第百六十一話 異形の神ハイドラ
異形の姿に変化したヒュドラ。これが・・クトゥルフの配下の神・・・。
人の信仰を受けている神は人に近い姿か、自然に生きる他の生物に模した姿だが
宇宙の神であるクトゥルフの配下はその枠組みから外れるのだろう。
その姿を目の当たりにして得体のしれない恐怖が心を襲う。
戦いに慣れていき、相手に恐怖する事など次第に無くなっていたが
心に隠していた恐怖を無理やり引きずり出されたような感覚だった。
「・・・っ!!!」
しっかりしろと頬を叩き、恐怖を脳から無理やり追い出す。
敵は目の前にいて隣には楓がいる。俺がしっかりしないと大切な人を守ることはできないと
急いで得物を構え、迎撃を行うために魔術を唱える準備を行う。
「・・さすがですね。千仞と激しい戦いを生き延びてきただけはあります。」
ノエルさんが俺の方を見て呟く。
「クトゥルフの神々は宇宙の神であり、地球の神々が持つ身体的特徴を有してはいません。
我々の常識にとらわれない予想外の姿は我々の脳の奥底にある恐怖を引き出し、
精神を汚染して来るのです。」
「汚染・・・?」
「恐怖で汚染された精神は自身で体を操る事さえ困難になります。
龍穂君は恐怖に打ち勝つことが出来ましたが・・・。」
ノエルさんは俺の隣に目を向けると、隣に立つ楓の様子がおかしいことに気が付く。
深く、不規則な呼吸。目の焦点が合っておらず、明らかに精神に異常を喫している。
「楓・・?楓!!」
「精神をやられてしまいましたか・・・。
このままではなす術なくやられてしまいます。一度退いてもらいましょうか。」
ノエルさんがつま先で影を叩くと、白の一員が影から出てきて楓を引き込んでいく。
体に力が入らずぐったりとしたまま引きずり込まれていくが、
その間も視線は異形の神から外れる事はない。
「楓・・・。」
「大丈夫です。少し時間を置けば正気に戻るでしょう。これが奴らを相手する際の厄介な点なのです。
強い精神力を持っていたとしても奴らに耐性を持っていなければ、
姿を見ただけで戦闘不能に追い込まれてしまう。」
俺と共に戦ってきた楓の精神力が弱いはずがない。そんな楓でもあんな風になってしまうのか・・・。
「出やがったな・・・”ハイドラ”。」
姿を変えたヒュドラを別の名で呼ぶ兼兄。
「神の姿になった姿の名です。あの姿になった奴は厄介ですよ・・・。」
ノエルさんの口ぶりからして、一度戦ったことがあるのだろう。
その時の勝敗を聞きたかったが尋ねるが怖く感じて口を噤む。
姿を変えたハイドラは大きな雄たけびをあげると、体から灰色の体液を大量に流していく。
「来たぞ・・・。一度距離を取ろう。」
近くにいた兼兄達は体液が足元に浸かる前に沈んでいくとノエルさんの影から飛び出してくる。
「龍穂。奴が流している体液は先ほどの鱗と同じだ。見ろ、顔が浮き出ているだろう。」
兼兄の言う通り奴から出てきた体液には苦悶の表情が無数に浮かんでいる。
「あれに触れるな。触れた瞬間力を吸収されるどころか体ごと引き込まれて
全てを持っていかれるぞ。」
海のように敷き詰められた体液からは俺達を引きずり込もうと手が伸びてきており、
怨念のようなどす黒い神力が漂っている。
「目の前に広がっているのは死の海です。
龍穂君は浮かぶ術を持っているので問題ないと思っているかもしれませんが、
奴はあの体液を操って攻撃してきます。決して油断しないように。」
あの海を操るという事は敷き詰められた場所全てが奴の陣地であり、近づくことさえ困難だろう。
本来であればこちらが有利な所まで移動したいところだが奴の体から体液が流れ続けており、
このまま放っておけばこの階どころかこのショッピングモール全てが奴の陣地へと変わってしまう。
