よっつ目――特別なガウン
その朝、フィリパの運命の星は途轍もなく不規則な動きをしたに違いない。
朝一番に、猫か犬かそれともビッグキャットか、なんだかよくわからないなにかの動物のいななきでフィリパは目を覚ました。
大変宜しくない寝覚めで、彼女はぶつくさ云いながらベッドを出、廊下へ顔を出して妹や弟に危険が迫っている様子がないことをたしかめると、またしてもぶつくさ云いながら扉を閉めた。ナイトキャップを被ったままで、ベッドサイドテーブルの水差しから木桶に水を注ぎ、浴用布をひたしてしぼる。信じられないくらいに冷たい水だ。顔、首、うなじ、右腕、左腕、せなか、胸、脇の下、脇腹、腹部、それから下半身、と、布をほんのちょっぴりの水で濡らしてはばけつの上でしぼってを繰り返し、体中を拭う。水差しに水が残ったので、それで口をゆすいでしまう。咽にかすかな違和感を覚えたが、気の所為だと考えた。
朝の寒さにさらされながらすばやくきがえ、ナイトキャップを外してブラッシングをはじめる。気の滅入ることに明日は入浴の日だ。フィリパは常になくいらついていて、文句を云いながら髪を梳いた。
以前ならメイドが来て、ばけつとおかわを片付けてくれたのだが、このところ家計が厳しく、彼女は断腸の思いでメイドを馘にしていた。雑用をしてくれる人間が減ったのだ。
おかげで今や、フィリパはこのスプールズヒル村ウィロウ邸の女主人でありながら、月に一度は自ら洗濯をする憂き目に遭っていた。勿論、おかわの片付けだって、必要に迫られればやる。彼女がそういった仕事をすることについて、祖母の代から仕えてくれている使用人達は見て見ぬふりをしてくれていた。
徹底的にブラッシングをしてしまうと、フィリパはすばやく髪をまとめあげ、布で覆った。その上から帽子を被る。髪を見せるようなみっともない真似は絶対にできない、と、強迫観念が芽生えていた。ひとりで居る時には髪を下ろし、頭痛と闘っている彼女だが、最近はそれを特にみっともない行動だと感じるようになっていた。髪を下ろしてうろつくくらいなら、少々お金をかけて阿片チンキを手にいれたほうがいい。フローレンスとフレデリカの双子が夜泣きをする時も、あれでなんとかなった。ジュリアンのかんしゃくも。阿片チンキは万能だ。頼りにならないラヴェンダー水とは大違い。
フィリパはいらいらを隠しもせず、あしおと高く階下へ降りていった。使用人達が厨房で火をおこしている。お嬢さま、と呼ばれ、フィリパは一瞬それが自分のことだと思わなかった。お嬢さまが、朝食の準備に厨房へ向かうだろうか?
前日仕込んでおいたパンを焼き、自家製のハムを切り、コーンポリッジをつくってチーズを加え、じゃがいもをゆがく。てきぱきと家事をこなす自分がいやになったが、これも女の業だと考え、フィリパは表面上落ち着いていた。
弟と妹に食事をさせるのはまったくもって難行だった。ハーキュリーズでもできなかっただろう。彼はどうして「育ち盛りの男の子ふたりとなにを考えているかわからない寡黙な女の子と椅子に座っていると思ったらいつの間にか外に出ている女の子とそっくりなのにいいあらそってばかりの双子の合計六人を席に着かせ、おとなしく食事をさせる」という難行に挑まなかったの? 蟹だのライオンだのを退治するよりもよほど、人類におおいに貢献する仕事だし、奥さんの不興を買って殺されることもないわ。
エドガーはじゃがいもの大きさに文句を云い、ガブリエルはハムの塩気がどうのこうのと云い、エレンは男の子ふたりのあたらしい家庭教師――前の家庭教師はエレンと親しくなったようなので辞めてもらった、とてもいいひとで給金も手頃だったのに――の話をひっきりなしにし、フローレンスとフレデリカはポリッジの量がどっちが多い少ないとかしましい。次女のペギー・アンは? 彼女はいつもどおりだ。しかめ面で黙りこんでいる。
