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みっつ目――聖句の目印に




 フィリパはシャトルを動かす手を停め、子爵を振り仰いだ。「ビールを?」

「ああ」

 子爵は弱っている様子だ。


 ふたりはいつものように、子爵の邸の敷地内にある、小川の傍に居た。子爵が命じたのか、あらたにジャコウレンリソウやエゾミゾハギなどが植えられている。フィリパはそれに気付いたけれど、指摘はしなかった。彼が自分と会う場所を整えている、飾っている、と思いたくなかったのだ。

 それに、自分の為でしょう、と云わんばかりにそのことを口にして、うぬぼれていると思われたくはない。


「たしかに、以前は仕込んでいたわ。父が亡くなって、辞めてしまったけれど。わたしはあまり、お酒は好きではないし、気分が悪くなってしまうから。弟や妹もね」

「ああ、そうか、うん……」

「あんまり、嬉しくないみたいね? わたしにビール造りの知識があると知って?」

 子爵は唸り、右脚の膝を曲げた。彼はいつも、左脚を曲げ、右脚を伸ばした格好で座る。もしかしたら、怪我ではなくて、生まれついて脚に問題があるのかもしれないと、フィリパは最近そのことに思い至った。たしか、叔母のひとりが生まれついて脚を脱臼していたと聴いたことがある。叔母にはほかにもいろいろと問題があったようで、結局、篤志家のもとへ養子に出された筈だ。

 フィリパは左手から、糸を外す。チェインを数目あんだところだ。糸玉とシャトルを、把手のついた木箱へ仕舞いこむ。一番下の段には、最近になってタティングレースを再開したフィリパが、どうにか脳髄をしぼってつくった編み図を、粗雑な紙に書き付けていれてある。

「どうしたの。あなたらしくないわ」

「ちょっと、弱ってるんだ。再来月、母が来るんでね」

「お母さまが?」


 おうむのようになにも考えずにそう返し、フィリパはしばらくきょとんとしていた。子爵から家族の話を聴くのが奇妙な気がしていたし、そもそも彼に存命の家族が居るかどうか、彼女は知らない。

 興味がなかったのだ。自分でもどうしてだかわからないが、彼に付随するあれやこれやに、フィリパはまったくと云っていいほど興味を持てなかった。彼が大金持ちでも、借金があっても、どちらでもいい。彼が天涯孤独でも、子どもが大勢居ても、それで彼の価値が揺るぐ訳ではない。

 彼女が気になるのは、子爵さまはどうしていつだって楽しそうなのだろう、とか、わたしが焼いたパンをやけにおいしそうに食べるけれど普段きちんと食べているのかしら、とか、そんなことだけだ。彼が大怪我でもしない限り、なにか問い詰めるようなことはしないだろう。


「お嬢さん?」

「あ、ごめんなさい」

 フィリパは半開きになっていた口を閉じる。子爵はほんのちょっと、楽しそうに微笑んだ。よかった、少しは気分がよくなったみたい。

 フィリパは麦わら帽子の位置をちょっと直す。

「あなたの……素晴らしいお母さまと、ビールに、なんの関係が?」

「僕の母が素晴らしいって、どうしてわかるの?」

「あなたみたいなひとのお母さまだからよ」

「男は不幸だな。どれだけ人格者でも、いい人間でも、素晴らしい功績を残しても、母親の手柄になってしまうのだから」

 嘆くように云うが、それが子爵流の冗談だというのはフィリパにはよくわかった。現に、フィリパがくすくすすると、子爵も笑う。

「ああ、まあ、認めるよ。芸術作品だって、つくった人間が評価されるものな。実際のとこ、母は立派なひとだ」

「ええ」フィリパは精一杯、しかつめらしい顔をして見せた。「その素晴らしいお母さまがいらして、なんの問題があるの」

「母はいいひとだけど、口にはいるものに尋常でなく煩い。食事然り、飲みもの然り、薬然り」

「ああ……」

「彼女は、ここでビールを呑むのを楽しみにしているんだ。毎年、使用人のミセス・バーリーが仕込んでくれるからね。彼女のビールが世界で一番だと母は云う。しかし、今年に限って、彼女はビールの仕込みを辞めたいと云ってきた。そして僕は今年の初めに、それをゆるしてしまった。僕のように立場のある人間が、言を左右にするのは、問題のある行動だ」




