らない未来

 ニルバド皇国へやってきてまだ二十日ほどが経過しただけだというのに、レンの姿は早くも異国に溶け込んでいた。

 要塞ターシュカの街は護衛のマルコともども自由に散策することが認められ、城塞内部もある程度までなら出入りが許されている。

 周囲の誰もが彼女を貴賓のごとく扱った。


 それというのも、ターシュカを治めるジャズイール第六皇子がレンへの敬意ある対応を求めたからだ。もちろんレン自身はそう認識していないが、世間の目は彼女がジャズイール第六皇子の信頼を得ていると見た。


 収蔵庫での夜以来、レンは彼から気まぐれに呼び出しを受けることがあった。およそ二十日間で五度。そのたびに彼女は〈鑑定〉の行使を求められる。

 ただしあの夜のような悪趣味極まった〈鑑定〉ではない。両者の言い分が食い違う裁判の決定打として使われたり、新たに発見された資料の背景を探らされたり、非常に実利的な用法であった。

 いかにも合理性の塊であるジャズイールらしい、とレンも納得していた。


 そのような日々にすっかり慣れ、彼女は散歩がてらマルコとともに城塞の中庭へと向かっていた。鍛錬する場がほしい、とマルコが希望したためだ。

 テスレウからの許可を得て中庭へやってきた二人だったが、先回りで待っていたのはジャズイールからの使いの者であった。


「レン様、殿下がお呼びでございます」


 それだけを告げると、いずこともなく去っていく。

 やれやれ、と頭を掻きながらレンはマルコへ済まなさそうに告げる。


「じゃあ、そういうことだから。機嫌を損ねないうちにちょっと行ってくる」


「お気をつけて」


 ジャズイール第六皇子の政務室がある場所へは、レンしか立ち入りを許されていない。護衛役といえどマルコも見送るしかなかった。


     ◇


「殿下、失礼いたします」


 ジャズイール専用の政務室へ呼び出されるのはこれで六度目とあって、レンの態度も堂に入ったものだ。


「来たか」


 待ちかねたと言わんばかりに、ジャズイールは席から腰を浮かせる。

 そんな彼へ深々と一礼してからレンが訊ねた。


「今日はどのような品の〈鑑定〉を行なうのでしょうか」


「いや、〈鑑定〉で呼んだのではない」


 伝えるべき情報が入ってきたのでな、と彼は言う。


「おまえの祖国、ヴァレリアについての情報だよ。向こうでも大きく情勢が変動しているようだ」


 ジャズイール第六皇子自ら、レンへ状況の説明を引き受ける。どうやら本日の彼は恐ろしく上機嫌らしい。


 結論からいけば、ヴァレリア共和国の統治形態が変わり公国となった。

 やはりレンたちが去った後に政変は起こったのだ。フランチェスコ・ディ・ルーカ将軍が無血で実権を握り、統領の地位を廃した。

 新たにヴァレリア公と名乗った彼を元首に据える政体となり、最後の統領モレスキは追放され他国へと落ち延びたのだそうだ。


 暴君らしくもなく整理された話しぶりだったジャズイールだが、語り終えると同時に唇を歪ませて笑みを浮かべた。


「やってくれる、僭主め」


 口に出した言葉と表情がまるで噛み合っていない。

 先手を打たれたなどとは微塵も感じておらず、むしろ自身と拮抗する可能性のある好敵手の出現を喜んでいるかのようだ。


 テスレウの気苦労が絶えないのも当然だ、とレンは慮る。ジャズイールの右腕、第一の腹心、そう形容されることの多い彼だが、ひたすらに主君の背を追い続ける本人の実感からはいささか離れているのではないだろうか。

 レンにそう思わせるほど、ジャズイールは止まることを知らない。


「どうだ、ヴァレリアへ帰りたいか?」


 出し抜けに要塞ターシュカの主はそう問いかけてくる。


「おまえがそう願うなら、叶えてやらないでもない。構わんぞ」


 それはレンにとって非常に魅力的な提案だった。

 サラとともに〈鳥籠〉で過ごしていた頃を除けば、ヴァレリアにいた時分にいい思いをしたことなど数えるほどもない。サラ亡き今、郷愁など自分とは無縁の感情だと信じて疑わなかった。

 なのにどうしたことか、レンの気持ちは揺れる。


 もしもヴァレリアに帰ることができたなら、やりたいことはいくつもあった。

 フランチェスコへは感謝と謝罪を。

 判明したであろうサラの埋葬地へ祈りを捧げに。

 以前の護衛役ドナートの死とも改めて向き合わねば。


 かつてヴァレリア共和国の初代統領だったルージア・スカリエッティは、死の間際で時の彼方のレンへと告げた。

「私の人生のすべてを懸けて築いた美しき共和国は、最後にして偽物の〈遠見〉である君をきっかけとして崩壊が始まる」と。


 レンの他には知る者もない彼女の遺言通り、ヴァレリア共和国はここに終焉の時を迎えた。ルージアによる未来視が結実したわけだ。

 ならばニルバドの侵攻によって、新生なったヴァレリア公国が滅びる未来はもはやなくなってしまったのか。そうではないはずだ。

 これより先の未来は何一つとして定まっていない。ニルバドがさらなる拡大路線をとるのか、内政重視へ転換するのか、ヴァレリアが外敵を撃退するのか、滅ぼされてしまうのか、もしかしたら両国が手を結ぶのか。


 ほんの少し先を見通すのも難しい情勢の中で、レンにできることは何か。

 フランチェスコの力になりたいと考えるなら、彼女がいるべき場所がどこなのかは明白だった。

 ヴァレリアではなくニルバド皇国にいてこそ、ジャズイール第六皇子へ侵攻を遅らせるための働きかけもできるのだから。


「お心遣いに感謝いたします、殿下。しかしわたしとて生半可な気持ちでニルバドへやってきたわけではありません。この地に骨を埋める覚悟はできております」


 後ろ髪を引かれるような感情を押し殺し、レンはきっぱりと断る。

 気まぐれではあってもせっかくの厚意を無駄にしてしまったため、ジャズイールの反応が気になるところだ。

 だが「それでいい」と彼は目を細める。


「もし肯きでもしようものなら、首だけでヴァレリアへ帰してやったところよ」


 罠とは見抜けなかったが、レンはまたも命拾いをした。


 そういえばルージア・スカリエッティはこうも告げていた。

「これからの君の人生に平穏などあり得ない」と。

 あとどれほど危地を切り抜ければよいのか、眩暈がするくらい想像もつかない。


 そんな彼女へ、ジャズイールが一転して真剣な眼差しを向ける。


「ニルバドにいろ、レン。テスレウとのことを知るおまえであれば、私としても妃として迎えるのにやぶさかではないのだから」


 どうやらジャズイールは、レンを娶ってやろうなどという例の突拍子もない提案を本気で検討しだしているようだった。

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