ななつ目――使い途がないもの
子爵はフィリパの手をぎゅっと握る。彼女の左手を。そうして、母親から顔を背ける。
「お嬢さん、返事は?」
「バーソロミュー!」
彼の名前はバーソロミューというのだわ。
フィリパは喘ぐ。あの女、というのは、どういう意味だろう。あの女性、子爵の母である女性と、自分の母とに、なにか関わりが? そんなばかな話があるだろうか?
子爵の母親はおおいに気分を害したらしい。自分を無視した息子を睨みつけ、手にした扇を握りしめた。扇の骨がぎしぎしと音をたてる。
「お嬢さん、返事は」
フィリパは動くことができない。彼を窮地へ追いやるつもりはないが、断れば彼は傷付く。
フィリパの返事は、次の瞬間先延ばしになった。彼の母親が胸をおさえてうずくまったからだ。付き添いの女性達がその腕を抱え、騒ぎながら外へと運び出していく。「ぼっちゃま」
ミセス・バーリーが子どもへ云うみたいに呼びかけ、子爵ははっとして、母親が出て行ったほうを見る。ミセス・バーリーも廊下へ飛びだした。
「行ってあげて」
フィリパの抑えた声に、子爵はまじまじと彼女を見る。「お嬢さん?」
「お母さまの傍に居てあげて」
「僕が居る必要はない。彼女には娘も居るのだから。僕の妹がね」
「いいから、あなたの母親の傍についていて。お願い」
フィリパは目を逸らし、子爵はしばらくその場にたたずんでいたが、重い足取りで出て行った。
*
テントゥガルは両親の大陸旅行中に生まれた。どうせなら花の都か、神々の名を冠した都市が多くあるギリシャで生まれてくれたらよかったのにと、母はよくこぼしていた。もしくはフランスがよかった、と。そう云うと、かならず父が、戦争の原因をつくるつもりか、と茶化すのだけれど。
テントゥガルはその年、社交デビューすると決まっていた。ロンドンへ出て、陛下へ謁見し、いけ好かない貴族達の間へ放り込まれるのだ。自分自身も貴族であるのに、彼女は自分とそれ以外の貴族とを明確に線引きしていた。いや、兄もこちらへいれてやっていいかもしれない。美しいのに変わり者の兄、生まれついて脚をひきずる兄を。
彼女はまだ、婚約も決まっていないし――そもそも結婚の意思がないのだが、両親はそれに耳を貸さない――、ロンドンへ出せばテントゥガルの嘆かわしい詩人かぶれがどうにかなると、両親も祖母も考えていた。
結果として、テントゥガルの詩狂いは酷くなった。ロンドンには新進気鋭の詩人達が多く集い、社交場には彼ら彼女らがかならず居て、ところ構わず訳のわからない詩を朗読するからだ。テントゥガルはそれに夢中になり、母親にねだって各社交場のチケットを入手した。母親は、不愉快な詩の朗読会へ金をつぎ込んでいるとは知らず、娘が若武者や若君達を見て気分を変えたのだと思っていた。
テントゥガルは結婚などしたくなかった。なにが哀しくて、毎日頭痛だのなんだのになやまされないといけないのだろう! 不思議なことに、女というのは結婚した途端に体調不良を発症し、それは年々酷くなるらしい。祖母にしても母にしても、頭が痛いだの胸が痛いだのと年中騒いでいる。
*
「フィリパ、姉さん」
「ジュール」
まずジュリアンが、それからエドガーが這入ってきて、姉の手を握りしめた。ジュリアンはアドニスのような顔をゆがめている。
「ごめんよ。余計なことをしたのかな、俺」
「あなたはいつだって余計なことをしているじゃない」フィリパは無理に笑いながら云う。「今更よ、悪い子ちゃん」
疲れたから休むわ、と云おうとして、フィリパは眩暈を覚え、その場に膝をついた。
「気分は?」
「まあまあかしら」
フィリパは窓辺に置いた椅子へ腰掛け、膝にタティングの道具をひろげていた。傍らにはジュリアンが膝をつき、姉の様子をうかがっている。
「サイ卿を呼ぼうか」
「いいえ。それよりも、ジュリアン、あなたの謹慎はまだ解けないの?」
「まだだよ。姉さんが元気にならないと、一生解けないかもしれない」
フィリパは弟を軽く睨み、それから笑う。声がむなしく響いた。
前日、子爵の……彼の母親とその付添達に襲撃されたウィロウ邸は、すでに平穏をとりもどしたように見えた。使用人達は口を噤み、子ども達は格別、いい子になったようで、口論も起こらない。
