わたしの為に
こんなのが現実とは思えない。
フィリパはシャトルを動かしながら、頭のなかが整理されるようにと祈っていた。他人がなにかしら――説明でもなんでもいいから――してくれることによって。その他人が見ず知らずの人間でも、階級がまったく違う人間でも、この際どうでもよかった。
自分でなんとかするつもりは毛頭ない。何故って、考えれば考えるほどに混乱していくからだ。願わくば主の御業によって、わたしの頭のなかがすっきりと整理され、この情況もうまくまとまりますように。
主ならそれくらいのことはなんでもない筈だし、運命の星を動かしてわたしと子爵さまとをこんなに接近させたのだから、なにかしらの責任をとるのは義務というものだわ。約束を破った責任を人間に負わせるのであれば、ご自分だって責任感のある行動をとらなくては。
「フィリパ、こっちもいいみたいよ」
「え?」
フィリパは顔を上げ、傍の椅子に腰掛けて本を開いている女性を見る。シャトルを動かす手を停めることはない。
不思議なことに、頭が――もしくは気持ちが――ごちゃごちゃした状態であるのに、レースはするするとあみあがっていく。失敗はひとつもなかった。心配ごとがあって気持ちが落ち着かないからなにかしてそれを忘れたい、という不安が、わたしの手をまるで機械かなにかみたいに動かしているようね。
フィリパに声をかけた女性は、栗色の髪をきっちりと結って帽子を被り、その帽子にはバロック真珠のついたハットピンをさしていた。右手にはしゃれたペンを握り、先程から紙に落書きのようなことをしている。膝の上には手擦れが酷い本がひろげられていた。
彼女はにっこり笑って、テーブルに置いてある型紙を示す。
「さっきはこっちがいいって云ったでしょ? フォーチュナ・メジャーだって。でもこっちはラエティーシャで、こっちも凄くいい相なのよ。わたしの経験だと、寧ろこちらのほうがいいくらいで」
「ありがとう、サニー。でも、わたしはどれでもいいの。好みはあまり、ないのよ。ペギー・アンがなんとかしてくれることになっているから、彼女と相談してもらえないかしら」
フィリパは自分でもつめたく感じるような調子でそう告げたのだが、サニー……子爵の妹のソレイユは、にっこり笑って立ち上がった。気分を害した様子はまったくない。微笑みで頷いている。
傍に控えているメイド達が、本や型紙、ペンやインクなどを持つ。ペンはなにかしら特別なものらしく、ごく丁寧にやわらかい布で包んでいた。
サニーは可愛らしくお辞儀する。
「それじゃあ、ペギー・アンと相談してくるわ。彼女は素晴らしい裁縫の腕を持っているんですってね」
「あ……」
子爵の階級では、女性が自分の着るものを縫うというのは、あまり上品なことではないかもしれない。そう気付いたのだが、今更訂正は出来なかった。
それに、実際のところ、フィリパはなにもかもを家族に放り投げて、自分は隠れていたかった。お針子を雇うなんてこわい。家族以外をこの話に関わらせるのはいやだ。
いつ頓挫するかわからない、自分と子爵の結婚という話に。
フィリパは、自分で気付いていなかったが、いつの間にか子爵の使用人に味方を得ていた。そして子爵の妹のサニーも、フィリパの味方だ。
ミセス・バーリーは自分で云うだけあって、子爵邸でも古株の使用人だった。彼女は子爵の気持ちをわかっていたようで、遠からず子爵さまが結婚するかもしれないと、使用人達に喋っていたらしい。使用人達は、ミセス・バーリーが善良なひとであることを知っているし、彼女が持っているブックマーカーがフィリパの手になるものだと知って子爵との結婚を応援する側にまわった。
勿論、貴族女性はレースあみなど、簡単にしない。庶民のやることだ。子爵の階級らしいことではない。
だがそれ以上に、なんの為にやるのかが重要だった。布に縫い付けて飾るのでも、花瓶の下に敷いて滑り止めにするのでもなく、聖書を読む時の目印になるようにと、しかも自分の使用人でもない相手を思ってつくった、というので、ミセス・バーリーの話を聴いた使用人達は感激してしまったのだ。
当然、というのは変なのだが、フィリパが生まれる前、オレンジ・ゲージに子爵の両親が頻繁に滞在していた頃からミセス・バーリーは子爵家に仕えていて、だからフィリパがウィロウ邸の家族の一員だというのにも気付いていたらしい。フィリパは、父に似ているのだ。小柄で可愛らしかった母ではなく、いかめしい顔付きと険のある目許の父に。
ミセス・バーリーは、子爵の母がウィロウ邸に対してあまりいい印象を持っていないことも知っていた。だからまず、使用人達を味方にすべきだと考えていた。
彼女は自力で字を読めないだけで、頭が悪い訳ではない。子爵の母が誇り高く、優しく、繊細な人間だとわかっている。使用人達に意見されれば、一度立ち停まって、その意見を真剣に聴く人間だとも。
そんな訳で、ミセス・バーリーは一世一代の賭けに出た。ビールの出来を誉めていた子爵の母に、ビールのご褒美をねだる、という。