ペギー・アンは不機嫌そうだし、エレンは洪水のようにお喋りを続けていたが、彼女達はフィリパの味方だった。エドガーとガブリエルはエレンに辟易した様子で次第に静かになったし、フローレンスとフレデリカの喧嘩はペギー・アンがひと睨みでおさめてくれた。フィリパはほっとして、自分は厨房で立ったまま、適当にパンとチーズを食べた。洗う食器を増やすのがいやだったのだ。
食後、エドガーとガブリエル、それに双子の四人は部屋へ戻り、勉強をはじめた。はじめた、とフィリパは思い込むことにした。普段なら様子を見に行くのだが、頭痛と腹痛があって、階段をのぼりたくなかった。ペギー・アンに、双子のことを任せたのは覚えている。エレン? 彼女は牧師館のジェサミーとイヴリンが来て、ふたりと出て行った。牧師館で、牧師さまの奥さまに、ジャムづくりをならうのだ。エレンがジェサミーと、将来彼女の義理の姉になる予定のイヴリンに対して喋りまくっているのが、どんどん遠ざかっていった。
フィリパはレンジに残った熱であたためていたお湯で食器を洗い、オーブンの灰を掻い出して容器へいれた。縁までたまったらせっけんをつくる。それも憂鬱な作業だ。それから、来週には豚を二頭潰す。豚の血はあの子達はきらいだから売ってしまおう。エレンがあたらしい外套をほしがってたわ。カージミア織りくらいならなんとかなるかもしれない。
フィリパはいつになく疲れ、誰かに八つ当たりしたい気分だったが、それを我慢した。ほんの少し休憩するつもりで椅子に腰掛けると、自然と体が前に倒れ、彼女は作業台に突っ伏して寝てしまった。
はっと目を覚ましたのは、フローレンスとフレデリカが喚き散らしはじめたからだ。フィリパは頭痛で苦しみながら階段をのぼり、顔をひきつらせたペギー・アンとぶつかった。彼女は姉に助けを求めようとしており、フィリパはそれに応えた。フローレンスとフレデリカどちらも泣き喚き、その足許にはペグドールが転がっている。フィリパは心底うんざりしてふたりのペグドールを救い、あんまり喧嘩をするならこれをとりあげると宣言した。双子は尚更泣き喚いた。
普段のフィリパならばそこで双子に謝るか、とにかく落ち着くように宥めるかしただろう。しかしフィリパは溜め息を吐いて、ペグドールをペギー・アンに預け、そこからはなれた。彼女は階段を降り、外へ出た。眩暈はするし、頭は痛いし、咽にも違和感があった。豚のことで相談しなくてはならない。誰に? さて誰だろう。
フィリパはぼんやりしていたが、背後を振り向いた。そこにはウィロウ邸があった。彼女が維持し、弟に渡さなくてはならない邸が。
車輪の音がして、彼女はそちらを見る。ふたりのりの馬車だ。見覚えのある男性がのっている。しゃれたケープに、黒い帽子。紫っぽい茶色の杖。
フィリパは顔を伏せた。馬車が停まり、彼がおりてくる。隣の邸へはいるのだろう。人前で彼と話したことはない。知らない振りをすべきだろう。
だが彼は、フィリパを見て、かすかに笑った。「お嬢さん、いい朝ですね」
フィリパはぼうっとしていて、それに応えなかった。しかし彼の向こうで、馬丁が苦労しているのは見えた。黒くて、立派な脚とつやのあるたてがみをした馬が頭を振り、移動するのをいやがっている。
馬丁の帽子が吹っ飛んだ。馬の頭で払いのけられたのだ。馬丁の助手なのか、少年が馬を鞭打とうとした。あれはよくない。
走るように促されたと勘違いしたのだろう。それとも単に、痛くていやだったのだろうか。馬はいなないて――フィリパを叩き起こした声だ――走りだした。
フィリパも走って、彼を突き飛ばした。左脚の動きがぎこちない子爵を。おそらく、横に飛んでよける、ということが難しい彼を。
フィリパはベッドの上で目を覚ました。酷い眩暈がする。片眼鏡のサイ卿――お医者さま――が、安心させるような声を出す。「ミス、なにも心配ありません。少し眠るといい。痛みはどうですか? 酷いようなら、痛み止めを処方できますが」
「必要ありませんわ」
フィリパはそれだけいい、目を瞑った。痛み止め! どんな高値がつくかわからない!
