主の遣わしたもの
セリカイアは目を覚ますと、ベッドから飛び降りた。昨夜用意しておいた水差しの水で、口をゆすぎ、布を濡らして顔と体をてばやく拭く。
「おはよう、デボラ」
「……おはよう、セリカイア」
同室のデボラは、うーんと唸りながら、体を起こす。彼女はベッドサイドのチェストの上から、モノクルをとりあげた。「毎日のことだけれど、あなたってはやおきね」
「それくらいしか取り柄がないもの」
セリカイアは苦笑し、制服にきがえると、部屋を出た。彼女が部屋を出る頃、ようやくと、デボラがベッドから這い出していた。
セリカイアはここ、限られた数の女子児童を教育している、ホワイトバーチ学校に在籍している。親許を離れて二年、優しい理事長先生と教師陣のもとで、のびのびと暮らしていた。出来たばかりの学校で、いろいろとあたらな試みをしているのだが、保護者にはおおむね評判がいいらしい。
由来を訊かれることも多い名前は、両親が旅行でポルトガルを訪れた際、食べたお菓子にちなんでいる。母は妊娠を諦めていたのだが、そのお菓子を食べたあとに妊娠したので、そのお菓子への感謝の気持ちを忘れないように名前にしたのだそうだ。
優しく、美しく、豊かな黒髪をしていた母は、一昨年亡くなった。父ひとりでは子ども達を育てるのは難しいと、セリカイアはここホワイトバーチへ、弟ふたりは男子の寄宿学校へいれられたのだ。
セリカイアは礼拝堂へ行き、朝の祈りを捧げた。誰に云われたのでもないが、入学以来欠かさずやっていることだ。
父と弟ふたりの、しあわせと安全を願い、母の家族達のあたたかい援助と支援に感謝して、一日をはじめたい。最初は部屋で祈っていたのだが、重さ数千㎏にもなる最低音鐘がついた礼拝堂をセリカイアは愛していて、いつからかそこで祈るのが習慣になったのだ。祈りの途中くらいから、減三度の鐘の音が響きはじめるのも心地いい。
セリカイアは鐘の音を聴きながら祈りを終え、立ち上がった。「セリカイア、おはよう」
「おはようございます、ミス・フライズウェル」
上級生達が這入ってきて、セリカイアは丁寧なお辞儀をした。ミス・フライズウェルは、お父上が爵位を持っている。それだけでなく、ミス・フライズウェル自身は真のレディとでも云うべき、公明正大で陰険なところがなく、朗らかで優しいかただ。セリカイアとは親戚なのだが、礼を失してはならない相手だとセリカイアは考えている。
ミス・フライズウェルは、顔を上げたセリカイアを見て、一瞬きょとんとした。それからくすくす笑う。「あら、あら、セリカイア、またよ。顔にレースの跡がついているわ」
「あ……」
セリカイアは首をすくめ、赤くなって、出入り口へと向かった。ミス・フライズウェルは笑ったことを後悔したのか、申し訳なげに眉を寄せる。「セリカイア、違うのよ」
「失礼いたします、ミス・フライズウェル」
セリカイアはそう云って、礼拝堂を後にした。
亡くなった母は、タティングレースを趣味にしていた。
趣味、という段階ではないかもしれない。数人で一緒になって、本を出す程の腕前だった。セリカイアや、弟達の持ちものにも、母はタティングレースを沢山、縫い付けてくれた。一番下の弟など、お包みはまるでレースで出来ているかのような代物になっていた。母の姉妹が沢山のレースを送ってくれたのもあったのだが、母自身が、子どもが生まれるのを楽しみにして、多くのレースをあんでいたのだ。
母はあまり、体の丈夫なひとではなかった。セリカイアはくわしく知らないし、父も多くは語らないが、セリカイアの前に何人か、子どもを得、しかし流れてしまったらしい。繊細な母は、そのことでかなり、心を摩耗させてしまった。見かねた親戚が、父と母に旅行をすすめ、ポルトガルでセリカイアを授かったのだ。
セリカイアの寝間着には、母があんだレースが沢山、縫い付けてあった。セリカイアは寝相がいいとは云いがたく、その為に、レースに顔をおしつけるようにして寝てしまい、頬にその痕が残ることがよくあった。
母は亡くなる少し前まで、タティングレースを続けていた。セリカイアも教えてもらったが、うまく出来なかった。形見として、母がつかっていた道具をもらったけれど、箱は寮の部屋で埃を被っている。
しばらくぶりに、挑戦してみようか、と思った。
「デブ、ここのところを教えて! 香水を分けてあげるから」
「あたしもこれがわかんないのよ」
「ねえデボラ、オブライエン先生のおっしゃってた詩編のことなんだけどさ……」