フィリパがビール造りをしていたことも、息子をそのご褒美に渡してやってほしいと云われたことも、子爵の母には衝撃だった。貴族の若い娘は家事などしないから、おそらく彼女はビールがどう造られるかも知るまい。それに、ご褒美に結婚するなんて話は、おとぎ話の世界ではないか。だから彼女は、上品な貴族女性らしく、気を失った。
サニーが持ってきた気付け薬を子爵が嗅がせ、目を覚ましたものの、子爵の母は激しい感情を抑えるのに苦労しているようだった。
フィリパはなにもできず、おろおろしていた。タティングの道具をいれたバスケットを放り出し、子爵の母を抱き起こすのを手伝おうと思ったが、そんなことをしたらまた彼女が気を失うのではと思って出来なかった。自分だったらそうなるかもしれないと思ったのだ。子爵から彼女の誤解について聴いていたので、刺激するような行動は控えたかった。それに、あまり上品ではない。
子爵の母が、よこになりたい、と云ったので、その日はフィリパは家へ戻った。オレンジ・ゲージの前には、弟達が迎えに来ていた。ジュリアンとエドガーとガブリエルが。
今、フィリパはその、オレンジ・ゲージの、サロンに居た。彼女の弟達、妹達も、この家を訪れている。弟達――さいわい謹慎が解けたジュリアンはもう居ないが――は子爵と一緒に、親族や村の誰に招待状を出すかを吟味し、妹達はフィリパの支度の相談を、オレンジ・ゲージの使用人達と重ねていた。そこに、サニーもまざるのだろう。
フィリパはレースをあんでいる。黙々と。
頭のなかはごちゃごちゃしているが、彼女の手の動きにはやはり狂いはなく、目を数え間違うことも失敗することもなかった。人間離れした正確な動きだ。
そのことをフィリパは、今に限って残念に思った。もっとつたない手さばきで、もっとへただったら、きっとわたしはこのレースをあむのに集中できていただろう。そうしないと糸を糸くずにしてしまうから。糸が無駄になるから。でも実際のところ、わたしはばかみたいに器用にこんなことをしてる。だから頭が整理されない。余計なことを沢山考えている。
サニーはとても楽しいひとだ。そして、かわっている。かわっているという言葉では足りないくらいにかわっている。
令嬢だというのに、彼女は「冒険」というものにひどくあこがれているらしかった。よく、メイドをおともにして庭をうろつきまわっては、大蛇が居たかもしれないなどと云う。実際はちっちゃなみみずなのだが、彼女は冒険気分を味わってご機嫌になる。
冒険といっても、彼女がやりたいのは物語の、海賊や暴漢と戦う派手な見せ場があって、宝物を手にいれる、というようなものではない。海峡をひとりでヨットで渡るとか、グランドツアーをするとか、インドの奥地でおそろしい動物を発見するとか、そういった「実際の」冒険をやりたがっていた。彼女はレディ・フェザーストンハフや、アン・ラドクリフを崇拝している。
と同時に、愛読書は「哲学的マーリン」という、神秘主義かぶれでもあった。あまりおおっぴらに出来ることではないが、彼女はすでにフィリパを家族に迎えたつもりだし、そういうことに煩い母親にはうまく隠しているらしい。お得意の占いでは、フィリパが眉をひそめるという相は出なかったようだ。
フィリパは彼女が――義理の妹になるかもしれない相手が――よくわからない異教の占いに手を出しているのを、あまりいい気分では見ていられない。キリスト教的ではないし、占いや霊媒は禁じられている。
しかめ面になって、苦しんでいるひとが文字を書こうとして出来なかったような奇妙なものを紙へいたずらに書き付け、それを見てラテン語らしきものをもにゃもにゃとつぶやくのだから、尚更だ。なにをしているのか見当もつかないことは、見ていて愉快ではない。それにしても貴族というのは、女性にもラテン語を習わせるのだろうか……。
反発という程ではないが、諸手を挙げて賛成することもできない。しかしサニーが、「これで兄さんとあなたの結婚は大吉だってでたのよ。だからわたし応援してるの」とあっけらかんと云ったので、強くはでられないでいる。とはいえ、あれを辞めさせないと、かわった縁談しか望めないのではないだろうか、という余計な心配はしていた。
おかしなことばかりしているサニーだが、フィリパは彼女を憎むことは出来ない。サニーは優しく、感動屋で、純粋な女性だった。いいひとなのだ。おかしなことを口走るのは仕方ないと割り切って、フィリパは彼女とは親しくしていたかった。今後がどうなるかは別として。
ひとの結婚を心配するよりも、自分のことだ。フィリパは頭を振り、いつの間にか相当な長さになっていたブレードをとりあげる。
溜め息を吐いた。シャトルにはもう、ほとんど糸がない。さあ、問題が山積しているのに、そこへもうひとつ問題は放り込んでしまった。一体全体このレースはなににつかえるの? フィリパ、あなたってものを考えているの?
