scarlatina
ウィロウ邸にはクリスマス気分は訪れず、新年もあまり華やかなものにはならなかった。
フィリパがようやく床払いした、というのもあるし、彼女と子爵の謎めいた関係について、誰しもが知りたくてはちきれそうなのに、しかし彼女の名誉を重んじて口を噤んでいるからでもあった。
実際のところ、彼はかなりぼかした表現で、ウィロウ邸の使用人、もしくはフィリパの弟妹達の口の端に度々上った。フィリパがそれを聴かなかっただけだし、場合によっては彼女も聴いていたのだが聴かないふりをしていた。また、噂話をしている者達も、フィリパが気付いているかもしれないと思ってもおくびにも出さなかった。
なんにせよ、彼女はうまく子爵との関係を隠していたのだから、噂話に気付いていようがいまいがその素振りは見せないだろうというのが使用人達の心づもりである。また、フィリパは基本的には気前がよく、実に公明正大な女主人であったので、正当な理由に基づいた好奇心に関してはお目こぼししてくれるだろうというのも彼ら彼女らの気持ちであった。
或いは、今月中、もしくは来月、それか再来月、でなくば少なくとも半年後までには、ふたりの婚約が発表されるだろう、という見通しを立てている者も居た。かなり楽観的な見通しではあったが。
そんな邸の情況に、フィリパは居心地の悪さを覚えていた。
彼女は、子爵さま――愛すべき隣人、寛容で気前のいい身分の高い男性の、負担になるつもりはなかった。すでに治療費だとか、数週間の邸の維持費だとかに関して、迷惑をかけているのだが、それには目を瞑った。過ぎたことはどうしようもない。自分がばかなことをし、それを反省しているからって、なにもかも帳消しにできる人間ばかりではない。
フィリパは彼の評判を憂えていた。未婚の・嫁き遅れの・弟と妹を一人前にするのに必死な田舎娘と、なにかしら秘密の関係を持っている、と思われるのは、彼にとって大きな悪評――人生の汚点となるだろう。
フィリパはあれから一切、お隣の庭へ近付いていなかった。これ以上彼の名を汚すつもりはないし、「姉が男性と隠れて会っている」などという話がひろまれば、妹達の結婚にも響いてしまう。
だからフィリパは、どれだけ子爵との会話に飢えていても、なんでもない話に笑う彼の無邪気さを欲していても、自ら動いて会いに行くことはなかった。
しかし、フィリパは応接間で椅子に腰掛け、子爵の隣で項垂れていた。
杖が倒れ、子爵がそれを起こす。彼は従者に、杖をひょいとさしだした。「馬車へ戻しておいてもらえるか」
「はい、旦那さま」
従者はかしこまって杖をうけとり、静かに応接間を出て行く。子爵は脚を組みかえ、膝の上に手を置く。それから、ウィロウ邸の使用人を振り返った。
「お嬢さんがたの喜ぶものを持ってきたのだけれど。厨房に、出してほしいと伝えてもらえないかな?」
「かしこまりました」
使用人達は少々どたばたと出て行った。女主人であるフィリパの指示を仰がずに。
フィリパはそのことに少なからずショックをうけ、口を半開きにした。彼はフィリパを見て、やわらかく微笑む。「さあ、久し振りにふたりで話せるね、お嬢さん」
「あなたは途轍もなく悪知恵が働くのね」
つい、そんな憎まれ口が出てきた。子爵はくすくす笑う。
「これくらいでなくば、子爵などしていられない。ああでも、実際、お嬢さんがたが喜ぶようなものは持ってきたよ。君にも食べてもらいたい」
「あなたは自分がどう見られるか、気にしたことはないの」
「毎日気にしているし、母が僕につけた秘書が週にきっかり二回、忠告をくれるよ。子爵としてきちんとしていろと」
「そのありがたい忠告に従っていないのね」フィリパは大きく二回、頷いた。「だから、週に二回の忠告がなくならない」
「そのとおり」
子爵は尚更笑う。フィリパはもはや、呆れて言葉も出なかった。