デボラが同級生達に群がられているのを、セリカイアは少しはなれたところで、芝生に座り、それを見ている。彼女は膝の上にタティングの道具を出し、苦心して、ダブルステッチをあもうとしていた。左手は云うことを聴かず、人差し指がつったようになってしまっている。
セリカイアがようやくと、三目あんだところで、デボラが歩いてくる。「隣、宜しいですか、お嬢さん」
「どうぞ、お嬢さん」
ふたりはふざけてそう云いあい、デボラはセリカイアの隣に手巾を敷いて座る。セリカイアの手許を覗きこみ、首を傾げる。
「何度見てもよくわからないわね」
「そうでしょう? わかってくれるひとが居て嬉しいわ、デボラ。あなたみたいに賢いひとがこれをわからないっていうのも不思議な話だけれど。母方の女性達はみんな、これを理解できるのと……ああいえ、ひとり、ペギー・アンおばさんだけは、お裁縫は嘘みたいに出来るのに、タティングはわからないんだったわ」
セリカイアは芯糸をひっぱって、動かないのを確認し、うーんと唸った。「ほら、見て。これよ。お母さま、どうしてこんなことを出来てたんだろう? 教えてもらったのに、わたし、わからないままなのよ」
「教えてもらえただけ、あなたって恵まれてると思うわ、セリカイア」
デボラの声が沈んだので、セリカイアは驚いて、親友を見た。デボラは常になく、険しい表情をうかべている。セリカイアは戸惑った声を出す。
「デブ? なにか気に触った?」
「わたしのお母さまなら、ご自分がなにをしていようと教えてくれないってことよ。ご両親だけでなく、親戚からも可愛がられていて、あなたのことが羨ましい」
デボラは小さく云ってから、ごまかすように微笑んだ。「あらあら、ごめんなさい、変なことを云ったわね。どうでもいいのよ。ここでこうして、好きな本を読んでいられるわたしも、相対的には恵まれているのだし。セリカイア、そうだわ、あなた、理事長先生に訊ねたら? あのかた、タティングレースを愛好しているって、聴いたことがあるわ」
「デボラ……デボラ・フェズントのこと?」
「はい、理事長先生」
理事長室で、セリカイアは行儀よく、ソファに腰掛けていた。
理事長はぴっちりとなでつけ、しっかりまとめた髪へ軽く触れ、手にしたシャトルをすばやく動かす。なにがどうしたらそうなるのかわからないのだが、理事長は実に器用にレースをあんでいた。あっという間に、ドレスの袖口に縫い付けたら素敵だろう、繊細なエジングが出来ていく。
「彼女が、どうかしたんですか、セリカイア」
「はい。わたし、彼女とは同じ部屋で、親しくしてきたつもりです」
理事長が手許を見ずに、自分を見て頷いたので、セリカイアは度肝をぬかれた。なにも見ないでどうしてあんなことができるの?
目を白黒させるセリカイアは、それでもなんとか続きを云う。
「あの……ですから、彼女とはいろいろ、話してきたんです。お互いのことを。いえ、話してきたつもりで、でも、そういえば彼女はほとんど、両親のことを話さないなって気付いて……お兄さんや、弟のことは話してくれるんですけど、お父さまやお母さまのことは全然で。もしかしたらわたし、今まで無神経だったのかしらって、心配になってしまって」
「それは、あなたが心配すべきこと?」
云ったのは、理事長ではない。理事長の秘書だ。こちらもやはり手許を見ることなく、すばやく繕いものをしている。
「デボラ・フェズントがあなたに、親の話をされたくないと云ったなら、あなたは配慮すればいいでしょう。でも、彼女からなにか云われた訳でもないし、あなたが彼女に訊いたのでもない。それなら、気にしなくてもいいのじゃないかしら」
「でも……」
「でも、気になるのね」
理事長が苦笑した。それがどういう意味の苦笑か、セリカイアにはわからない。
理事長は一度、手を停め、数秒考えて、また手を動かした。
「セリカイア?」
「はい、理事長先生」
「デボラ・フェズントのことを、安易にあなたに教えることは出来ません」
セリカイアは口を噤む。
デボラが家族のことについて、今までにない反応をしたから、なにかあったのか知りたかった。けれど、デボラ本人に面と向かって訊く勇気がなくて、こうやって理事長室までやってきた。理事長に教えてもらおうとセリカイアが考えていたのを、相手はお見通しだったらしい。
理事長が低声でなにか云い、秘書がすぐに、お茶とお菓子を運んできてくれた。クリスタルジンジャーがきらきらしている。