サニーの応援もあったし、子爵の使用人達はミセス・バーリーのおかげでフィリパの味方だった。
そして、そこまで味方をつくったフィリパ当人が悪い人間であるとは、聡明な子爵の母親は考えなかった。子爵とサニーの母親なのだ。愚かな人物ではありえない。
しかし、彼女はまだ誤解していた。亡き夫が、フィリパの母に恋心を抱いていたのではないか、と。その為に、結婚を認める気にはなれなかった。そしてそれを訂正するには、誤解がはじまってからあまりにも長い時間が経っていた。その考えが正しいと思い込めるくらいに。
だが、子爵は諦めなかった。
フィリパが不安な気持ちでウィロウ邸に居る間に、彼はロンドンへ行き、父親の友人だった男性達の証言をとってきたのだ。強力な、サインのはいった書類という形で。
証言をしたなかには、大臣をしている人物も居た。それ以外も、政治に疎いフィリパでも、新聞紙で名前を見たことがあるようなひと達が数人含まれている。
彼らは、子爵の両親が結婚する前から、子爵の父と友人関係にあった。
そして、子爵の父が子爵の母と出会い、どうかわっていったか、どれだけ彼女を愛していたか、どれだけ子ども達を大切に思っていたか、それを知っていた。
子爵の父は生前、ロンドンのエスチュアリー・クラブにたまに顔を出していたのだが、そこでの話題は常に家族のことだった。そのクラブは家庭での話題を好むひとが多かったそうで、子どもの教育やなにかについて愚痴大会になりがちだったのだが、子爵の父だけは常に家族の素晴らしさを喋っていた。
彼のなやみも、仲間達は垣間見ていたようだ。子爵の父は、自分が家族をしっかり愛している自信がないとこぼしていた。
子爵の母は諸々のこと、だから、子爵の父の友人達、そしてエスチュアリー・クラブの面々の証言、そして父親に口止めされていたサニーの証言――母さんには云わないでくれと頼まれていたらしい――、使用人達の言葉などで、少しずつ考えが揺らいでいった。
最後のくさびは例の手紙だった。彼女はあれを一度、ざっと目を通すだけで、おそろしくなってしっかりとは読んでいなかったのだ。拒否したが、反対するのならば読んでほしいと子爵に懇願され、彼女は渋々、あれを読んだ。
手紙の内容はフィリパも知っている。たしかに、誤解しても仕方ないものだ。なにもなくて、ほとんど交流のない家族のことを、特にその子ども達をなんとかまもってほしいなどと、息子へ頼むだろうか。
そのことは子爵の母も云ったそうだ。だが、子爵はそれには頷いたものの、切り返した。なら、そんな無関係の人間によくやってくれと密かに頼むのだから、理由があるのならはっきり書くのではないか、と。
もし、なにか不適切な関係があった、というのなら、これは僕に対して密かに送られる筈のものだったのだから、それをはっきり書くのではないか。そうしたほうが僕が、支援をするにしてもしないにしても、判断材料になる。お父さんがそういうことを隠す人間だったとは思えない。
フィリパにはわからないことだ。だが、家族にはわかることだった。子爵の母はそれでだいぶ、ゆらいだ。
サニーが――当人に口止めされ、誓いまでたてていた為に話せなかった――父の言葉を伝え、子爵の母は渋々だが、息子とフィリパの結婚を認めた。
子爵は、本当を云えばそんなことをしなくてもいいのだ。彼はもう成人だし、フィリパもそうである。けれど、フィリパが譲らなかった。あなたのお母さまに認めてもらえないのなら、結婚は出来ない、と。結婚とは、個人のわがままでするものではないのだ。
わたしのわがままで彼に負担をかけていいものだろうか?