あの……子爵が口を滑らせ、フィリパの趣味がタティングであることを知っている、と周囲に報せてしまった時、フィリパはそれでも、なんとかいいつくろおうとしたのだ。まだ脳震盪がよくなっていない頃に、彼とふたりきりになって、タティングをしたいと口走ったかもしれない、と。
双子のフローレンスとフレデリカはそれで納得したけれど、エレンは片眉をつり上げていた。使用人達は――ウィロウ邸の者も、子爵に仕えている幸福な者達も――信用した様子ではなかった。きまずそうに目を逸らし、また咳払いし……フィリパの苦しいいいわけは、そういう反応を引き起こすだけだった。
それでも、誰も追求はしてこない。
当然だ。フィリパひとりの話なら、そして相手が、憎たらしいくらいに隠しごとが上手な弟のフランシスの云うように馬丁や庭師なら、彼らは多いに喋り、喧伝し、またフィリパを問い詰めただろう。眉をひそめる者が大半だろうが、無責任な応援ももらえたかもしれない。
しかし、相手は子爵さまである。放蕩者や、不行跡が目立つ人間ならともかく、子爵さまには悪い話は今までたっていない。少なくとも、ここスプールズヒル村で彼の悪評は流れたことはなかった。というよりも、子爵は軍に伝手があるとか、王室の覚えがめでたいとか、よい評判の立っているひとなのだ。
そのひとが、嫁き遅れの娘とこっそり会っているかもしれない、なんて、噂をすることはできても面と向かってなにかを云うことはできない。
面と向かって云わないだけ、だが。
「僕らは隣人だろ? 今まで親しくしていなかったのがおかしなことでは?」
「あなたには世間体というものはないの」
「あるさ。隣人に対してつめたすぎたと反省してる。だから、親睦を深めようと思ってここまでやってきた。そして君は、軍に行ったフランシスの代わりにここを預かっているエドガーの、補佐役だ。大人同士、しっかりと対話できると思ッたのだけれど。違う?」
フィリパは落ち着かない気分で、ドレスの裾をいじった。
「それは、君がつくったもの?」
「え? ええ、そうよ」
彼はフィリパの袖を示していた。そこには、彼女があんだレースが縫い付けられている。母や祖母のドレスを精々今風に仕立て直したドレスに、妹のペギー・アンが縫い付けてくれた。彼女は縫いものの才能があり、古くさい胴の長いドレスを、なんとか見場のいいものにつくりかえてくれていた。生地自体が洗練されていないのはどうしようもない。
子爵は微笑み、自然にフィリパの袖へ触れる。庭でこっそり会う時には、彼に触れられてもなんとも思わなかったが、ここはウィロウ邸だ。どこからか誰かが見ているかもしれないのに、と思うと、フィリパはぞっとして、手をひっこめる。
子爵は笑みを崩さない。
「失礼」
「本当に」
「酷い云われようだ」
「わたしはあなたのことを考えているの」
「そう?」子爵は面白そうに目を細める。「自分の評判ではなく? お嬢さん」「そんなものは存在しないわ。わたしにどんな評判があるというの。気にするなら、妙な女を姉に持ったという理由で、ペギー・アン達が苦労しないかだけだわ」
「それはありえないね」
「何故」
「君は妙だけど、とても素敵だからだ」
「ねえ……」
フィリパは息を吸い込んで、しかし続きを飲み込んだ。二秒後、使用人がクリスタルジンジャーのはいった皿と紅茶を手に戻り、フィリパは子爵から顔を背けた。
クリスタルジンジャーはおいしかった。子爵はフィリパに、今度はお茶会に来て戴きたい、とかなんとか云い、フィリパは精一杯礼儀正しく応じた。
「あら、あら、まあ」
子爵が帰り、裁縫室でフィリパは途方に暮れていた。普段、ほとんど喋らないペギー・アンが、嬉しそうにさえずっている。「なんて素敵なシャトルなの」
そこには、子爵からの「ささやかな贈りもの」……象牙のシャトルがふたつ、それに糸玉が幾つか、それから小さな容器にはいったビーズがあった。ビーズ!