次に目を覚ました彼女は、ガブリエルが椅子に座って脚を組み、器用に靴下をあんでいるのを見た。「やあ、姉さん。咽は渇かない?」
「お水を頂戴」
ガブリエルはメリヤス編みを放って、すぐに水を持ってきてくれた。フィリパはそれを飲み、また目を閉じた。
「では怪我は、たいしたものではないんだね? 本当に?」
「はい。熱は風邪の所為です。酷いものではありませんが」
「薬は」
「服ませてあります」
「悪影響はないだろうね?」
「心配ありませんとも」
「薬代が……」
フィリパが呻くように云うと、彼女のベッドの傍に立っていたサイ卿と子爵ははっとして振り返った。子爵が威厳たっぷりに云う。「寝なさい」
「薬代が」
「くだらない心配をするのじゃない」
くだらないことであるものですか、とフィリパは喚いたが、言葉になっていなかった。彼女は泣き、そのまま眠った。
酷く途切れ途切れの記憶を辿って、フィリパは自分が数日間、寝ておきてを繰り返していたらしいと判断した。
無口なペギー・アンがおかわを綺麗にしてくれたことや、エレンが口を噤んでフィリパの顔や手を真剣に拭いてくれたこと、ベッドにしがみつくフローレンスとフレデリカをエドガーがつれていったこと、ガブリエルが靴下をあみあげて三足目だと笑っていたことなどに覚えがある。
それから、子爵が数回訪れたこと。
フィリパは死にたいような気分で、ベッドをおり、廊下へ出た。手洗いに立てこもる。ひとりになりたかった。できればこのまま消えてしまいたい。
そういう幸運は訪れず、彼女はペギー・アンに見付かって部屋へ戻った。口論以外で二言三言喋れば驚天動地のペギー・アンが喚くように云う。いや、これは口論なのだろうか。「姉さん、だめじゃない。まだ寝ていなくてはいけないの。サイ卿がおっしゃったわ。目を覚ましたらあっさりしたものを沢山食べさせるようにとも。お隣の子爵さまが、姉さんにお見舞を沢山持ってきてくださってるから」
「ペギー・アン、戴けないわ」
「なにを云ってるの?」
ペギー・アンは細腕からは想像もできない力でフィリパをベッドへ寝かせ、毛布をかぶせた。「姉さんは子爵の命を救ったのよ。感謝されるのは当然のことじゃないの。断るほうがおかしいわ」
フィリパは唸り、ペギー・アンはそれを頭痛の為だと考えたようで、顔色を失って飛びだしていった。
フィリパは自分の言動を羞じていた。
たっぷり空気を含んだクッションに身を預け、フィリパは解いた髪を身体の前へ持ってきていた。意味なく、手でそれを梳く。ペギー・アン、それにエレン、エドガーがベッドを取り囲むみたいにしている。それから、子爵が椅子に座っている。ごくごく寛いだ様子で、脚を組んで。
「お嬢さん、僕の命を救ってくれたことを、あらためて感謝する。ありがとう」
「いいえ」
フィリパはか細い声を出す。彼と人前で話したことはないから、どんな顔をしたらいいのかわからない。
彼はそんななやみを持っていないようだった。少なくとも、以前から親しくしているような素振りは、まったく見せない。偶然自分の窮地を救ってくれた女性に感謝しているだけ、という口ぶりだ。
エレンがくすくす笑った。「姉さん、そろそろおかゆができると思うわ。持ってくる」
「いいわ、エレン、エレンってば……」
エレンははねるように出て行き、ペギー・アンがそれに続く。エドガーは咳払いする。子爵は微笑んだ。フィリパはまた死にたくなった。
サイ卿がいらして、フィリパを診察し、脳震盪はよくなったがまだしばらく休養が必要だと云った。金銭的な余裕はないのだが、子爵がすべてを負担してくれているらしい。それについてフィリパが話そうとしても、子爵はなにも答えない。見覚えのない使用人が数人、部屋を出入りした。おそらく子爵の使用人だ。
あの瞬間、はたして自分が必要なことをしたのか、フィリパは自信を失っていた。あの時は必要なことだと思ったが、子爵なら馬を避けていたかもしれないし、そもそも馬がすぐに落ち着いたかもしれない。自分が叫んだり激しい動きをしたりしたから、馬が尚更亢奮したのでは?