「お嬢さん、また、愛するものに夢中だね」
顔を上げ、右方向を見ると、戸口に子爵が立っていた。彼はゆっくりと這入ってきて、フィリパの斜のソファへ腰掛ける。フィリパはシャトルに残っていた半端な糸で、ペギー・アンへつくったことのある蝶のモチーフをあんでいた。
子爵と目を合わせると、不安や心配がするすると溶けていく。おそれているほどのこわいことは起こらないのだろう、と、どうしてだか思えた。
けれど、すべては溶けきらず、小さな欠片が残った。
不安でも心配でもない。これは怯えだ。彼に迷惑をかけているし、結婚すればもっと迷惑をかける。わたし達は階級が違う。どうして結婚を承知したの? そんなに愚かだったの、フィリパ?
その怯えの原因はわかっていた。彼は未婚の伯父の、相続人でもあるのだ。彼の伯父は伯爵だった。それも、由緒正しい。伯父が亡くなれば、彼はそちらの爵位も受け継ぐことになる。あのばちあたりな――或いは原理主義的すぎて人間社会というものに適応できていない――ジュリアンでさえ、その名前を聴いて唸ったような、歴史の古い爵位だ。
彼の伯父は独身を貫いており、結婚する気配はないらしい。すでに数年、保養地を転々とするような生活だそうだ。いつ彼に伯爵位が転がり込んできても、おかしくはない。そんなひとに、わたしが嫁ぐなんて、なにかの間違いとしか考えられない。夢かなにかだとしか。
結婚は愛に基づいて行われるものではないわ。家同士の釣り合いというものが、どうしても存在するのよ。
フィリパは顔を伏せる。わたしには問題が多すぎる。年齢は高いし、階級は彼と違う。それに、まだ世話をしなくてはならないおとうと達が大勢居る。ウィロウ邸を彼らに引き継ぐまではなんとか踏ん張ろうと思っていたのに。わたしが結婚したら、邸はどうなるの? フランシスとジュリアン、それにペギー・アンはともかく、あとはまだ子どもなのに。
子爵は左足首が右足の膝の上に来るようにして、フィリパへいたずらっぽい目を向けていた。「君がなにを考えているか、あててみせようか」
「……なにかしら。わかる?」
「わかるよ。君は家族のことを考えている。正確に云えば、家族のことを心配している」
いいあてられて、フィリパは動揺した。シャトルがつるりと滑り、左膝の上へ落ちる。左脚がびくっとはねるみたいに反応した。
子爵は、そして将来的には伯爵にもなるバーソロミューは、寛いだ様子で背凭れに身を預けた。
「なにも心配は要らない。君は僕のやかましい妹と、ゆっくり結婚式について相談してくれたらいい。母も、今、招待客を選定しているよ。君と僕の結婚を認めてくれたんだ」
「それは……それは、ありがたいことだわ」
「そう云ってもらえて嬉しいよ。君がありがたいと思っているように見えないのは、淋しいけれどね」
フィリパは口を開いたが、噤む。子爵は彼女を待ってくれた。このひとはどうして、わたしのほしいものをくれるのだろう、と、フィリパは不意に疑問を持った。このひとはわたしのほしいものを、わたしが夢見ていたようなものを、過不足なく備えている。
いいえ、過分なものがあったわ。彼の爵位、身分、地位、名誉、それらに伴う財産。それがなかったらどれだけ、結婚に対して前向きになれるだろう。
フィリパはういてきた涙をさっと拭いてごまかし、顔を背けた。「あなたの欠点を見付けたわ」
「結婚するのを泣いていやがるほどの欠点かい?」
「あなたはどうしてそんなに立派なお家柄なの? その爵位というものをどうにかできないものかしら。いらいらしてしまう」
洟をすする。「率直に云うと、子爵さま、わたしは尻込みしているの。怯えているのよ」
「それは、結婚前の女性にはめずらしくない状態だと聴いている」
「わたしのような環境の女はめずらしいわ」
「そこでわたしみたいな者は居ないと云わないのが君の聡明なところだし、君の言葉をかりれば欠点でもあるよ。君は分別がある。だが、ありすぎる」
思いがけない言葉に、フィリパはちょっと笑い声をたてる。だが、段々とそれは泣き声のようになり、結局彼女は洟をすすって一旦口を噤んだ。それから、苦労して、震えないように声を出す。
「分別を持ちなさいと叱られたことはあるけれど、分別がありすぎると云われたことなんてはじめてよ」