フィリパ自身は、朝はやくに食事の用意やなにかをすませてしまうと、自分は水を一杯飲んだだけで部屋へひっこんだ。そしてついさっき、阿片チンキをほんの少し舐めたところだ。おかげでだいぶ気分はやわらいだが、考えはまとまらない。
子爵の言葉が耳の裏に居座っている。結婚、結婚、結婚……。
ジュリアンは姉の顔から目を逸らし、今気付いたようにタティングの道具を見た。
「なにをあんでいるの?」
「特に、なに、ということはないのよ。ほんの気晴らしだから」
ジュリアンはそれを、姉が面倒でいいのがれたのだと思ったらしいが、実際のところフィリパはなにも考えずにあんでいた。エジングにするつもりだったが、カーヴがついてしまっているから、なかがすかすかのモチーフになるのだろう。こんなものをなににつかえるの? フィリパ、あなたってなにも考えていないのね。糸の無駄だわ。
ジュリアンは立ち上がり、姉の肩を優しく撫でた。フィリパは窓の外を見る。糸杉がゆうらゆうらと揺れている。
*
だから、テントゥガルが彼と出会ったのは、彼女が詩を愛好していたからだ。
貴族主催のピクニックだと首尾よく母親を騙して、東欧から来たという詩人の朗読会へもぐりこんだ彼女は、世にも滑稽なビーバー帽を見付けた。
ビーバー帽自体は洗練されたものの筈なのだが、それを被っている人間がなにもわかっていない。縁が寝ているし、そもそもつやがない。自分はいやなのに誰かに無理に被せられた、と云わんばかりだった。
それを被っているのが彼だった。軍人然とした厚い胸板に頬髭、凜とした姿勢……それに滑稽なビーバー帽。テントゥガルはもう我慢できず、ふきだして笑ってしまった。
彼はそれに気付いたようで、テントゥガルを振り返った。テントゥガルは慌てて、扇で顔を覆い、襟に真珠を縫い付けたチョークチェリー色のドレスを翻してさっと人波へ逃げ込んだ。詩の仲間達なので、テントゥガルがそのように振る舞っても誰も気にはしない。
だが彼は気にした。だから、テントゥガルを追ってきた。でも、その場では彼はテントゥガルを見失った。
後から、テントゥガルが美しかったからだと彼は云ったが、テントゥガルは信用していない。男のような顔だと何度云われたかしれないから、彼の優しい気遣いに感謝はするけれど、夢を見ようとは思わなかった。
*
あみあがったモチーフを眺め、フィリパは裁縫室へ行き、布へと縫い付けた。ティーコジーくらいにならできるでしょう。なんにせよ、使い途というのはできるものなのね。不思議だわ。わたしみたいに使い途のない人間が居ると思えば、どうにもならないようなモチーフがあみあがると花冠のように見えて、ティーコジーになる。
縫い終わる頃に、エドガーとペギー・アンがやってきた。「今度はあなた達なの、エディ? ペギー・アン?」
「姉さん、少し歩かない?」
フィリパは戸口を振り返る。こまっしゃくれたエドガーは、小さな貴公子のように着飾り、父がつかっていた杖を持っている。それに、バスケットもあった。フィリパが散歩へ出る時にかならず持っていくものだ。
ペギー・アンが控えめにそれを示した。
「サンドウィッチをつくったわ。外でいい空気を沢山吸うのは、体にいいでしょ? 姉さん」
ペギー・アンはフィリパの手からティーコジーや、タティングの道具をとりあげ、バスケットへほうりこんだ。エドガーは左手に杖、右手にバスケットを持って、どう歩いたらいいかわからないみたいだ。せかせか歩いていたかと思うと突然、速度を落とし、フィリパは弟にぶつかりそうになる。
何度もそれを繰り返すので、フィリパは段々と笑いがこみあげてきて、ある瞬間耐えられなくなって笑ってしまった。「エドガー、あなた酔っているの?」
「違うよ、この杖ってやつ、どうしたらいいかわからないんだ」
「それじゃ、どちらか片方をわたしに寄越しなさい」
どう考えてもバスケットを寄越しそうなものなのに、エドガーはたちどまって考え込んだ。フィリパはそれで尚更笑う。
*
自分をみっともないとは思わないが、美人とも思わない。裁縫や楽器などに才能がある訳でもない。
テントゥガルは現実的な女性だった。ロマンスに夢を見てはいなかった。結婚をして、なにかいいことがあるのだろうか?