そして数少ない出入口を塞がれてしまえば俺達の敗北はほぼ決まってしまう。
今度はこちらが時間を追われる側に回ってしまった。
「龍穂、ノエル。まずは俺と春が仕掛ける。
二人は互いに援護しながら俺達とは別方向から仕掛けてくれ。」
水銀を辺りに漂わせるとその水銀を足場にハイドラに向かっていく。
毛利先生は体に雷をまとわせると雷鳴を鳴らしながら光速で移動し、ハイドラに得物を叩きつけた。
「接近戦は彼らに任せましょう。あの二人であれば体液に触れる事はありません。
ゆー、海に触れないようにちーと連携を取りつつ遠距離攻撃をお願いします。」
斧から大きな杖に持ち替えると自らの体に風をまとわせ浮かび上がるノエルさん。
俺も同じように体を浮かばせ、灰色の海原へと飛び立った。
水銀をの上を移動しながらハイドラに接近戦を仕掛けている兼兄。
吸収した人達の力を海に変えても鱗の固さは健在。
兼兄の得物は肉に到達せずに鋭い爪を持った二本の腕と背中に生えている二体のウミヘビから
反撃を受けてしまっている。
だが毛利先生が放つ雷が兼兄へ飛んできている爪や牙を受け止め、見事な連携で立ち回っていた。
(二人が俺達への意識を遠ざけてくれている隙に攻撃を・・・。)
魔術を放つ準備をしていた所を横にいるノエルさんが俺の服を引っ張ってくる。
「先程も言いましたよ?奴は体液を操ると。」
先程まで俺がいた所に下から水が突き上げられ、水柱が打ちあがっていた。
「全方向に集中しなさい。」
打ち上げられた水柱がこちらに向いて俺を追いかけてくる。
方向転換をして何とか避けるが、海から腕の形をした無数の水柱が俺を捕まえようと追いかけてきた。
「くっ・・・!!」
あまりに激しい攻撃にノエルさんから離れて必死に逃げる。
上下左右から俺を追い立ててきて、まるで袋の鼠だ。
頬を掠める事も出来ない攻撃を何とか避けるがこれではハイドラに攻撃さえ放つことが出来ない。
このままでは追いつられていずれやられる。そう頭によぎった時、ノエルさんの姿が目に入る。
「démarrer。」
札から大量の魔術書を放ち、依然聞いた呪文を唱えると魔術書から魔術が飛び出し
近づいてくる灰色の手をいなしていく。
「まだ頭が正常に働いていないようですね。いつも通り、戦いなさい。」
逃げ回る俺を追っている灰色の腕に魔術書の一撃が襲い掛かり、俺の追う腕が消えてなくなった。
「私が灰色の腕の対処をします。龍穂君はハイドラに強烈な一撃をお願いしますね。」
そう言うと魔術書が打ちあがる水柱や腕を全て撃ち落としていく。
これであれば何も気にせずに魔術を打ち込むことが出来る。
(いつも通り・・・。)
いつもであれば水を風の魔術で撃ち落としながら戦っていたのだろう。
ノエルさんに言われて自分がどこか焦っていたことに気が付く。
楓のあのような姿を見ただろうか?その原因は分からないが、
とにかく一度落ち着くために深呼吸をする。
狙うハイドラと戦う二人を見るといまだ固い鱗に苦戦しており、
あの鱗を破壊しなければこちらに流れが傾くことはない。
「・・黒牛。」
俺が扱える魔術の中で一番突破力のある黒牛を唱える。
角を大きく、さらに回転を加え鱗を破壊できるように強化していく。
「行け!!!」
鼻息を荒げいつでもいいと意気込んでいる黒牛に大きな声で指示を出すと、
宙をかけハイドラに突っ込んでいく。
何本もの腕が黒牛の行く手を阻もうと迫りくるが、
ノエルさんも魔術書が全て撃ち落としそのままハイドラに迫った。
「春。」
「分かっています。」
戦っている二人が黒牛の接近に合わせてハイドラの腕を切り上げる。
ハイドラの力も強大であり、二人の得物を受け止めるが
二人の足元から大きな鋭い影が飛び出しそのままハイドラの腕を押し上げ