「結婚はね、お嬢さん」子爵は肩をすくめる。「僕の友人達や、親戚や、新聞紙に載る記事を見ていて思うのだけれど、分別がある人間ならしないことだよ。面倒が多すぎるし、愚かな争いやばかばかしい諍いを引き起こす原因にもなる。場合によってはひとが死ぬ原因にもなる」
フィリパはなにか云い返そうとして、はたと動きを停めた。今、わたしは云い返そうとした。どうして? 結婚をこわがっているのに、どうして云い返そうとしたのかしら。
子爵の目は優しげに笑っている。
「お嬢さん、君は僕に云い返そうとしたね」
「……ええ」
「それは君が、ご両親を見ているからだ。愛し合うフランシスとイヴリンや、エレンとアリステア・ホーク、それに不義理なことに僕が名前を覚えていないこの村の、仲睦まじい夫婦達を見ているからだよ。君は結婚のいい面を知っている」
子爵の云うことは理解できた。だからフィリパは頷く。子爵はそれににこっとして、左手を肘掛けへやる。
「さっき僕は、結婚はひとを死なせる原因になると云ったけれど、もっと普遍的な意味合いがあるね? 結婚によって、命がうまれることだってある」
子爵は左足の靴底を床へつけた。「勿論、結婚できなかった愛し合うふたりだって存在する。愛し合っていても子どもを持てないひと達も。愛のない結婚、単なる便宜的な結婚をするひと達も存在するだろう。だが、僕らが結婚の哀しい面や、宜しくない部分にばかり目を向けるのは、愚かしいことだ。それは間違いだと僕は思う」
「それは……そうかもしれないけれど」
「それにね、お嬢さん。ほんの五十年前には、今みたいに多くのものを機械でつくっているなんて、誰も想像もしていなかった筈だ。五十年後はやっぱり、想像もできないような社会になっているだろう。その時、僕は君と一緒に居たい。君が同じ気持ちで居てくれたら嬉しいのだけれど」
子爵は小さく息を吐き、微笑んだ。
「いずれにせよ、主だって子ども達をめあわせたんだ。結婚は祝福された行為だよ。君のキリスト教精神に基づいて、僕を救ってはくれまいか?」
フィリパは泣きそうになりながら、もじもじと手を遊ばせる。
「わたしだって、愛が大切だと云うことはわかっているわ。家族が神聖なものだということも」
「君はそれに関しては第一線のひとだ。家族を大事にしている」
「冗談にしないでほしいの」
「冗談なんて云っていない。君は心配しすぎるところがあると云いたいんだ」
見詰めると、子爵は真剣な目になって、声を低めた。「君の心配はわかっている。自分がウィロウ邸を去ったらどうなるか、だろう?」
どうしてこのひとはなんだってお見通しなのだろう、と思いながら、フィリパは頷く。彼もそうした。
「だから、この間その話をした。僕は、君のきょうだいを寄宿学校へやることを提案したよね」
「お金がかかるわ」
「それは心配しなくていい。君のきょうだいはもっと高度な教育をうけるべきだと僕は思う。彼らは勉強に対して意欲的だ。ガブリエルは、あみもののほうが好きみたいだけれどね」
「でも、そんなことをしてもあなたにはなにも得はない」
「君は得だから、きょうだい達の世話をしているの?」
核心を突かれ、フィリパは口を噤む。たしかに、損得できょうだいのことを考えたことはない。
子爵は優しく云った。
「君は自家撞着を起こしているよ。損得で考えるのなら、君は大喜びで僕と結婚しなくてはならない。母の意向なんて考えずに。いや寧ろ、母が反対した時に、彼女はわたし達のことには関わりないわと云って僕にすがりつかなくてはおかしかった」
「子爵さま」
咎めるように云ってしまって、フィリパはそれを一瞬で悔やんだ。どうしてわたしはいつだって、こう、口幅ったいことばかり云うのだろう。
子爵に怒った様子はない。傷付いてもいないようだ。どうやらわたしに叱られるのを面白いことだと思っているようね、と、フィリパは彼を軽く睨む。彼は大仰な身振りをする。
「僕にとっては、君のきょうだいは家族だ。それに、君のきょうだいは無条件に愛さずにいられない、可愛くて楽しいひと達ばかりだよ。僕がジュリアンやエドガーとどれだけ楽しい時間を過ごしたか、君に話したいけれど、嫉妬されたくないから黙っているだけなんだ」
「あなたって……」