フィリパは眩暈を感じて椅子へ座った。遅いクリスマスプレゼント、と子爵は楽しそうに云っていた。これだけのものを手にいれるのに幾らかかるのか、フィリパは考えたくもなかった。
エレンがとことこと、裁縫室のなかをはねまわっている。
「よかったわね、姉さん。これで好きなだけあめるわ。もう糸がなくなりそうだったものね」
「エレン、辞めて頂戴」フィリパはこめかみを、指で強くおす。「こんな高価なもの戴けない。返さなくては」
「どうしてよ? 折角戴いたのに」
「どうして? それじゃあ、訊きますけど、どうしてもらえると思うの? 彼はわたし達の家族でも、親戚でもないの。ただ、お隣にお邸があるというだけなのよ」
エレンはくすっとした。「なによ、姉さん。姉さんと子爵さまは、特別親しいじゃない」
「エレン、くだらないことを云わないで」
フィリパがぴしゃりと云うと、エレンは口を噤んだ。不満そうに。
フィリパはそれらを返したかったが、子爵はうまくそれを避けた。最終的に、返すのは失礼だし、子爵の面目が立たない、とフィリパは納得するしかなくなり、ひきさがった。
これは彼にとっては大きな慈善事業のひとつなのだろう、とフィリパは考えた。使用人達もそう考えてくれているのならいいのだが、それは期待できそうになかった。今か今かと婚約発表を待つ顔ばかりだ。それどころか、弁護士までがとおまわしに子爵とのことを訊いてきた。フィリパはうんざりした。
更にうんざりする、気の滅入ることが起こったのは、彼女が仕方なく子爵の招きに応じようとした日だった。
子爵はフィリパだけでなく、ウィロウ邸に居る彼女の弟妹全員をお茶会に招いてくれたのだが、数日前からエレンは頭痛や腹痛を訴えており、その日の朝にちょっと潤んだ目で云った。「姉さん、わたし、今日は寝ているわ。そのほうがいいみたい」
「ええ」
実際、エレンは顔色がよくなかったし、声にも力がなかった。だからフィリパは納得し、頷いた。「そのほうがいいわ。あなた、熱があるのじゃない?」
「それは大丈夫」
エレンは外出しなくてもいいのでほっとしたのか、ふうっと息を吐いた。
ガブリエルとペギー・アンはなにも云わなくても準備をすませたが、エドガーはクラヴァットが汚れたと騒ぎ、双子はペグドールをつれていくとごねた。
フィリパはエドガーのクラヴァットを、汚れが目立たないように結んでやり、双子には後でペグドールにあたらしいエジングをあむと約束し――つまり、子爵の贈りものの糸をつかうことになってしまった。彼女が祖母から受け継いだ糸玉は、もうほとんどなくなっている――、自分の準備にかかった。そこでフィリパは、袖のレースがとれかかっているのに気付き、慌てて裁縫室へ向かった。
裁縫室へ這入ると、そこにはエレンが居て、はっとしてフィリパを見た。
「あらエレン……」
フィリパは目の端に捕らえていた。妹が、部屋の隅にまとめてある型紙の間に、なにかをねじこんだのを。
フィリパはゆっくりと、エレンへ近付いていった。まだお下げのエレンは、それを揺らして足を一歩ひく。ああ、もうそろそろ彼女も髪をアップにしなくては。ペギー・アンのデビューもきちんとしていないのに。今年、この子とペギー・アンのふたりを、どうにか立派な社交場へつれていってやれないだろうか。
そんなことを考えながら、フィリパは左腕を伸ばし、型紙の間にはさまったものをひきぬいた。エレンが小さく悲鳴をあげ、それをとりかえそうとしたが、フィリパはすばやくさがってそれをさせなかった。