 成程、困ったことになっているのはフィリパにもわかった。

 子爵の母親は、子爵の使用人のミセス・バーリーのビールを呑みたがっている。だが、当のミセス・バーリーがビール造りを辞めたいと云っており、子爵はそれを許可してしまった。今更、やっぱりビールを仕込んでほしいというのは、みっともない。

 ミセス・バーリーに非はない。実際、ビールを仕込む時期の前から、今年は仕込まないでもいいですか、と子爵にお伺いをたてているのだ。直前でやらないと云った訳ではない。


「それは……別のひとにしてもらえばいいのじゃないの?」

「ミセス・バーリーのような味にならないらしい。僕には違いがわからないけれど、三年前にはそれで母が腹をたてた。ミセス・バーリーが体調を崩していて、幾つかの工程を別人がこなしたんだ。それで、味が違う、と」

「まあ。本当に、名人なのね」

「僕はあまり、ビールは好きじゃないんだが、彼女がつくったものはすっきりしていて呑みやすいよ。それは云える。母のように大騒ぎすることでもないと思うけれど、母は繊細だから……」

 弱り切った様子だ。子爵がそのような顔をするのは、フィリパははじめて見た。いつもは、フィリパが妹や弟の言動で困っていると、彼がさも簡単みたいな顔をして、助言をくれる。そしてその助言は、信じられないくらいに的確なのだ。

 フィリパはそれで助けられてきた。だから、子爵が困っているのなら、自分がそれを助けたいと思った。


「わたしに、ビールを造ったことがあるかどうか訊いたってことは、わたしにミセス・バーリーのかわりをしてほしいってことかしら」

「お嬢さん、そうじゃない。いや、そうなんだけど、違うんだ。君がそんなに、なんでもつくったことがあるとは思わなかった。知らないと云ってほしかったんだよ」

「まあ、変なひと」

「お嬢さんに酒を仕込んでほしいなんて失礼を云えない」

 彼は唇をひき結び、フィリパはくすくすする。「ねえ、お願いをしてもいい? わたし、おいしいビールを仕込めるようになりたいの。ミセス・バーリーに、わたしがあなたのかわりに仕事をするから、ビール造りを教えてもらえないかしらって伝えてもらえる?」

「君のその優しいのは、あんまりいい傾向じゃないな」

 そう云いながらも、子爵は優しく微笑むのだった。




 三日後、フィリパの家であるウィロウ邸に、近所の少年が小さなカードを持ってきた。

 首尾よく、フィリパが直接にうけとったそれには、簡単な地図と、子爵、とだけ書いてある。ここへ来いと云うことらしい。「誰から?」

「杖ついた男のひとだよ。お駄賃くれた」

 少年は乳歯がぬけた口をあけて笑い、大切に握りしめた硬貨をフィリパへ見せびらかしてくる。フィリパはくすっとして、少年に朝の残りのパンを一つ上げた。

 彼女は地図を覚え、カードを焼いてしまった。弟にも妹にも、使用人達にも見付からないように。




 お隣の敷地の、北西に、その建物はあるらしい。「やあ」

「ごきげんよう」

「食事は?」

「あなたと違ってうちでははやくに食べてしまうの」

 食事を終え、使用人達が部屋にさがったのを見計らって、フィリパはマントを羽織り、遅くなってもいいように、ランタンを手に家をぬけだした。

 家計の苦しさから使用人を削減した所為で、自分の時間がなかなかとれない。だから、もしそれでいいのなら、作業は日が暮れてからがいいとも伝えてあった。カードにはそれは無理だと書かれていなかったので、フィリパは弟ふたりと妹四人、それに自分と、財産のことで来た弁護士がつかった食器と格闘してから、家を出たのだ。

