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回想――最初の輪




 その日、フィリパは祖母が、シルクの編み糸を嬉しそうにシャトルへまきつけているのを見た。

 フィリパが祖母へ――彼女が座っている、庭にある気持ちのいいあずまやの、そのなかにある椅子の傍へ近寄っていくと、祖母はフィリパの影に気付いて顔を上げた。

 祖母の膝には、遠くの町から運ばれてきた本が置いてある。「フィリパ、あなたもやってみる? ねえ、この本はとてもいいものなのよ」

 祖母が、アジアのどこかの国に生えているという、丈夫な木でできたシャトルをとりあげた。フィリパは頷いて、祖母の隣へ座った。シルクの編み糸はきらきらと、きらめいていた。




 祖母はフィリパにシャトルを持たせた。

 まず、リングをあむ。23◦7。ひっくり返して、チェインをあむ。16。

「ここからが凄いのよ」

 フィリパが顔を上げると、祖母は楽しそうに微笑んだ。フィリパは茫洋とした感情でそれを見ている。彼女の頭には、左手にひっかかっているシルクの糸が気持ちいい、ということと、そろそろ自分の弟か妹が生まれるかもしれない、ということと、お父さんがお仕事で遠くへ行っているのが不安、というのと、その他雑多な諸々が入り交じって、奇妙なダンスを踊っていた。

 祖母は、フィリパが七目あんだリングに、不思議なことをした。前のリングのピコットにレース針を通し、左手にかかっている糸をひっかけてひきだすと、それにシャトルを通したのだ。糸を適度にひっぱって、続きをあむ。

 フィリパは不思議な気分で、自分の手を見ていた。これはなんなんだろう? こんなことはしたことがない。

 祖母は楽しそうに喋っている。膝の上の本を軽く叩く。

「こんなに素晴らしいことを思い付くなんて、このひとは天才だわ」

 フィリパは意味もわからず頷いていた。

 誰かが叫んでいる。「奥さま! 奥さま――」




 はっと目を覚まし、フィリパはベッドを飛び降りた。

 彼女は顔を乱暴に拭うと、化粧着をひっ掴んで羽織った。眠ることはもうできない。あの記憶。エレンが生まれた日のことだ。

 息苦しさを感じて窓辺へ向かった。窓を開け、夜風にあたる。

 フィリパは窓敷居に手をついて、雲が多い空を見た。切れ切れに星が見える。月は出ていない。


 あのエジングは、どうしたのだろう? 思い出そうとしてもできなかった。レースあみの道具をまとめた箱には、あれはなかった。だからきっと、祖母が続きをあんで仕上げ、誰かの袖か襟に縫い付けられたのだろう。

 いつも、隠れて祖母に教わっていた。本当に少しの時間だけ。だから簡単な技法しか知らないし、祖母があんでいた繊細なドイリーやエジングがどのようにつくられていたか、フィリパは曖昧にしか覚えていない。()()()()知らない、と云ったほうがいい。

 お祖母さま、いいの? ほんとにいいの? そんなふうに何度も何度も祖母へ訊いて、あんでいった。こっそりと。父にも母にも見付からないように。ふたりはフィリパがタティングをするのをいやがった。だから、あの後タティングをやらなかった。母が満足するように裁縫をしていた。まっすぐに縫えない、目が揃わない、忌々しい裁縫を。

 皮肉なことに、タティングをしていても叱られなかったペギー・アンには、タティングの機微がわからなかった。堂々と祖母に習うことができたのに、彼女はほとんど習ってもいない裁縫を完璧にこなし、一方でタティングは、ダブルステッチも覚束ない。

 こだわりなく、わたしにタティングをさせてくれていたらよかったのに。


 だが、フィリパはあの後、タティングのことを考える余裕がなかった。母がエレンを出産した時の失敗で、酷く体調を崩したからだ。それでも二年ほどで、体調は持ち直した。昔とは比べられないような弱々しい母ではあったが。大丈夫だと思っていたのに、ガブリエルが彼女の負担になった。フローレンスとフレデリカも。


 フィリパは、そのことで、父に対して密かに怒りを燃やしていた。彼が原因でもあるのだ。それなのに、負担はすべて母にいった。

 溜め息を吐いて、窓を閉めようとし、フィリパは動きを停めた。お隣の庭に、灯が揺らめいている。




 フィリパは灯に誘われる虫のように、気付くと外に出ていた。

 寝間着に化粧着では、寒い。そんなことはわかっていたし、実際寒いのだけれど、フィリパは寒さをあまり感じなかった。彼女はろうそくを左手に持ち、化粧着を右手で掻きあわせ、走っていた。なんだかいやな感じがした。灯がなんなのか、気になって仕方がなかった。