フィリパは自分が持っているものを見て、胃がぎゅっと縮こまるような気分になった。それは手紙だった。びっしりと、すきまなく小さな文字が書かれた手紙だ。そして、ぱっと目を向けただけでもわかるくらいの、ラヴレターだった。
「エレン」フィリパはなんとか、声を震えさせないように努めたが、その努力が報われることはなかった。「説明なさい」
「姉さん、フィリパ、違うの」
「説明なさい」
フィリパがはっきりと宣言すると、妹はくびをすくめた。フィリパは震える手で手紙を開き、呻く。「なんてこと」
差出人の名前に見覚えがあった。アリステア・ホーク。少し前に馘にした、弟達の家庭教師だった人物だ。
馘にした理由は、エレンと必要以上に親しくなったから、だった。
「どうやったらこんな無責任なことをできるの」
フィリパは自分が喚くのを訊いていた。エレンは両手で持った手巾をくちゃくちゃにしている。フィリパは手紙を読み上げた。特に彼女が傷付きそうなところを。それをするのを辞められなかった。これだけ、これだけ大事にしてきたのに、この子は自分からそれをぶち壊すつもりなの? 何事もなくいい縁談を得られるようにしてきたのに、どうして弟も妹もわたしの気持ちをわかってくれないの? 勝手に婚約していた者、そして今まさに婚約しようとしている者! 使用人達も酷いわ! 彼女への手紙をわたしから隠して!
「辞めて」エレンが叫んだ。「姉さんにはそんなことをする権利はないわ」
「ありますとも! わたしはあなた達の保護者なのよ」
「それは姉さんじゃないわ。フランシス兄さんよ!」
痛いところを突かれて、フィリパは口を噤む。実際のところ、エレンの云うとおり、正確には妹達の保護者はフランシスだ。フィリパのような女にはたいした権利はない。
フィリパが口を開くと、彼女がなにか云うよりも先に、エレンが恨みっぽく云った。「誰もがわたしのしあわせを邪魔するんだわ! 誰もが! 死神さえもが!」
「エレン」
「お父さまが死んだ時にわたしみたいな子は捨ててしまえばよかったのに!」
フィリパはエレンの腕を掴み、その頬をひっぱたいた。エレンは鋭い目付きで姉を睨む。
「ご自分はどうなの?」
「なんですって?」
「姉さんだって子爵さまと親しくしているじゃないの。あのかたはうちの親族じゃないし、姉さんと婚約をしている訳でもないわ。どうして、わたしが、ホーク先生と……」
エレンは不意に気を失って倒れ、フィリパは息をのんでエレンの体を抱き起こそうとしながら、階下のペギー・アンに助けを求めた。
フィリパはエレンのベッドの傍で、落ち着きなくうろうろしていた。エレンが倒れたのは、自分が彼女を責めたショックで、だと思ったのだが、エレンは気付け薬に反応せず、体がどんどん熱を持っていった。その口のなかをたしかめて、フィリパは即座に弟も妹もその場から追い払い、使用人のなかの数人を厳選してエレンのベッドを整えさせ、自分は妹を背負って運んだ。
それから、全員を部屋からしめだし、サイ卿――お医者さま――の到着を待っている。しばらくは先生の顔を見なくてすむと思ったのに。こんなにはやくに、また会うなんて。
「失礼、お嬢さん」
サイ卿は静かに部屋に這入ってきた。フィリパはもう少しで泣き出すところだった。「サイ卿、ああどうしましょう、エレンが! 猩紅熱なんです!」
サイ卿は訝しげにフィリパを見、かばんを置いた。それから、てきぱきと診察する。
「ふむ」サイ卿はフィリパを振り向いた。「お嬢さんのおっしゃるとおりだ」
フィリパは呻いて、椅子へ座りこんだ。エレンはもう、猩紅熱をしているのに! 二回目の猩紅熱なんておそろしいこと!