 子爵はあたたかそうな外套を着て、長めの杖を持っていた。「こっちが出入り口だよ」

「ビールの為の建物があるの?」

「ビールやワインを仕込むところなんだ。昔はシードルも仕込んでいたらしいけど」

「立派ね……」


 子爵に促され、建物のなかへはいる。外よりも温度が高いようだった。水仕事でひえた手が、じわっとあたたまってくる。

 ぱっと、大きな作業台が目につく。はいって右側には、かまどが幾つも並んでいた。原始的な形のものだ。それに、袋が幾つか並んでいる。

「ミセス、お嬢さんをおつれしたよ」

「あら、まあ、坊ちゃん。ありがとうございます……」

 ミセス・バーリーは、帽子の下から白髪がちょぼちょぼと飛びだした、老齢の小柄な女性だった。背中が少しまるまっていて、節くれ立った手で布の塊を抱えている。ビーズのような、きらきら光る目が、フィリパを見た。好もしげに微笑む。フィリパもつられて微笑んだ。

 子爵が咳払いする。「ミセス、申し訳ないが、約束どおりお嬢さんの名前は訊かないでもらえるかい」

「ええ、勿論ですよ。こんな立派なお嬢さんが、手仕事なんて……特に、ビールの仕込みなんてね。坊ちゃんが無理をおっしゃったんじゃありませんか?」

「いいえ、ミセス。わたし、おいしいビールを造れるようになりたくて、志願しました」

 フィリパが率直に応えると、ミセス・バーリーはころころ笑った。子爵が嬉しそうに笑みをうかべている。フィリパは、それだけで充分、ここに来た甲斐があったと思った。




 子爵は仕事があるそうで、名残惜しげに出て行った。急ぎの用事を済ませたら戻るから、ひとりで帰宅しようとはしないこと、とフィリパに低声(こごえ)で釘を刺して。

「それじゃあ、はじめましょうか。ごめんなさいね、お嬢さん。おばあさんになってしまうと、力仕事がつらくって……じゃあ、今日はこれを、芽が出るように工夫しましょ」

「はい、先生」

 フィリパの言葉に、ミセス・バーリーは面喰らったらしかった。


 作業はほとんど、フィリパがやった。ミセス・バーリーは、体を動かすのがかなりつらいようだ。節々が痛いのだとこぼしている。

 作業台に、藁を敷くところからはじまった。できる限り均一に藁を敷くと、その上に、ミセス・バーリーが持っていた布をひろげる。とても品のいい、綿の布だった。

 そこへ、袋の中身をばらまいた。「これはね、あなたが手伝ってくれると決まって、すぐに用意したんです。あの日から、お水に漬けこんでおいたんですよ」

 それは大麦だった。フィリパも、ビールを仕込む手伝いをしたことはあるので、知ってはいる。

 袋の中身をすべてばらまくのには、結構な時間がかかった。それに、水を含んだ大麦はそれなりの重さだ。ミセス・バーリーはしきりと申し訳ながる。フィリパはそれに、なおざりな対応しかできなかった。これを、老齢の女性がやるのは、たしかにつらいだろう。ビール造りを辞めたいと申し出るのもわかる。