 息を切らしたフィリパは、誰かがすすり泣いているような音を聴いて、足を停めた。

「だれ……?」

 か細い声がする。フィリパは震え上がったが、声の主が誰なのかわかって、はっとした。「まあ、あなたなの?」

 糸杉をまわりこむと、それにせなかを預けて、お隣の子爵が立っていた。彼は泣いているらしい。


 フィリパは足許へろうそくを置いて、そこにランタンがあるのに気付いた。窓から見えたのはこの灯だったのだろう。

 子爵は懐から手巾をとりだして、顔を拭う。「みっともないところを見せたな」

「どうしたの? どこか痛むの……?」

「ああ、まあ」彼は肩をすくめる。「左脚がね」

 フィリパは息をのみ、口を噤んだ。黙って左彼の隣に立つ。

 弟だったら、抱きしめてはげましてあげただろう。フランシスやジュリアンは大きくなったからそんなことはもうさせてくれないが、エドガーやガブリエルは怒らない。子爵さまは?

 そんなことをしていい相手ではない。

 子爵は呻いた。フィリパは彼の左腕を掴む。「ひえたらよくないのでは? 戻ったほうがいいわ」

「それは君もだ」

 フィリパは頭を振る。せめて、彼が落ち着くまで、傍に居てあげたい。

 彼がそれを望んでいるとも思えないが。

「君は……」

 彼は手巾でもう一度顔を拭い、それを仕舞いこんだ。フィリパは彼を見上げる。彼はしっかりとした顎と、綺麗な歯並びを持っていた。今までそれを気にしたことはなかったのに、急にそれが目についた。

 子爵は礼儀正しく、フィリパから目を逸らす。

「君はどうして結婚していないの」

 不躾な質問にフィリパが息を停めると、彼は不明瞭な発音で云い添えた。「率直に云って、おかしなことだと思う。僕のように、脚に問題があるのならまだしも、君はまったく健康じゃないか?」


 フィリパはそっと、彼の腕を撫でている。彼は逃げないが、フィリパを見ることもない。独り言のように云う。

「生まれついてのことさ。何度医者にかかったかわからない。母方に多いんだけれど、僕はそれが酷くてね。度々、脱臼した。十歳になるまでに、少なくとも十回は。それで、十四歳の頃に、テニスをしていて、左脚に体重をかけた瞬間……」

 子爵はふっと笑った。「変な音がしたんだ。脱臼だった。もう何度目かわからないね。でも今度のは()()とわかった。実際違った。医者にかかって、一応治ったことになっているけれど、ご覧の通りだよ」

「なんて……」

「なにも云わないで。どうしようもないんだ。わかってる。これでも、まあ、少し前まではごまかせていたんだけれど、乗馬で無理をしたらしい。それからは、足首や膝まで痛くて、杖がなくては長くは歩けない。腰を下ろしたら立ち上がるのに苦労するし、立ち上がったら座るのに苦労する。そして、たまにそれが、たまらなく情けなくなる。特に、同窓生が元気に将校なんてしているのを見てしまうとね」

 子爵は涙を拭い、フィリパへ微笑みを向けた。「僕が結婚市場で売れ残っている理由はわかった? お嬢さん。足をひきずる男は、爵位を持っていてもだめなんだ」

「そんなことはないわ」

「なら君は、もう少し僕に優しくしてくれなくては。僕の財産や、収入について、興味を持つふりでもしてくれないかな」

「ねえ、ふざけているのじゃないの。あなたはとても魅力のあるひとよ。足をひきずっているのがなんなの? イエスさまなんて手首に穴があいているのよ」

「不遜なことを云う」

 彼はけれど、笑った。その笑い声に、少しだけでも明るいものが含まれていて、フィリパは安堵した。

「わたしの前で無理をしないで頂戴」

 ぽろりとこぼれた本音に、フィリパは自分でうろたえた。なにを云っているのだろう?

 気まずい沈黙があった。フィリパは、子爵に対してあまりに無礼であったと、自分の言動を反省し、彼の左腕をはなした。

 彼は不意に、逃げていこうとしたフィリパの左手を掴む。「お嬢さん、それじゃあ、君も無理はやめなさい。僕の前で、右利きのふりをしなくていい」











 最初のエジング


 A:リング 23◦7

 B:ひっくり返してチェイン 16

 C:リング 7J16◦7


 A、B、Cのあと、BとCを繰り返す。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 鳥肌が……。 だからお裁縫が苦手でタティングが得意だったのか!! 当時の時代背景を考えれば、親も無理やり右利きに強制するのが当たり前と考え、寧ろ得意なタティングは止めて裁縫を(右手で)し…
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