サイ卿はなにかをエレンの口へ含ませ、エレンが軽く咳込んだ。
「うつるとよくない。ここに居るべきではないね」
「わたしは猩紅熱をしています」
「ああ、そうか、それで……?」
「はい。舌が……」
フィリパは口を噤んだ。おそろしさに身がすくむ。
サイ卿は、フィリパを追い出すようなことはしなかった。エレンはあっという間に、さっきはまっしろだった顔に赤い発疹を幾つもこしらえている。フィリパは生きた心地がせず、呻くように云う。「サイ卿、エレンはもう、一度猩紅熱をしているんです。それなのに、どうして?」
「運が悪かったと思うしかない。猩紅熱に好かれやすい人間というのが居るんですよ」
フィリパは左手の甲でせわしなく涙を拭う。エレンが一度も猩紅熱をしたことがなければ、彼女はここまで取り乱さなかっただろう。しかし、実際にはエレンは一度、猩紅熱をしているのだ。それなのに、また、こんなに酷い症状をあらわしているのだ。
妹を問い詰めるようなことをしなければよかった、と、大きな後悔が彼女を苛んでいた。それが猩紅熱と関係があるように、フィリパには思えた。
どうしても。
フィリパが猩紅熱をやったことがあるというので、サイ卿は彼女を看病の係に任命した。フィリパはそれをありがたがった。サイ卿がゆるしてくれなくても、エレンの傍に居るつもりだったのだ。
エレンは目を覚まし、なにか云ったが、意味をなさない言葉だった。サイ卿は適切な処置をし、薬を置いて帰っていった。フィリパはペギー・アンとエドガーに、数時間に一回お湯を持ってくることと、暖炉のある部屋をつかえるようすることを命じ、後のことは任せた。
フィリパはろうそくに火を点し、エレンの汗を拭き、下着をかえ、薬を服ませ、空気を新鮮なものにいれかえた。暖炉のある部屋の準備が整い、フィリパは猩紅熱の経験がある使用人達と、エレンをそこまで運んだ。暖炉では火がぱちぱちと音をたてていた。
エレンはまた意識を失い、フィリパはどこが痛いかわからないくらいに体中が痛いような気がしていた。
エレンはたまに目を覚まして、用を足した。フィリパは彼女に、薬とぬるま湯をのませた。なだめすかしてパン粥を食べさせたが、エレンはそれを吐き、クリスタルジンジャーを食べたいとぶつくさこぼした。そして、フィリパがなにもできないでいるうちにまた眠ってしまう。
フィリパは彼女の傍で、眠ることができず、そうしてアリステア・ホークからの手紙を読んだ。彼は、いい稼ぎがあったら君にきちんと結婚を申し込む、とかなんとか、夢みたいなことを書いていた。彼は弁護士なのだ。そして、弁護士が通りにあふれるくらいに存在していることは、フィリパだって知っている。古くからの顧客を親から引き継ぐか、よほど腕がよくなければ、やっていけない。大体彼は、勉強や法律についてのことよりも、クリケットを愛しているらしかった。エドガーやガブリエルにもクリケットを教えて……勉強にならない……エレン、エレン……お祖母さま、助けて。
「お嬢さん」
はっとして目を覚ますと、子爵が居た。
フィリパは立ち上がり、その膝から手紙が落ちた。子爵はちらりとそれを見て、ぎこちなく屈みこみ、拾い上げた。「君は僕以外から、こういう手紙を受けとっているの?」