「それはありえない」
ありえないのはこの情況だわ、とフィリパは思ったが、云わなかった。頭痛がぶり返しているのだ。
おそろしいことに、彼女は子爵とふたりきりだった。弟も妹も居ないし、フィリパの付添人はそもそも去年ひまを出した。
とはいえこんなみっともないことが外へもれる心配はないだろう。子爵の使用人は口がかたいようだし、こちらの使用人達だって口さがない人間は居ない。問題は、フィリパと子爵をふたりきりにすることについて、誰も疑問を持っていないことだ。
「どうして云いきれるの」
「あの馬があの後なにをしたかを聴けばわかるさ。君を蹴飛ばして、馬車と気の毒なもう一頭の馬をひきずって、村のまんなかを暴走した。脳をやられていたんだそうだ。殺すしかなかった」
つめたい口調だった。フィリパは身をすくめる。子爵は小さく息を吐く。
「君はなにも心配せずに、身体を休め給え。無理もだめだ。特に、ひとを庇うような無理は絶対にしないように」
「ねえ」
「もう話すことはないよ。もっと楽しい話題ならいいけれど。君のサンドウィッチの味についてとか」
フィリパは口を噤む。子爵は満足げに頷いた。「いい子だ」
ふつかもすると、フィリパはだいぶ気分がよくなり、エレンにタティングレースの道具を持ってくるように頼んだ。子爵は居ないので、そういう作業はよくないと云われるおそれもない。
フィリパは醜聞を避けたかった。彼の態度の意味がわからない。たしかに、自分の命の恩人の治療を手配するまではわかる。だが、彼本人がここに来る必要はない。
それなのにあのひとはここに居ることがある。どうごまかすつもりなの? 未婚の女の部屋へ這入って。
フィリパが小さくなった糸玉をもてあそぶだけで、なにもあまないでいると、フローレンスとフレデリカが這入ってきた。「姉さん」
「大丈夫?」
「ええ」フィリパは自然に微笑む。「ふたりとも、顔色が悪いのじゃない?」
ふたごは目を交わし、ぱっとベッドへ近付いてくる。エレンが椅子を立った。「ふたりが姉さんを見ていてくれない? ベッドから逃げ出さないように。わたしは姉さんにきがえをしてもらいたいから、用意をするわ」
「うん」
「わかった」
エレンが出て行き、双子は椅子に座る。
双子はフィリパを見詰め、ほとんど同時に口を開いた。
「姉さん」
「ごめんね」
「あら、どうしたの……」
「わたし達が喧嘩をしたから」
「姉さん、いやになってお外へ出たんでしょ?」
そういう訳ではない。フィリパはゆるく、頭を振る。あの時からすでに熱があったのだろう。頭痛も酷かった。弟達の所為でも妹達の所為でもない。自分の体が弱い所為だ。
「でも……」
「でも……」
今にも、双子が泣き出すのではないかと思い、フィリパは話題をかえることにした。
「ねえ、あの時はごめんね。ふたりはどうして、いいあらそっていたの?」
双子は困った顔をして、フローレンスが出て行った。
戻ってきたフローレンスは、ペグドールをそれぞれの腕に抱えていた。双子が端布でガウンを仕立てている、可愛らしいペグドールだ。ふたりにはペギー・アン同様縫いものの才能があるようで、ガウンはそれらしい形をしていた。
「あのね……」
「わたしがね……」
「ちがうわ、わたしがいったの」
「わたしたちどっちもなの。ガウンがさみしいから、飾りがほしいって」
「フレデリカが姉さんに頼むっていうから」
「フローレンスも頼むって。順番でけんかになったの」
「さきに頼みたかったの」
フィリパは力なく笑った。双子はきょとんとする。その程度のことにあんなに腹をたてた自分が情けなくて、みっともなくて、フィリパはにじんできた涙を拭った。双子が心配そうに云う。「姉さん?」
「ごめんね、フローレンス、フレデリカ。彼女達のガウンを飾るものをつくれたら、わたしをゆるしてくれる?」
レースをあむのは気晴らしにもってこいだった。あんでいる間は、それ以外のことを考えなくていい。例えば、子爵の行動は村の人間からどう思われているのか、とか、今度のことで彼が社交界でどのような評判を得るか、とか、我が家の親戚が子爵のことをどう考えるか、とか。
フローレンスとフレデリカは、それぞれが違うエジングをほしがった。「まるがたくさんのがいい」