求婚されたことがない訳ではないが、男には退屈な人間か、おかしな人間しか居ないと、彼女は考えていた。もしくは、自分にある程度の財産があるから寄ってくるのだと。
だが、彼は違った。違うように、彼女には思えた。
彼は貴族の相続人だった。伯父が爵位を持っているという。彼自身は軍人であり、年に数百ポンドの収入があった。伯父が未婚で子どもを得ないまま死ねば爵位を継ぐし、どうやらそれが濃厚らしいというのは社交界の噂だった。彼の伯父は控えめに云って「女性に興味がない」。
彼はあの後、別の社交場でテントゥガルを見付けた。テントゥガルは母親にチケットをねだるのは上手だったが、ドレスについてあれこれ提案するのは苦手だった。完璧なシャリュトリューズ色のドレスは、彼女の顔を必要以上に黄色く見せたのだが、彼女は詩を聴きに来ているのであって結婚相手をさがしているのではない。だから、それは丁度いいのだった。
そしてそれは、彼にとっても丁度よかった。若くはつらつとして、可愛らしいのに、絶望的に似合わない色のドレスを着ているご令嬢をさがせばよかったからだ。
総合的に評価すると、ふたりは似た者同士だった。結婚に興味はなく、家族に云われるままに着飾って出掛け、それなりに集まりを楽しんで帰る。家族には「ええ楽しかったわお母さま、でもどなたも、もう婚約者が居るそうなの」「興味深い集まりでしたよ、お祖母さま、ですがご令嬢達は、わたしのような軍人をとおまきにするばかりで」などといいわけしていればいい。
彼は自分のビーバー帽をくすくす笑ったご令嬢を、そのパーティで見付け出し、首尾よく捕まえると、バルコニーでふたりで話した。アイビーが彼女に覆い被さるようになっていて、彼はそれに何度も微笑んだ。
その後、ふたりはお茶を飲みながら、二時間ほど話し込んだ。後になってテントゥガルは、その時になにを話していたかを思い出せないことに気付いた。彼はなにか面白い話をしてくれたし、自分も詩のことや家族のこと、特に、美しいのに結婚に興味がないらしい兄のことを話したが、具体的な文言は綺麗さっぱり頭のなかからぬけおちている。
お茶がなくなり、彼はテントゥガルに結婚を申し込んだ。
*
「エドガー? どこなの?」
「こっちだよ、姉さん」
エドガーがいちじくの繁みから顔を覗かせる。フィリパは苦笑いしながら、そちらへ向かった。「エドガー」
「そろそろおなかがすいたな。サンドウィッチを食べようよ」
「そうね」
実際、フィリパは少し歩いておなかがすいていたので、こだわりなく頷いた。エドガーは跳びはねるみたいにして歩いていく。「りんごもあるよ、それに、さくらんぼも、いちごも」
「春をありったけ詰め込んだみたいね」
エドガーは追いかけてくる姉を振り返り、くすっと笑った。
「それだけのものを姉さんに渡したいひとが居るんだ」
「え……?」
「やあ、お嬢さん」
垂れ下がったハリエンジュの枝の向こうに、子爵が立っている。フィリパは呆然と、足を停め、エドガーが子爵と親しげに握手するのを見ている。
*
テントゥガルは彼の求婚を受け容れ、彼女の家はにわかに慌ただしくなった。
母親は娘が、詩人を追いかけていてうっかり軍人を捕まえたなど知らず、娘が結婚式に招きたいと云った詩人達を皆、招待することにした。結婚に興味がないらしいテントゥガルの兄も、彼女を祝ってくれた。兄は若い頃に、遠く離れた親戚から爵位を継いだのだが、貴族らしくない人柄だった。良きにつけ悪しきにつけ。それは、兄が脚に軽い障碍を抱えているからだろうとテントゥガルは考えている。