誰に宛てたものか気付いたらしく、子爵は口を噤んだ。ベッドで寝ているエレンを見、肩をすくめる。
彼は手紙を懐へつっこむと、フィリパを椅子へ座らせ、気付け薬を嗅がせた。フィリパは咳き込み、喘ぐ。彼女はまた、泣いていた。
「お嬢さん?」
「責めたの。エレンを。わたしは見下げ果てた人間だわ」
「そのように云うものじゃない。まだ髪をあげてもいない女性にこういうことを臆面もなく書いて寄越す男にも、おおいに問題はある」
子爵はフィリパの肩を軽く叩き、頷いた。「なにか食べなさい。用意させている。ああ、僕も猩紅熱はしたことがあるから、心配要らないよ。君が少しでも寝られるように、ここに居たいのだけれど、どうかな」
フィリパは、子爵の提案を断れるような状態ではなかった。彼女は頷いて、子爵の手を掴み、子どものように泣きじゃくった。
子爵は落ち着いていたし、おかげでフィリパも、多少は冷静さを取りもどした。子爵に指摘されて、アリステア・ホークの誠実さも、手紙から読みとった。どうやらエレンは駈け落ちをのぞんでいたようだ。アリステアはそれをいやがっていた。みっともないし、お姉さんにたいして不義理だからと。あの家庭教師が道理をわきまえていることにフィリパは安堵した。
エレンはしばらく、病と闘った。フィリパはろくに食事もせず、お茶ばかり飲んでそれを見ていた。傍には子爵が居て、彼女の手を握ってくれていた。フィリパは自分のなかでなにかが崩れ落ち、別のなにかが我が物顔でそこにあたらしく鎮座したのを感じた。
彼女は父親が死んで以来、自分をこのウィロウ邸の女主人として厳しく律し、弟や妹をなんとか立派な人間にしようとしていた。
しかしそれは無駄なことだった。
人間はちっぽけで、あっけなく死ぬ。
立派な人間でも死ぬ時は死ぬのだ。
わたしのような不完全な姉が居て、好きな相手とのことをひきさかれ、エレンはどう思ったのだろう?
エレンがもし死んでしまったら、わたしはどうしたらいいんだろう?
フィリパがおそれていたようなことは起こらなかった。サイ卿はたしかな腕のある医者で、子爵はフィリパに食事をさせる技術を持っていた。
悪夢のような数日が過ぎ、エレンは熱が下がって発疹もほとんど消え、落ち着いた様子でクッションに寄りかかっている。
フィリパはそれを見て、なんとか微笑んでいた。子爵もサイ卿も、姿はない。使用人も、妹も弟も。
「姉さん」
「ええ」
「ごめんなさい」
フィリパは頷いたが、なにも云わなかった。エレンがなにを謝っているのかはわかったつもりだ。そして、謝られたことでとても居心地が悪い。
フィリパは妹の、浮腫んだ顔に手を遣る。猩紅熱を二回やった妹は、手も足も体も、そこかしこが浮腫んでいた。妹が長生きできるかどうかは、これからの養生次第だと、サイ卿は云った。
エレンの体を拭いた後、自分も数日ぶりに体を拭いて、ペギー・アンがあたらしく縫ってくれた下着に換え、きちんとドレスを着て、フィリパはやはり数日ぶりにしっかりと髪を梳いた。きちんと帽子を被って戻ると、エレンは指を組んで、思案げにしている。彼女は長い黒髪を、ベッドから垂らし、新聞に載る「死の床にある女性」の絵のようだった。萌える若葉の色の瞳は、今はくすんでしまっている。
「姉さん?」
「ええ」
「タティングって楽しい?」
たのしい?