「でも、あなたが彼女に訊けば、案外、教えてくれるのじゃないかしら」
「……そうでしょうか」
「あなたが友人を心配する、優しい気持ちは、彼女自身にも伝わると思いますよ。彼女がそれをはねつけるなら、それは仕方のないことだわ。ひとには触れられたくない、大切なものというのはあるの。それを好きとか、きらいとかではなくて、自分ひとりで大切に抱えていこうと考えることはね」
理事長はかすかに目を伏せた。寸の間あって、男っぽい、きりりとした整った顔が、セリカイアをまっすぐに見た。理事長はゆっくりと頷く。
「彼女があなたの気持ちを受け容れても、それでも話したくないということもあるでしょう。でもねセリカイア、友人を心配しているという気持ちをあらわすのは、はずかしいことでもいけないことでもないでしょう? デボラがどうするかを気にせずに、あなたのことを心配していると伝えるのはどうかしら。それともあなたは、デボラへそれを伝えるのが、はずかしいの?」
デボラは手巾をくしゃくしゃにして泣いている。セリカイアは弱っていた。
理事長の助言と、あたたかいお茶とで気持ちが解れたセリカイアは、消灯時間の少し前に、デボラに気持ちを伝えたのだ。なにか困っていたり、なやんでいたりするのなら、相談してほしい。元気がないよううだったから、心配している、あなたの力になりたい……そんなようなことを云っただけだった。自分の口下手にいやな気持ちになったが、デボラはセリカイアが語尾を消えさせると、途端に泣きはじめた。そして、手巾をひきちぎらんばかりにして、しかし静かに泣き続けている。
「ねえ、デボラ……」
「ありがとう、セリカイア」
デボラは手巾に顔を埋め、肩を震わせた。「わたし、母親に捨てられたの」
「なんですって?」
デボラはいやいやをし、ベッドへ突っ伏した。
デボラは兄と、弟ふたりが居る。彼女はずっと、家庭で疎外感を覚えていたが、自分が女だからだと思っていた。母親がどうも、自分によそよそしく、つめたいような気がしていたのだそうだ。
つい何日か前、内務省に勤める兄から手紙が来た。その手紙に関しては、セリカイアも覚えていた。お兄さまから久し振りにお手紙が届いたと、デボラが嬉しそうに話していたからだ。
その手紙についてでボラが喋らなかったので、少し気になってはいたが、それに信じられないようなことが書いてあったのだという。
「わたしとお兄さまは、弟達とは母親が違うのですって。お兄さまもずっと知らなかったそうなの。そして、わたし達の血のつながった母親は、今は、再婚してギリシャに居るって、お父さまが云ったらしいわ」
「デボラ、まあ」
「わたし達は実の母親に捨てられたのよ」
セリカイアはデボラのせなかを撫でる。デボラは手巾に顔を埋め、嗚咽した。
しばらくすると、デボラは落ち着いたようで、息を整え咳をした。セリカイアは云う。「デボラ、わたしになにか出来ることはある?」
「ううん、セリカイア」
デボラの言葉に、セリカイアは落胆した。けれど、デボラは続ける。「話を聴いてもらっただけで充分、気分が軽くなったわ。あなたに、わたしの憂鬱な気持ちをおしつけて申し訳ないけれど、ありがとう、セリカイア……」
「また、相談ですか、セリカイア」
理事長は面白そうに、セリカイアを見た。セリカイアは項垂れている。
理事長が秘書に低声でなにか云い、秘書がお茶を持ってきた。セリカイアは顔を上げる。「デボラに、なにかしてあげたいんです。理事長先生。だから、タティングを教えてもらえませんか? お母さまが、わたしにくれたみたいに、デボラにレースをあげたいから」
セリカイアがかすかに震える声でそう云うと、理事長は微笑んで頷いた。
「ごめんね。わたし、不器用で、お母さまみたいに出来なくて」
セリカイアがもごもごと云うのに、デボラは頭を振る。彼女は唇を震わせて、喋った。
「いいえ、セリカイア。ありがとう。とても、うれしい」デボラの目に涙がきらきらと光っている。「こんなこと、してもらったことはないわ……」
デボラはセリカイアが苦労してつくったレースを、大切そうに両手で持っている。正直、あまりできのよいものではない。ピコットの大きさを揃えるのがうまくいかなかったので、理事長が教えてくれたそのままをつくることは出来ていない。ピコットはほとんどなくしてしまった。