結婚式は退屈しないものになった。新郎側の招待客は少なかったが、テントゥガルの仲間達が詩を読んでくれたのだ。テントゥガルの母親は目を白黒させた。
テントゥガルは持てるだけの持参金を持って、彼の家へ嫁いだ。それとほとんど同時に、彼の伯父が事故で死に、彼は爵位を継いだ。
テントゥガルは彼の邸、オレンジ・ゲージへ居を移した。彼女は女主人としてオレンジ・ゲージをとりしきり、夫を支えた。さいわいなことに彼の家には財産がたっぷりあって、実家のようにこそこそと、娘達で裁縫をするようなことはなくてすんだ。テントゥガルは裁縫だのあみものだのを苦手としていたから、彼の財産に感謝した。
それに、妻が苦労せずにすむように心を砕いてくれる彼にも。
数年が経ち、ロンドンとオレンジ・ゲージを行き来する暮らしにも慣れた頃、長男が生まれた。使用人のなかでもシビルという女性は特に、まるで優しい母のようにテントゥガルを大切に扱ってくれて、初めての出産で不安な彼女をはげましてくれた。テントゥガルはシビルの助力で随分気が楽になったものだ。シビルは字を読めないが聡明な女性で、働き者だった。
長男はうまく這い這いできないようで、夫がそれを心配した。テントゥガルは兄の脚のことを思い出し、ふたりは医者を呼んで長男を診せた。長男は脱臼していた。生まれついてのことらしい。
*
エドガーは小川にはいって、水を蹴り、遊んでいる。
「ふたりの秘密の場所を、彼に教えてしまった。すまない」
子爵はそう、ささやくように云って、フィリパの手を掴む。フィリパは黙っていた。彼の隣に手巾を敷いて座り、水を蹴っている弟を見て。
子爵はフィリパの手を握ったまま、顔を背ける。
「母が失礼なことを云ったので、怒っているのかい」
「そうかもしれないわ」
フィリパは自分が答えるのを遠くから聴いているような、奇妙な心地を覚えていた。「そうではないかもしれない。わたし、自分がなにを考えているか、よくわからないのよ、あなた」
「それなら、僕がなにを考えているかを聴いてもらえる? 僕は君を愛していて、君と結婚したいし、自分の結婚は母とは関係ないと思ってる。そして、君の弟や妹に協力してもらって、この場を設けた。君と会いたいと頼み込んだんだ」
「何故?」
それはすべての意味合いを含んでいた。そして子爵にはそれがわかった。彼はフィリパへ顔を向け、もどかしそうに云う。
「何故? 何故、僕の求婚を受け容れてくれないかを教えてくれるなら、なんだって話すよ」
「わたしとあなたとでは階級が違うわ」
「どうしてそれが問題になる」
「あなたの親族がわたしを認めない」
「そんなやつらは……殺してしまえばいい!」
彼は激しい調子で云い、ぱっと顔をおおってしまった。「あなた? 子爵さま?」
「僕はこういう、自分の乱暴なところがきらいなんだ」
「男のひとは、そういうものを誇っていると思っていたわ」
「僕が誇っているのは、正直なところだよ」
しばしの沈黙の後、彼は唐突に立ち上がると、エドガーの傍へ歩いていった。フィリパからはその顔は見えない。「エドガー、少しだけ席を外してもらえるかな?」
「はい、子爵さま」
エドガーは素直に応じ、糸杉の向こうへと歩いていった。
子爵が戻ってくる。彼は懐に手をさしいれ、なにかをとりだした。フィリパがおそれているような正体不明のなにかではなくて、それは紙切れだった。
「お嬢さん、僕は正直ではなかった」
「あなた……?」
「君に誤解されたくない。そして、母は誤解している。彼女は父を信じるべきだった」