フィリパは言葉の意味を理解できず、妹を見る。
エレンはどこか遠くを見るような目付きだ。「あのね、熱が一番高かった頃に、考えたの。ホーク先生は、多分わたしと、結婚してはくれないわ」
「エレン」
「駈け落ちもいやがったし、わたしがもっと大きくなってから、姉さんに相談するって云っていたし。ホーク先生は、将来有望だもの。もっといいお話があると思うの。姉さんみたいなご家族が居れば、きっと優しくしてくれるだろうけれど、ホーク先生はそういうご家族は居ないの。お母さまが具合を悪くして入院しているんですって。わたしは、財産はないし、家柄も立派ではないし、ね? 先生がわたしと結婚してくれる理由なんてないのよ。なにひとつ。それを考えていたら、わたしの誕生日にみんなが死んでしまったことや、お母さまのことも思い出して、気が滅入ってしまって。だから訊きたかったの。タティングって、楽しい? 気は紛れる?」
エレンはそう云いながら、無表情に、涙をふた粒こぼした。
たったふた粒。
次の日、エレンは平静に見えた。フィリパは彼女の気持ちが少しでもやわらぐようにと、象牙のシャトルを持っていった。まあたらしい糸玉を、エレンはしばらく転がして遊び、フィリパがシャトルに糸をまきつけるとくいいるようにそれを見詰め、自分もそのようにした。
「そう。そうかけるの」
「こう?」
「あってるわ」
左手に糸を輪のようにかけ、人差し指と親指でつまんで、残りの指をひろげて糸をぴんと張っておく。右手に持ったシャトルを、糸の下を潜らすように動かす。「そう、そんなふう。最初にこう、右手を動かして、糸をかけておくのを忘れずに。次は、このまま、こちらから糸を通すの」
「こう?」
「そう。それで、ダブルステッチができたわ」
エレンは微笑む。
エレンは左手の動きがぎこちなく、三目あんで、今日はもう辞めておくわ、と手をおろした。彼女の両手は肉をたっぷりつめた腸詰めのように浮腫んでいた。「明日は、簡単なエジングを教えてあげるわね」
「ええ。ありがとう姉さん」
エレンは微笑む。「姉さんはとてもいいひとだわ」
用を足し、顔を洗ってから戻ろうとすると、今現在エレンの部屋になっている部屋の前に、子爵が立っていた。傍に使用人が大勢居るので、醜聞にはなるまい。
「やあ」
「ああ……エレンはもう、大丈夫だそうです」
「それはよかった」
子爵は、そんなことは当然だ、とでも云うような口調で、肩をすくめた。フィリパは目許をそっと拭う。子爵はそれを見ない振りで、扉を示した。
「少々、刺激の強い話を持ってきたんだ。彼女の耳にいれておきたい」
刺激の強い話がなんなのか、子爵は説明しなかったが、息を切らしてやってきた人物を見てフィリパは彼がなにをしたか、おおまかなところを理解した。
「子爵さま……アリステア!」
「エレン」
アリステア・ホーク、育ちすぎた少年のようなやけにのっぽの、気のいいもと・家庭教師は、ぱっとエレンのベッドへ駈け寄った。長い体を窮屈そうに折りたたむみたいにして膝をつき、エレンの浮腫んだ手を掴む。「ああ、エレン」
「どうして? 姉さん? 子爵さま? どうしてアリステアがここに?」
エレンは声を震わせていたが、表情は明るく、頬に赤みが差している。あっという間に、本来の彼女に戻ったようだ。
子爵はこともなげに、軽く杖を振った。
「若くて優秀な弁護士が居ると、君のお姉さんから聴いて、会ってきたんだ。良心的な人物だとも聴いていた。それから、僕の好きなクリケットのスター選手だとも」
「エレン」アリステアはエレンの手をしっかりと握りしめている。「子爵さまが僕を雇ってくれたんだ」
「まあ……」
エレンは本当にしあわせそうに、浮腫んだ顔をほころばせた。「まあ……」
アリステアとエレンはそれほど年が離れている訳ではないし、アリステアは弁護士の資格を持っている。少し前までは寄宿学校の補助教員もしていたらしいし、医学もかじっている。それに、地元のクリケットチームのエース選手だ。将来有望というのは事実で、だから、エレンが彼と結婚しても苦労することはないだろう。
フィリパはそんなことはひとつも知らなかった。子爵が教えてくれたのだ。手を握りしめ合って、ただ見詰めあうだけのふたりの傍で、低声で。
「そんな訳で、彼女の婚約も新聞に広告を載せないとならないみたいだね」
「ええ」
「いやがらない?」
子爵は面白そうに、フィリパを見る。フィリパは浮腫の酷い妹の顔を見ていた。彼女が高熱を出した時、生きた心地がしなかった。自分が彼女のささやかな夢を潰してしまったのだと思って。可哀相な、不運なエレン。たまたま自分の誕生日に数人の家族を失った、その為に信仰さえ揺らいでいるエレン。ほんのちょっぴりの希望を打ち砕かれたことが、彼女に悪い影響を及ぼさなかったと云える?