 大麦をばらまいてしまうと、その上にも藁を置いて、布でおおった。上から水を打つ。

「これを、毎日二回、かきまぜるんだけれど……それは、わたしがやります」

「いいんですか?」

「これをしてくれただけでも充分なくらいですよ、お嬢さん」

 ミセス・バーリーは実際、感激しているみたいで、そんな声を出した。




「疲れたみたいだね」

「ええ。ミセス・バーリーのような、お年を召したひとがやる作業ではないわ」

 フィリパは夜道を、子爵と腕を組んで歩きながら、低声(こごえ)で云う。「手伝いをするひとは居ないの?」

「居たんだが、ビールの味が落ちるらしい」

「どうしてかしら……」

「君なら大丈夫だよ。ああ、つらかったら、辞めてしまってもいいんだよ」

「いやだわ」フィリパは頭を振る。「折角、おいしいビール造りを教えてもらっているの。幾ら子爵さまでも、邪魔をしないで」

 彼はくすっとした。フィリパは満足だった。


 翌日の夜も、フィリパはビール醸造へ向かった。まだ芽が出ていないので、次の作業には移れないという。大麦を切り返しながら、フィリパはミセス・バーリーとお喋りした。彼女は子爵の使用人のなかでも一番の古株で、彼が生まれる前から、彼の父親に仕えていたそうだ。海外旅行に同行したこともあるという。

「戦争が起こる直前に、戻ってきたんですよ。あの時は生きた心地がしなくって」

「まあ……大変なことが沢山あったんですね」

「ええ。今はいい時代です。とりあえずは、何事もないんだから。それに、若い子達が優しくてね。わたしは字が読めなくて、でも、聖書を毎日読んでもらってるんです。ほんの一節でも、ちゃんと聖書を読んでもらってから寝ると、次の朝が気持ちいいんです」

 そう云ったが、その直後に、彼女は一瞬顔をしかめた。が、すぐに表情がやわらぐ。フィリパはだから、見間違いだと判断した。

「優しいひと達なんですね」

「ええ。お仕えするかたがお優しいんですもの、わたし達も自然と、いい人間になれます。(しゅ)にお仕えしてるんだから、本当なら人間はみんな、いいひとじゃないとおかしいんですけれどね」

 皮肉なのか冗談なのか、それとも本気なのかをはかりかねて、フィリパは頷くだけにとどめた。


 ふつかほどして、麦芽が出てきたので、次の工程へ移った。幾つもあるかまどに火がはいり、大鍋がかけられる。できる限り水気を切った大麦をそこへいれ、大きな木べらでひたすらかきまぜながら炒る。

「芽がとれるんです。そしたら、それを挽きます」

 大麦は重たくて、かまどの前は熱い。やりやすい高さになるように、踏み台もあった。フィリパはありがたくそれをつかって、みっつの鍋で大量の発芽大麦を炒った。弱火で、焦げないように、ゆっくりと。その日、フィリパは汗だくで、自宅へ戻った。すべての大麦を炒り終えて、腕が痛い。


 翌日は大麦を挽くだけでおわった。その次の日には、それをまた鍋へ戻した。といっても、今度は鍋のなかに、お湯もはいっている。

「これが難しいんです。腕が疲れて……」

 事実、大麦を炒るよりも、その作業は疲れるものだった。

 ミセス・バーリーが鍋の上に手をかざし、または顔をぱっと鍋へかぶせるようにして湯気にあて、温度を頻繁にたしかめる。彼女のビールの味の秘訣は、ここにあるのかもしれない。その機微は、フィリパにはまったくわからなかった。ただ、云われるがまま、かまどに薪を足したり引いたり、或いは木べらを動かしたりしているだけだ。

 しばらくすると、ひたすら鍋をかきまぜるのにも慣れてきた。体ごと動かすようにすれば、腕はさほど痛くならない。

 ミセス・バーリーは、真剣な目で鍋のなかを見ている。フィリパは絶えず、木べらを動かす。無言でいるのは気詰まりで、つい、思い出したことを口にした。

「先生、この間、聖書のお話をしていましたよね」

「ええ、そうでしたね。昨日も、読んでもらいました。みんないい子でね」

 ミセス・バーリーはしかし、顔をしかめた。まただわ、とフィリパは思い、云う。「なにかあったんですか?」

「いえ……わたしは文字を読めないから。どこまで読んでもらったか、わからなくなることが多いんです。毎日同じ子に読んでもらうのも難しいし、寝ているのを起こすのは、忍びないですし。だから、違うところを読んでもらっても、それで充分だと思わなくっちゃ」