「君が苦労しても、彼らを放り出さなかったことが、その一番の証明じゃないか?」
反論は出来なかった。実際のところ、本当の意味でどうしようもない、ろくでもない子がひとりでも居たら、自分はどこかでぽっきり折れてしまっていただろう。髪を振り乱して村から飛びだし、二度と戻らなかったに違いない。わたしはわたしの短気なところを知っている。
「君が彼らの世話をするのだから、夫になる僕が君の手伝いをしたっていいだろう」子爵は悪だくみする子どもみたいな表情をうかべた。その悪だくみは、いかにして親戚の裕福なおばさんから1ペニーもらうか、程度のものだが。「君のきょうだいを世話することは、僕にとって、おおいなる喜びになるだろう。……それに、可愛いお嬢さん、君が思っているほど彼らは子どもではないし、分別だって充分に備えているよ。だから僕と安らかな結婚生活を営む為に、君の分別をどこかその辺に、半分くらい捨ててきておくれ」
気持ちがすべて解れた訳ではないけれど、楽になったのは事実だ。
「姉さん、きつくはない?」
「ぴったりよ、ペギー・アン」
ペギー・アンは満足そうに鼻を鳴らす。彼女はパリの仕立屋もかなわないくらいの腕前でもって、姉の花嫁衣装を縫い上げてくれた。
結婚式まではあと五日、すでに準備は整い、各地から招待客がスプールズヒル村へ集まっている。村の宿屋は子爵の寄宿学校時代の友人や、軍での関係者など、突然訪れた多くの客に嬉しい悲鳴をあげていた。部屋が足りず、牧師館や農家の納屋を借りる者まであらわれている。そのなかには、子爵の型破りな友人だけでなく、ロンドンからわざわざやってきた新聞記者も含まれていた。
フィリパの親戚のうちの数人はウィロウ邸に泊まり、彼女の幸運を祝ってくれたし、姉の結婚に姿を見せそうにないフランシスとジュリアンにぷりぷりしていた。女性達は特にその傾向が強い。
子爵の親戚はオレンジ・ゲージに居るので、フィリパは一応顔を合わせたのだが、総じて穏やかで物腰の柔らかいひと達だ。
話題に度々上っている、子爵の母方の伯父は、具合が悪いそうだが優雅な馬車でやってきてくれた。彼は何故だか、無口なペギー・アンとお喋りなエレンの組み合わせを多いに気にいったらしく、エレンとアリステアの結婚式までは生き延びると云ってふたりを笑わせ、子爵を驚かせた。人嫌いの伯父がここまで気にいるなんてね、と。
フィリパが試着している花嫁衣装は、上等なクリームのような色の、絹の生地をつかったものだ。襟ぐりが深く、身頃は体にぴったりとしている。スカート部分は完全に脚が隠れる長さで、サニーがつくったというオレンジの造花が腰の辺りに縫いとめられていた。
サニーが満足そうににこにこしている。「じゃあ、これでいいわね。仕上げはわたしとペギー・アンでやるから、フィリパは心配しないで」
「あら、でも少しくらい……」
「いいから、はい、腕を伸ばして」
フィリパはあっという間に花嫁衣装を脱がされ、しゃれた深い青のドレスを着せられた。オレンジ・ゲージのメイド達がくすくすと、あまりにも楽しそうに笑っている。ペギー・アンは、伯爵さまから戴いたと喜んでいた、エレンとお揃いのハットピンを、丁寧に帽子に刺し直していた。
「ねえ、これは?」
「手袋は、お母さまのつかっていたものを用意したし、指環も我が家に伝わるものがあるから問題ないわ。少し黄色っぽいダイアモンドでね、めずらしいものなんだけど、台座がいまいちなの。ああでも、あなたのサイズに直してるし、気に入らなかったらとりはずして、あたらしいものにしてもいいんだからね」
「サニー?」
「え?」
「このドレスは、わたしのものではないわ」
「ああ、それはわたしが注文したの。お姉さんが出来るなんて素敵じゃない!」
サニーは発作的な笑い声をたてて、フィリパの手を掴んだ。「しかももっと素敵なことに、妹もつれてきてくれたんだもの。わたし、姉や妹に、こんなドレスが似合うんじゃないかしらって選んであげるのが夢だったの!」
サニーがあんまりにも開けっぴろげなので、フィリパは辟易してしまった。悪い子ではないのだが、やはり、かわっている。
裁縫室を追い出され、フィリパは子爵が雇ってくれた専属のメイドふたりと庭に出た。ヴェールに縫い付けるレースをあみあげたのは昨日だ。今日はヴェールにそれを縫い付け、調える作業を朝からしていた。ほとんど縫い終わったのだけれど、気分がなんとなく沈んでしまっていて、続きをするつもりになれない。