フィリパは子爵を見た。
「ありがとう。あなたのおかげで、妹は立ち直ったわ」
「それは違うね。ホークは実際、割のいい仕事を見付けたら君に話をするつもりだった。無責任な男じゃないさ」
「その前に、なにかあったかもしれないから」
なにかがなんなのか、子爵は眉をひそめるだけで、訊いてこない。フィリパは自分のもろさを見詰めてじっとしている。エレンに負担をかけるべきではなかった、もっと彼女に気を配るべきだった、と強く思った。まるでいやがらせみたいに、二年続けて彼女の誕生日にやってきた死神に、フィリパはどうにかしてパンチを食らわせたい気分だった。
「姉さん」
エレンが弾む声を出し、フィリパと子爵は揃ってそちらを見た。フィリパは優しく微笑む。
「なあに、エレン。なにかほしい?」
「糸を分けてくれない? ほんのちょっぴりでいいの。彼と……指環はないから。後悔したくないの。誕生日が、来る前に」
エレンは、猩紅熱の為に、結婚前に死んでしまうことをおそれている。それとも、意地の悪い死神がまた、誕生日にやってきて、アリステアをつれていくかもしれないと思っている。
フィリパはそれがわかって、涙をこらえた。「あら、まあ、随分ね。指環くらい、わたしがすぐに用意してあげる。姉さんはなんだってできるのよ」
子爵から贈られたビーズは、小さなものだった。フィリパはシャトルに糸をまき、緑のビーズをむっつ通す。エレンの瞳の色だ。
左手に糸をかけ、ダブルステッチを七目。半分だけひきしめ、半月のような形にする。ビーズをひと粒送りこんで、また半分だけ引き締めたリングをつくる。その繰り返しで、ハーフリングがななつできた。
糸を切り、蝶々のように結ぶ。小さくて華奢で、可愛らしい指環ができあがった。
子爵が微笑みで、彼女の手許を見ている。
「なにか手伝おうか?」
フィリパは頭を振った。「あなたには、もう沢山のことをしてもらったわ」
指環をもうひとつつくり、渡すと、エレンは嬉しそうににっこりした。髪を簡単にとかし、顔を拭いてやると、彼女は愛するひとに手を伸ばした。アリステア・ホークはエレンの浮腫んだ指に、レースの指環を苦労してはめ、エレンはアリステアの骨張った指に指環をねじこんだ。
「もうひとつあったわ」
フィリパは礼儀正しく、手を握り合うだけのふたりを見ながら、傍らの子爵に耳打ちした。
「なんだい?」
「エレンとホーク先生の婚約を発表しなくては。フランシスの時に、あれには本当に疲れたの。お手伝いしてくださる? 子爵さま」
子爵は嬉しそうに、楽しそうに、小さく声をたてて笑った。この声を聴けなくなってしまったら、きっとわたしは死んでしまうのだわ、とフィリパは思った。多分、わたしは長生きできないんだろう。
エレンの指環
シャトルに糸をまき、ビーズをむっつ通す。
リングをつくる要領で七目あんだら、半月型になるように加減して糸をひきしめる。
ビーズをひとつ、リングの隣に送ってから、次のリングをあむ。これを繰り返して、ハーフリングをななつつくる。
糸を切り、二回結んでから蝶々結びにする。