 最後は自分にいいきかせるようだった。フィリパはなにも云えなかった。


「これで結構です」

「え、でも……」

「この後は、一晩かけて濾して、お鍋に戻してゆっくり火をいれながら、()()をとったら、パン種をいれます。それで、ひと月もすればおいしいビールを吞めますよ」

 ミセス・バーリーは、にこにこしている。「簡単なことなんです。根気が要るだけ。ずっとここで、ひたすら()()をとり続けられるかなんです。これまでの作業をお嬢さんがしてくれたから、わたしにはまだ力が残っています。あとは、ひとりでできますよ」

「まあ、約束と違いますわ。最後までわたしが手伝うという約束でしたよね」

「これだけしてもらったら、もう充分です。いえ、充分すぎます。お嬢さんみたいな高貴なかたが、これ以上、夜に家をあけるのはよくありません」

 ミセス・バーリーは有無を云わせぬ調子で、フィリパは黙る。彼女は優しい表情をうかべる。「お嬢さん。あなたはとっても優しくて、とっても気高いひとのように、わたしには思えます。もし、坊ちゃんが困っていたら、助けてもらえませんでしょうか」

「勿論ですわ」フィリパは答え、ちょっと苦笑する。「でもごめんなさい、先生。今のところ、わたしが助けられてばかりなんです。あのかたはなんだってお見通しだから」

「本当に。こうやって、気の優しいお嬢さんをお手伝いに寄越してくれて……」

 ミセス・バーリーは感激してしまったみたいで、声を詰まらせ、フィリパも鼻の奥がつんと痛いのを感じた。




 とぼとぼと、子爵につれられて、フィリパはウィロウ邸へ戻った。

「彼女は素敵なひとね」

「そう思ってもらえて嬉しいよ」

 子爵は心の底から、という声でそう云う。「僕が寄宿学校へやられる前に、彼女にはよく遊んでもらったんだ。使用人部屋にはいりこんでは、彼らが食べているものを一緒に食べてね」

 フィリパはくすくすと笑う。幼い子爵がそう云う行動をとるのが目にうかんだのだ。

「もっとああいった時期が長く続くと思っていたんだ。僕は爵位を継ぐのがはやすぎたよ」




 もしかしたら、彼がわたしと隠れて会うのは、使用人部屋へ忍びこむようなことなのかしら。

 寝る前に、髪を丁寧にブラッシングしながら、フィリパはふとそう考えた。どう考えても魅力に乏しい――というよりも、厄介が多そうな――自分と、こそこそ会う理由。使用人部屋へ忍びこんで、一緒に食事をとり、遊んでもらう。そんな感覚なのだろうか。