子爵は苦労して座りこみ、フィリパにそれをさしだした。フィリパはそれを手にとった。
それは手紙だった。
*
ふたりめの子は死んでしまった。
テントゥガルはそのことに酷くショックをうけ、医者に云われて静養へ向かった。夫と医者と相談した、兄と一緒に、酷く不愉快なバースへ。
テントゥガルはそこで半年すごし、多少は元気をとりもどした。バースの温泉はまずいが、ほかの場所の水がとりたてておいしい訳でもないので、それは気にならなかった。いやなのはあの町の汚いのと、集まっている人間の不愉快さだ。
テントゥガルがオレンジ・ゲージへ戻ると、夫はテントゥガルが居ない間に隣家と付き合いをするようになっていた。ウィロウ邸の一家と。
*
フィリパは顔を上げる。
「これはなんなの」
苦労して出した声は酷く震え、掠れていた。子爵は頭を振る。
「ど……どういうこと? まさか」
「違う。父はなにも疚しいことはしていない。そういうひとじゃないんだ。これは僕だけの意見じゃない。妹も同じ意見だった。だから今、彼女は母の気をひいて、僕を自由にしてくれてる」
フィリパは同様のまま、子爵を見詰める。
「では……あなたがわたしによくしてくれたのは、このためだったのね?」
彼女は手紙を振った。それは、子爵の父親のものだった。長男のバーソロミューに、ウィロウ邸の子ども達のことを頼んでいる。
*
テントゥガルはウィロウ邸の一家をきらっていた。
ウィロウ邸の女主人がきらいだった。
それはひとえに、テントゥガル自身に端を発する問題だった。
テントゥガルは裁縫やあみものを苦手にしていた。
しかし、ウィロウ邸の女主人は、レースあみで有名だった。
そして、妖精のような、小さくて可愛らしいひとだった。
夫が彼女をどのように思っているのかあきらかだと、テントゥガルは考えた。
そして、足が不自由な子を産んだ自分をどう思っているかも。
テントゥガルは兄に相談し、兄はテントゥガルを慰めてくれた。
子どもがもうひとりできれば彼も考えをあらためるかもしれない。
*
フィリパは息を整える。
「でもどうしてなの? 何故? 何故、単に隣り合っているというだけの家の子ども達を、気にかけるの」
「父の話をしたことはあったかな?」
「少し……」
ほんの少しだ。伯父の爵位を継ぎ、この村へやってきて、ロンドンと行き来する生活だった。そして、子爵、バーソロミューがまだ寄宿学校に居る頃に亡くなった。
子爵は頷く。
「父は、あまり……家庭に恵まれたひとではなかった。生まれてすぐに、両親が死んでしまい、母方の祖父母にひきとられたんだが、物心つくかどうかでもう寄宿学校へやられた。随分、厳しいところだったようで、その頃の話は誰にもしようとしないし、同窓生にも会いたがらなかった」
フィリパには想像もできない世界だ。だから彼女は、黙ってそれを聴いている。
「母と会って、彼女を愛すようになって、父は変われた。自分でそう云っていたんだ。僕はそれを聴いた。そして、母と家庭を築いた。けれど、父は家庭というものを理解しているという自信がなかった」
「どういう意味?」
「自分が一般的な家庭というものを知らないと思っていたんだよ。自分は妻をしあわせにできているか、子どもをきちんと愛せているか、なににつけ自信がなかった。僕の下に生まれた子はすぐに死んでしまって、母は、父から見ると驚くほどにショックをうけて、しばらく寝込んだ。そして、静養の為に温泉地へ行った。父はなやみを深くしたんだ。自分が彼女をきちんと愛せていなかったから、彼女がそれだけショックをうけたと思った。そんな時に、丁度ウィロウ邸で、君が生まれた」