両腕を跳ね上げられたハイドラの腹はがら空きになった。
二人が作り上げた隙を逃すことなく黒牛は突っ込んでいく。
回転する大きな角を空気を割く音を立てながら、びっしりと敷き詰められたハイドラの鱗に突き立てた。
岩盤を削っていると言われてもおかしくないほどに大きな轟音を奏でながら
黒牛はハイドラを押し込んでいく。
魔力操作で固い鱗が徐々に削り取られていくが伝わってくるが
マズイと感じたハイドラは両腕で腕を掴み、
後ろに生えているウミヘビで黒牛のわき腹に噛みついた。
ウミヘビの牙は鋭く黒牛は顔をしかめる。
二人の一撃を片手で付けとめるほどの力を持つハイドラの剛腕はすさまじく、
ウミヘビの攻撃を受けた黒牛の弱まった勢いを腕力だけで止めてしまう。
だが角の回転がハイドラの手の平に生えている鱗を削っていき、
鱗が無くなり肉を抉られたハイドラはあまりの痛みに思わず角を手放してしまうと
再び押し込まれていった。
壁まで追い詰められたハイドラ。
鱗を削り取るどころかこのまま体に大きな穴が開くところだったが
蛇の下半身で黒牛の体を縛り両腕を上げ、手を組んで作り上げられた槌が体に振り下ろされると
剛腕の一撃に黒牛は体勢を崩してしまう。
あまりの一撃に魔力操作が出来ずに黒牛は空気の中に消えてしまうが
角を突き立てた個所には鱗が無く、素肌が露わになっていた。
「よくやった龍穂。十分だ。」
もう少しダメージを与えておきたかったが、敵の弱点を生み出したことは大きな収穫だろう。
鱗をなくした影響だろうか、体から流れる体液の量が目に見えて少なくなっている。
大きな変化を見せたハイドラにできた隙を兼兄と毛利先生は見逃さず、距離を詰めて攻め立て始めた。
「少しは調子を取り戻しましたか?」
灰色の腕がこちらに飛んでくることも無くなり、
余裕の出来たノエルさんがこちらに近づいてくる。
「黒牛を見せてもらいましたが、いつもより魔力操作が雑に見えました。
心のざわつきがまだ収まっていない証拠でしょう。二人が戦っている隙に少しでも落ち着きなさい。」
いつもより精巧で強力に作り上げたと思っていたが、ノエルさんに雑だと指摘された。
長野さんとの鍛錬のおかげで魔術の質が上がり、感覚がいつもとは違っているのかもしれない。
影と雷。二人の息の合った連携を前にハイドラは対処できず鱗が無くなった弱点を突かれていく。
弱点が出来ただけでこんなにも違うのかと感心してしまうが、
それでもハイドラの心臓に手が届くには程遠い。
距離の近い二人を引きはがそうとハイドラは脳に響くほどの雄たけびをあげ
それに呼応するように敷き詰められた海が荒立っていく。
耳を塞いだ二人は得物を構えることが出来ず、
一時距離を取るとハイドラはその隙を逃さず海に飛び込み姿を消した。
「逃げたか・・・。厄介だな。」
海と形容したが海というのはあまりに浅く、巨体であるハイドラの体が浸かるはずはない。
だが姿が言えないという事は灰色の海には何か秘密があるのだろう。
「全体に次ぐ。ハイドラを逃がした。海に近づくな。」
すぐさまマイクに警戒を促し、兼兄を見て千夏さん達に同じように念を飛ばす。
「何処に行ったのでしょうか・・・。」
「探すしかないが・・おそらくすぐに姿を現すだろう。
捜索に移るがすぐに戦闘に入れるように気を抜くなよ。」
そう言うとすぐさま移動を始めハイドラの姿を探し始める。
灰色の海を移動しているということは戦線離脱した楓の前に現れる可能性があるという事だ。
念で楓に連絡を取るが返事が来ない事からまだ正気を取り戻してはいないだろう。
心に大きな不安を抱えながらも捜索を続けた。
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