 そのことについて彼を問い詰める権利はない、と結論した。頭を振ると、ベッドサイドテーブルの聖書が目にはいる。

 しばらく考えた後、フィリパは化粧着を羽織り、ろうそくを手に裁縫室へ向かった。


 ダブルステッチを十五目。

 ひっくり返して、3◦1◦1◦3。リングとチェインを繰り返し、数を調整して角をつくる。またすぐに角をつくる。最初の列と向き合うようにしてあむ……。

「うん」

 フィリパは頷いて、短くなったろうそくを手に裁縫室を出る。




「まあ、まあ、まあ……」

 翌日、パン種と、前夜つくったものを持って訪れると、丁度ろ過した麦汁をつかって次の工程にすすもうとしていたミセス・バーリーは、いたく感激してくれた。

「ありがとう。ありがとうございます」

「そんな、大袈裟ですわ。あまり上手ではないけれど」

「滅相もない。わたしのような者の為に、まあ、こんなによくしてくれて。なんて素敵なんでしょう。ああ……」

 フィリパがつくったのは、しおりだ。きちんと技法を習った訳ではないので、やはり、単純なあみかたしかできなかったが、一応しおりらしい形状はしている。

「これをはさんでもらえば、次のひとがどこから読めばいいかわかります。ありがとうございます」

「喜んでもらえたら、よかったです」

 フィリパはそう云って、パン種を示した。「これもつかえないかと思って……」

「ええ、ええ、いれましょう。優しいお嬢さんのパン種なら、きっと今までで一番おいしいビールになります」

 ミセス・バーリーは袖で目許を拭い、ビーズのような目をきらきらさせて、微笑んだ。




「姉さん、お隣から、遣いだというひとが来てる」

 ひと月半経って、フィリパは弟にそう云われ、繕いものの手を停めた。向かいに座ったペギー・アンが顔を上げる。「姉さん、後はわたしが」

「ええ……お願いね」

 頷くペギー・アンを横目に、フィリパは裁縫室を出る。三男のエドガーが、はねるようにしてやってきた。前の日、お風呂だったので、髪の毛がふわふわしている。

「壜を持ってきてる」

「壜?」

 玄関ホールへ行くと、使用人と、見たことのない、しかし服装からどこかいいお邸の使用人だとわかる男性数人が話していた。たしかに、壜が沢山ある。

 見知らぬ使用人達が出て行った。フィリパはこの家を一応預かっているが、女だ。男であるエドガーが対応したので、それで充分だとあちらは判断したのだろう。

 フィリパは鼻先を掠めた香りで、はっとする。「お嬢さま、お隣の子爵さまが、今年のビールは特にできがいいので、是非と……」




「母は大喜びだよ。今までで一番おいしいそうだ。昨日も、ミセス・バーリーを呼んで誉めていた」

「よかったわ」

「もうひとつお礼を云わなくちゃ。彼女が(しゅ)の言葉と触れあう機会を、以前よりも楽しいものにしてくれたらしいね」

 大袈裟だわ、とフィリパは頭を振る。自分がやったことを、彼女はほんの少しはじていた。まるで、上等な人間のような振る舞いだった。先生に、聖書のことでやきもきしないでほしいだけだったけれど、傲慢な振る舞いだった。

 子爵は新調したらしいヘシアンブーツを、惜しむことなく小川の水に濡らした。丁度、小川の上に覆い被さるように、マルメロが熟れている。

「これは大袈裟じゃないぞ。君のパン種がよかったと、ミセス・バーリーは感激している」

「彼女の腕だわ」

「そんなことはない。僕も、今年のは今までで一番うまいと思う。君の焼くパンはうまいから、それで造ったビールがうまいのも、あたりまえと云ったらそうだけどね」

 子爵はマルメロを手に、ゆっくり戻ってくる。左脚の動きがぎこちない。フィリパはそれをじっと見ている。

「お嬢さん?」

「……昨日、フランシスからの手紙が届いたって、牧師さまの奥さまがいらして、弟の話をしたわ。その時においしいくるみをわけてくれたの。パンへまぜこんでみたんだけれど、いかが?」

 戴くよと子爵は微笑む。フィリパはそれに、自分も微笑んで、ちりちりと胸を刺すような痛みは忘れることにした。彼が使用人部屋へ忍びこむような気持ちでわたしと会っているからって、誰が文句を云えるの?











 ブックマーカー


 A:リング15

 B:ひっくり返してチェイン3◦1◦1◦3

 C:リング12◦3

 D:Bと同

 E:リング3直前のリングとJ9◦3

 F:ひっくり返してチェイン3◦3


 コーナーはBのあとリングをふたつ連続してつくり、ひっくり返してBをつくる。その際、直前のBの最後のピコとジョイントする。

 チェイン3◦1◦1◦3

 リングふたつ

 3J1◦1◦3

 リングふたつ

 3J1◦1◦3


 その後は向かい合うようにあんでいき、Bの部分は向かい合うBのまんなかのピコとつなぐ。

 3◦1◦1◦3

 3◦1J1◦3

 このように並んでいる。


 最後にB、Aと続ける。


 リングのまんなか五目を畝あみにすると、小さなハートが並んでいるように見える。




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― 新着の感想 ―
[良い点] これが、あのブックマーカーの回! あんな可愛いブックマーカーを貰ったらそりゃあ感激してミセス・バーリーも泣いちゃいますよ! ビールの話も面白いし、昔のイギリスの片田舎で毎日を過ごす人たち…
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