ふと、サニーがしゃれたハンドバッグを持っていたことを思い出した。あの蓋に、この間つくったブレードを縫い付けたらどうだろう。丁度その為につくったみたいなブレードじゃない……。
「姉さん」
エドガーとガブリエルが走ってきた。「隠して、隠して」
「あら、どうしたの? まあ、あなた達の大きさじゃあもう無理よ」
弟達が自分の後ろに隠れようとしていて、フィリパは笑ってしまった。見れば、顔をまっかにしたエレンが、肩を怒らせてやってくる。まだ猩紅熱から一年も経っていないが、随分元気になった。
「エドガー、ガブリエル! あんた達ってどうしてそう、いつまでも子どもみたいな振る舞いをするの!」
「そりゃ」
フィリパのせなかから、随分背の高くなったエドガーが顔を出した。「君みたいに婚約してないからだよ、エレン。僕らまだ子どもだ」
「一生子どもで居たら?」
エレンは鋭く云いはなち、くるっとフィリパに背を向けて、来た道を戻っていった。はなれたところで、背の高いアリステア・ホークが、困ったように頬を撫でている。どうやら、エレンとアリステアの楽しい時間を、悪がきふたりが邪魔したようだ。
フィリパは振り向いて、弟ふたりを軽く叩いた。ふたりはまったく堪えていないようで、くすくす笑う。フィリパも最後には、笑ってしまった。結婚式まであと五日しかないのに、この子達にとってはそんなのどうでもいいんだわ。
でも、わたしにとってもどうでもいいことになった。
結婚しようがしまいが、わたしが子爵さまを愛しているのはかわらない。だったら、彼がしてほしいという結婚をしよう。そうすることで、法的に彼と結ばれるのだったら、わたしにとって悪いことはない。
弟達が屈託なく笑うのを見て、最後まで残っていた怯えが溶けてなくなった。彼の云うとおり、おとうと達はきっと、わたしが居なくたってなんとかなる。この子達をわたしの臆病の理由につかってはいけない。ほら、あなたって愚かね、フィリパ。そんなことに気付くのに、どれだけの時間をかけているの?
結婚式の前日、牧師館の飾り付けをする予定だったのに、フィリパはそれから仲間外れにされた。妹達――サニーも含まれる――とイヴリンがやってくれるそうだ。
何故仲間外れになったのかというと、子爵の母が彼女を呼び出したからだ。フィリパは少し緊張して、オレンジ・ゲージの女主人の居間に居た。結婚が成立し次第、彼女のものになる部屋だ。居間は子爵の母がつかっている。
子爵の母は、明日には娘になるフィリパを、じっと見ていた。フィリパはソファに腰掛け、シャトルをいじっている。ブレードはどんどん長くなるが、それをつかう時が来るかどうかはわからない。ヴェールは完成し、ペギー・アンが「調整する」と持っていってしまった。
「フィリパ?」
「はい」
顔を上げると、子爵の母は魅入られたようにフィリパの手許を見ていた。「それは凄いわね」
「は? ……いえ、そんなことはありません。どなたにでも出来ます」
「あなたは素直な子みたい」
なんと答えるべきかわからず、フィリパは口を噤む。子爵の母はにっこりした。
「ごめんなさい。わたしには問題があってね。自分に自信がないの。自分でも呆れるくらいに。その為にまわりに八つ当たりしてしまうことは今までもあったわ。それで、あなたのご家族を悪く云ったの。そのことを謝りたかった。あなたのご家族も、あなたも、親戚になりたくないようなひと達ではないわ」
「……あの」
「わたしは、おいしいものをつくるひとを信用しています、フィリパ。とてもおいしいピファーナをつくるお気にいりのレストランがあったのだけれど、味が落ちて行かなくなったの。あとで、そこの料理人が借金をつくってもめごとを起こし、馘になったと聴いたわ。食べものにはそう云う味が出てしまうのよ。あなたは素直で、正直なひとだわ」
子爵の母は頷く。「勿論、わたし達の階級の人間が家のことをするのは、率直に云ってみっともないけれど……あなたが隠れてビールを造ってくれたら、わたしはとても嬉しいわ」