「わたしはお花みたいなのがいい」
「ええ、ええ、すぐにできるからね」
フィリパはシャトルをふたつとりだし、ひとつに糸をまいて、同じだけを解して切り、もう片方のシャトルへまきつけた。まる、をご所望のフローレンス用のエジングは、スプリット編みをすることにしたのだ。
左手に糸をかけ、6◦6。輪の向きをかえて、もう片方のシャトルで後の半目からあむ。といっても、芯糸は左手の糸だ。右手の糸を絡めつける。こちらも6◦6。引き締めて、成る丈まるく、リングを整える。
次のリングは18、スプリット編みを18。最初のリングと同じリング。次のリング。そうやって、あっという間にできあがったエジングを、フローレンスは大喜びでうけとった。
あたらしくシャトルに糸をまきつけて、次はフレデリカ用のものだ。
3◦14◦3。3J3◦3。3J3◦3。3J3J3。これだと単なるモチーフだが、フィリパはそこで糸を切らず、そのまま、糸玉の糸で十八目のチェインをあむ。後はその繰り返しだ。フレデリカも大喜びだった。
「ありがとう、姉さん」
双子が声を揃え、フィリパはベッドに縛りつけられてからはじめて、心の底から微笑んだ。
ペグドールは、ガウンに装飾を施され、誇らしげに見える。「まるがならんでてかわいい」
「これ、ここのとこがゆらゆらするの、かわいい」
双子がはしゃぐ声を聴きながら、フィリパはゆっくりとタティングの道具を仕舞う。把手つきの蓋をきっちり閉める。閉めてから、糸始末の為の細いレース針を、ベッドサイドテーブルに置きっぱなしだったと気付いた。あれも仕舞わなくっちゃ……でも、なんだか凄く疲れた……。
たったあれだけのこと――いつもの、双子の喧嘩――に、どうしてあんなにいらいらしたのかわからない。やはり、体調が優れなかったのだろう。こんなことでは、妹や弟によくない影響を与えてしまう。
エレンと、数少ないウィロウ邸の使用人、それに子爵が「当座の手伝いに」寄越してくれた、子爵のメイド達が、たらいや湯気のたつ鍋、ウィンザーせっけん、清潔な浴用布などを手に這入ってきた。フィリパはレース針を掴んで、箱の蓋を開けようとする。
「姉さん、身体を拭く手伝いをするわ」
「ええ……」
「フローレンス、フレデリカ、出ていって」
「はあい」
双子はフィリパの頬にキスをして、出て行こうとする。
ノックの音がして、サイ卿、それに子爵が顔を覗かせた。妹達が行儀よくお辞儀をする。
フィリパは子爵と目が合って、縮み上がった。彼が怒ったような顔をしていたからだ。ぽろりと、レース針が毛布の上へ落ちる。
「お嬢さん、無理をしたのかな?」
「いいえ、そんな」
「君がタティングを愛しているのはわかるけれど、脳震盪も起こしていたんだ。タティングと同じくらい自分の体も大切にするといい。しばらくは休み給え」
彼は遠慮なく這入ってくると、フィリパの膝の上からシャトルを仕舞いこんだ道具箱をとりあげ、鼻を鳴らした。そのまま、左脚をぎこちなく動かして出て行ってしまう。
妹達が目をまるくしてフィリパを見ている。使用人達は、目を白黒させ、かなり驚いた様子だった。サイ卿が所在なげに視線をさまよわせる。
フィリパは苦笑いをしてみせた。子爵の子どもじみた振る舞いには驚いたが、彼の評判をこれ以上落とす訳にはいかない。
「子爵さまは心配性ね。サイ卿が、脳震盪はよくなったとおっしゃってるのに」
「姉さん、どうしてあのかたが、姉さんがタティングを好きだって知っているの? 誰もそんなこと話さなかったし、道具を見た訳でもないのに」
興味津々のエレンに訊かれ、子爵さまでも失言をするのだわ、とフィリパは思った。
フローレンスのエジング
シャトルを二個つかう。
A:リング 6◦6 スプリット編みで6◦6
B:リング 18 スプリット編みで18
A、Bを繰り返す。
フレデリカのエジング
シャトルの糸と糸玉の糸をつなげた状態でつくれる。
A:リング 3◦14◦3
B:リング 3J3◦3
C:Bと同じ
D:リング 3J3J3
このモチーフの後ろからこのままチェインをあむ。
その際、Aが上の状態であむ(ひっくり返さない)。
E:チェイン 18
モチーフとチェインを繰り返す。