「わたしが?」
「ああ」
子爵は頷き、フィリパの手を掴む。「君のご両親は、いいかた達だったらしいね? 少なくとも子どもを放っておくようなひと達ではなかった。父は何度も見たんだそうだ。君の父親が、赤ん坊の君を抱いて、庭を歩きまわり、あやしているのを。ウィロウ邸の庭は、昔はもっとよく見えたらしい。木が今よりも少なかったから」
「そんなことを話したの? あなたのお父さまが、あなたに」
「いや。妹が聴いていた。死の床にある父が、うわごとのように話すのをね。僕は知らなかった。そして僕は、去年たまたま、それを見付けた。母が捨てられずに隠していたそれを。だから僕は、ここへ来たんだ。そして君と出会った」
フィリパはしばらく、息を停めていたが、はーっと吐き出した。
「では……わたしへ求婚したのは、困窮しているわたし達を助ける為? お父さまの遺言をかなえる為なのね?」
「違う」彼は頭を振る。「そう云う誤解をされるのがいやだったから、今日まで話せなかった」
「でも」
「本当のことを云う。僕は少しだけ、父を疑っていた。君の母上に対してよからぬ思いを抱いていたのではないかと。でも誤解だとわかった。母は、父が家庭的な女性に惹かれたように勘違いしているが、レースあみが得意なのは君のお祖母さまだったんだろう?」
「え、ええ」
「君のお祖母さまを侮辱するつもりはないが、父は若い頃に祖母に相当……厳しくいろいろと云われたみたいで、その年代の女性は苦手にしていたんだ。だから、君のお祖母さまになにかしようとしていたってことはないと思う」
フィリパは、彼がいたずらっぽく笑っているので、我慢できずに微笑んだ。冒瀆的なひとなのに。
子爵は満足げに頷く。
「そして、勿論、父は母を愛していたんだ。だが不器用なひとだった。一所懸命だったけれど、自分をうまく愛してくれたひとが居ないのに、どうやって上手に愛情を表現できるだろう? 彼にとって、愛情のあらわしかたを少しでも教えてくれた、君のご両親は、恩人だった。だから、恩人の子どもである君達を頼むと、僕に手紙を残したんだ。哀しいことに、母はそれで更に誤解してしまった」
*
テントゥガルは娘を授かり、オレンジ・ゲージとロンドンを行き来する生活はいやだと夫に云った。夫はロンドンに一年通して住める家を用意してくれた。
スプールズヒル村から離れて、テントゥガルは安心していた。
長男は寄宿学校へはいり、なにも悪いことなんて起こらないと思っていたのに、夫が病に倒れた。
夫が手紙を書き、娘に渡したことはテントゥガルは知っていた。長男へ渡すようにと。
テントゥガルはそれを、娘からとりあげた。自分がバーソロミューへ渡しておくと云って。そして中身を見た。夫は自分が死に瀕しているのに、ウィロウ邸の子ども達を心配していた。あの女の子ども達を。
テントゥガルは手紙を隠した。夫の書いた文字だから捨てられなかった。
それからは何事もなくすごしていたのに、バーソロミューがあの女の娘をつれてきた。
テントゥガルは娘を見ていた。あの女と同じく、レースあみを得意としている娘。女にしては背が高く、きつそうな目許をしている。帽子からはみだした髪は黒く、くるっとまいていた。母親とは似ていないが、美人だ。
「バーソロミュー」
「お母さん、僕は彼女と結婚する」
*
フィリパは目を伏せていた。
自分の気持ちをあらためて見詰め直したのだ。彼と結婚したいか? ええ。自分は彼に相応しい? いいえ。
では、彼が自分以外と結婚したら、我慢できる?