胸のなかになにかあたたかいようなものがあって、フィリパは声が出なかった。項垂れていると、子爵の母は彼女の隣に移動してきて、フィリパのせなかに骨張った手をあてた。本当の娘にするように。
結婚式の朝、支度の為にはやく目を覚ましたフィリパは、ペギー・アンとエレンがにやにやしているのになんとなく不安を抱いた。
「どうしたの? ふたりとも?」
「いいえ、なんでも」
「姉さん、はやくきがえたほうがいいわ」
ふたりに促されて歩く。支度室では、サニーとメイド達、それにイヴリンが待ちかまえていた。フィリパは口を開き、また閉じる。
そこには……数日前に見たドレスとは違うものがあった。
違う、と思ったが、ドレス自体はかわりない。そうではなく、淡い青のレースが随所に追加されている。襟にも、袖にも、腰のところにも、裾にも。
「これは……」
近付いていってたしかめ、機械編みではないとわかった。ピコットが不揃いだし、ところどころ目が飛んでいる。
なにより、フィリパがいたずらにあんでは道具いれに仕舞いこんでいるブレードを真似したものなのだ。これは、もしかして……。
エレンを振り返る。「あなたなの?」
「わたしと、フローレンスとフレデリカよ。イブリンが糸始末を全部請け負ってくれたから、すぐに出来たの。姉さんへの感謝をこめて……」
エレンは肩をすくめる。「アリステアに、ロンドンで綺麗なレース糸を買ってきてもらったの。ぎりぎりになって焦っていたのに、エドガーとガブリエルったらふざけて邪魔をするんだから」
「まあ」
「でも、あのふたりも、これを」
ペギー・アンが手袋を示した。手袋には控えめだけれど、レースがついている。いつか、フローレンスにあんであげたものだが、大きさや糸が違う。
ペギー・アンが首をすくめる。「わたしは縫い付けるくらいしか出来なかったけど、姉さんへの感謝は一緒よ」
フィリパはもう、言葉がなかった。
準備を調え、礼拝堂へ足を踏みいれると、フィリパは祭壇の前に子爵の姿をみとめた。参列者のなかに、軍の制服のフランシス、野暮ったい正装のジュリアンを見付け、フィリパは息をのむ。ふたりはにこにこしていた。どちらも、慌ててきたのがまるわかりだった。ジュリアンに関しては、今日髪に櫛をいれた様子がない。
「すごい衣装だね」
誓いの言葉のあと、牧師がふたりの結婚を認め、ふたりは外へ出た。花びらやコンフェイトシュが降り注ぐなか、子爵がこっそり、フィリパに耳打ちする。フィリパは咽の奥からこみあげてくるような笑いをこらえていた。微笑むのはいいけれど、大声で笑うのはみっともない。そうして、低声でやっと、答えた。「みんながつくってくれたの」それ以上云うと、笑いたいのに泣きそうで、フィリパは息を整える。彼の云うとおりだった。なにもかも。みんな、わたしが居なくたって大丈夫だし、わたしはみんなに愛されている。なにもからまわりしていない。わたしはなにも、怯える必要はない。「みんなが、わたしの為に、してくれたの」
子爵は優しい目でフィリパを見た。「君はそれだけの価値がある人間だよ。知っていた? フィリパ、僕のお嬢さん」
自分の為のブレード
シャトルと糸玉をつないだ状態ではじめることが出来る。
A:リング 6◦4◦3◦7
B:ひっくり返してチェイン 10
C:リング 3J(Aの最後のピコットと)7◦7◦3
D:Bと同じ
E:リング 7J(Cの最後のピコットと)3◦4◦6
F:ひっくり返してチェイン 12◦3◦3◦12 引き締めすぎないこと
これでひと模様。必要なだけ繰り返す
ブレード
シャトルと糸玉をつないだ状態ではじめることが出来る。
A;リング 15◦15
B;そのままチェイン 20 Aのピコにシャトルつなぎする
これを繰り返す。
バッグの蓋の縁飾り
シャトルと糸玉をつないだ状態ではじめることが出来る。
A;20◦4
B;ひっくり返してチェイン 16
C;4J3◦3◦4
D;ひっくり返してチェイン 8
E;4J16◦4
D、B、C、D、E、D、C
F;2◦2J2◦2◦2◦2◦2◦2
G;ひっくり返してチェイン 6◦6
H;4J(Fの最後から二番目のピコと)6◦4
G、F、G
I;2J4◦2 このリングでカーヴをつける
G、F、G、H、G、F、G、H、G、F、D、B、C、D、E、D、C、E、D、C、B
J:4◦20