それでも、デボラはそのレースを、嬉しそうに握りしめている。「これ……袖につけてもいい?」
「いいの? あまり、綺麗なものじゃないのに」
「綺麗よ、とても。とても素敵」
デボラは目許をささっと拭う。「ねえ、セリカイア、無理を云ってもいい? もう少しこれをつくって。あなたも同じものをつけてよ」
「デボラ、あなたの力になりたいとは云ったけれど、友達ならわたしの負担も考えてよ」
冗談めかして云うと、デボラはくすくすと笑った。笑い声は次第に、泣き声にかわっていく。ありがとうと云いながら泣くデボラと一緒に、セリカイアもほんの少しだけ涙を流した。
堅信礼が近付いてきたその日、理事長室に、セリカイアは居た。理事長はセリカイアをソファへ座らせ、シャトルを動かしていたが、手を停めてセリカイアを見た。
「セリカイア。あなたに話しておきたいことがあるの」
「はい、理事長先生」
理事長ははさみをつかって糸を切ると、レース針をとりあげ、糸始末をはじめた。糸始末がどれだけ大変かは、やったことのあるセリカイアにはわかる。
セリカイアは姿勢を正し、袖に軽く触れた。そこには、あれから苦心してあんだレースを縫い付けてある。デボラとお揃いのものだ。
理事長はせわしなくレース針を動かしながら、悔やむような声を出す。
「あなたのお母さまは、堅信礼をしていませんでした」
「そうなんですか?」
驚いてきき返すと、理事長は険しい表情で頷く。手を停め、レース針を置く。
「申し訳ないことだったわ。本当に。彼女には信仰を揺るがせるものが多すぎました。彼女を責めないであげて、セリカイア」
セリカイアがなにも云えないでいると、理事長は席を立ち、セリカイアの隣へ移動した。彼女は手に、レースで出来た十字架を持っている。
「これをあなたに。あなたのお母さまの編み図よ」
「……理事長先生」
「わたしはあなたのお母さまになにもしてあげられなかった。わたしが身代わりになれたらどれだけよかっただろうと、今でも思います」
理事長が優しく、セリカイアの手に十字架を持たせた。彼女の目には涙が溜まっている。「あなたを生むことが出来て、あの子は信仰心をとりもどした。あなたはお母さまを、神の国へ近付けたの。堅信礼をしてはいなかったけれど、あの子は主を信じていました。あなたを遣わしてくださった主を」
理事長はセリカイアの肩を抱いて、やわらかく叩いた。
「あの子は今も、あなたと一緒に居るのよ、セリカイア・ホーク」
セリカイアは、母の姉である理事長の手を掴み、しばらく目を閉じていた。そうして、母のことを思い出していた。母と、今も子ども三人の為に、海外で仕事をしている父のアリステアのことを。
「セリカイアは、ショックをうけなかった?」
「わからないわ」
シャトルを動かしながら、フィリパは夫の質問に答えた。左脚を投げ出して座っている夫は、顔を背け、その表情は見えない。
「でも、エレンがあの子のおかげで、信仰をとりもどしたのは事実よ」
「……そうか」
夫はフィリパを見る。「君はどう? お嬢さん」
昔のように云う夫に、フィリパは苦く笑って、頭を振った。どれだけ時間が経っても、妹に先立たれた痛みは消えない。
セリカイアは心に曇りなく、堅信礼を出来ただろうか。
セリカイアの十字架
シャトルをふたつつかう。糸がつながった状態ではじめられる。
上のブロック、まんなかのブロック、向かって右のブロック、下のブロック(ほかのブロックの二倍の大きさ)、向かって左のブロックがあるが、一筆書きのようにしてつくっていく。
A:8◦8
B:ひっくり返してチェイン 12
C:8 Aのピコとジョイント 8
D:ひっくり返してチェイン 10 ジョセフィンノット(8) 10
C、B、C
ここまでで十字架の上部が出来る。
続いてA、もう一度Aをあむ。
E:ひっくり返してチェイン 14
C、D、C、E、C
これで向かって右が出来る。
Cをあんで、上のブロックの下につくったAとつなげる。
A、E、Cで下のブロックの向かって右上半分。更に下へ向かってA、E、Cと続け、
F:8 左手にかかっている糸のシャトルでリングで24 8
C、E、Cで下のブロックの下半分が出来る。下ブロックの上半分にC、E、Cで向かって左半分をつくる。
Cで中心ブロックのAにジョイントしてから向かって左ブロック(向かって右ブロックと同様)をつくり、最後にCで中心ブロックのAとジョイントし、一番最初のAとシャトルつなぎしてから糸を切り、始末する。