できる訳がない。それに気付いてしまったら、もうだめだった。子爵もフィリパの気持ちをわかって、今度は一切退かなかった。最初こそ、父の遺言をたしかめる目的でここへ来たが、その後はどうでもよくなったと云った。君を好きになったと。
だからフィリパは承諾した。そして、お隣のお邸、オレンジ・ゲージを訪れている。バスケットを持ったまま。
子爵の母は、傍らの娘に手を伸ばし、ぎゅっと不安そうにその腕を掴んだ。娘が云う。「お母さま、お兄さまがここまで云うのよ。その気持ちを考えてあげて」
「どれだけごねようと、わたしは賛成しません」
「お母さん」
「失礼いたします!」
場違いに大きな声がして、使用人達がやってきた。その先頭は、ミセス・バーリーだ。
子爵の母の顔付きがやわらかくなった。「ミセス・バーリー、どうかしたの?」
「奥さま、大切なことをお伝えしないといけません」ミセス・バーリーは声を低め、頭を下げる。「わたくしは奥さまに嘘を吐きました。ですので、おいとまを戴きたく」
「なんですって?!」
子爵の母は戸惑ったようだ。ミセス・バーリーは淡々と続ける。
「去年のビールはわたくしひとりで仕込んだものではございません。体が思ったようにならず、多くの部分を別の者に任せました」
「ま、まあ。ああ、それくらいのことなの。そんなのなんでもないわ。ミセス・バーリー、あなたにいとまを出す理由にはなりません。第一、わたくしには権限はないわ」
ミセス・バーリーは頭を振る。
「しかし、ビールの褒美を戴きました。わたくしは嘘を吐いて、褒美をもらったのです」
「ええ、ええ。だったらその、あなたと一緒にビールを造ったという者にも、褒美をあげましょう。それならいいでしょう? あなただってビールを造るのに関わったのだし、その子にも褒美をあげれば平等だわ」
「本当ですか? わたくしは、とても立派な聖書を戴きましたが」
子爵の母はあっさり頷いた。彼女にとってミセス・バーリーは、子爵家に嫁いだ時から骨身を惜しまずに働いてくれた大切な使用人だ。子どもがうまれた頃には特に親身になって助けてくれた。単なる女主人と使用人という関係ではない。こんなところで失う訳にはいかない。
だから子爵の母は云った。
「ええ、いいわ」
「その子は優しくて、多くの作業をわたくしにかわってやってくれました。控えめな子なので、褒美を戴けるとわかっても自分がほしいものを云えないでしょう。ですから、わたくしが決めても?」
「かまいません」
「そう誓って戴けますか」
子爵の母は、唐突に出てきた誓いという言葉をちょっと不審に思ったものの、頷いた。彼女はミセス・バーリーを信頼しているのだ。そして、ミセス・バーリーがそこまで誉めるのだから、手伝いをしたという子はいい子なのだろう、とも思った。
「かまわないわ。あなたの判断なら間違いないでしょう。聖書でもなんでも、その子が喜びそうなものを云いなさい。なんだって用意すると誓うわ。勿論、わたくしが用意できるものに限るけれど」
「これは驚いたな、ミセス・バーリー!」
こらえきれないみたいに、子爵が笑い出す。「前代未聞だ! ビールの褒美に下げ渡される子爵など、聴いたこともない!」
「なに? なにを云っているの、バーソロミュー?」
子爵の母は、テントゥガルは、信頼できる使用人を見た。彼女が嫁いで以来、陰日向に支えてくれた使用人を。
「シビル?」
うろたえる彼女へ、ミセス・バーリーはにっこりして頷いた。「奥さま、お優しいフィリパさまに、ぼっちゃまをくださいませ……」
使い途のないモチーフ
シャトルに糸を巻き付け、糸玉とつないだままであみはじめる。
A:リング 2◦2◦2◦2◦2◦2◦2◦2
B:ひっくり返してチェイン 4◦4◦4◦4
C:戻してリング 6◦3◦3
D:そのままリングをあみ、途中でCとピコつなぎする 3J3◦6
A・B・C・D・B・A・B・C・D・B……と繰り返し、Aを12個あんだら次のDを最初のAとつなぐ。最後にBをあんで、最初のAにシャトルつなぎし、カットして糸始末する。
キルティング布に縫い付けたものを二枚用意し、ジッパーをつけて縫い合わせると、小銭いれになる。




