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ひとつ目――妹の帽子飾り




 レンジの前に立ってお湯をわかしていたフィリパは、階上からの声に我に返った。

 大鍋のなかで、湯が煮えたぎっている。いやだわ、わたしったらぼんやりして……。

 彼女は大鍋を、かけ声とともに持ち上げ、床に用意してある浴槽へ中身を注ぐ。それから、レンジの脇に置いてあったもう一方の大鍋をずらす。からになった大鍋は、レンジの脇へ置いた。桶をつかって、水がめからそちらへ水を移す。スプールズヒル村にある、ここ、ウィロウ邸では、今日は週に一度の入浴の日だ。

 一番風呂はフィリパの弟で三男のエドガー、その次が四男のガブリエル。ふたりの入浴が終わってまだ気力が残っていたら、わたしもはいるかもしれない。


 彼女はあまり、風呂というものが好きではない。チフスの防止に大事なことと云っても、用意に尋常ではなく時間がかかるからだ。

 弁護士のすすめでメイドの数を減らした今、フィリパは自分で多くの家事をこなしていた。そうしないと、亡き父の残した財産があっという間になくなってしまう。そろそろ、底をつきそうなのだ。

 弟で長男のフランシスは軍へ、次男のジュリアンは神学校へ行って、もうしばらくすれば家にお金をいれてくれるだろうが、そればかり当てにする訳にもいかない。


「姉さん」妹で三女のエレンが、お下げを揺らしてキッチンへやってきた。「手伝うわ」

「ううん、危ないからはなれていて」

 フィリパは微笑み、妹を追い払おうとする。「大丈夫だから。エドガーを呼んでくれる?」

 エレンはにっこりして頷き、出て行った。が、すぐに困り顔で戻ってくる。「姉さん、エドガーとペギー・アンが喧嘩してる」




 フィリパが二階へ行くと、妹で次女のペギー・アンと、弟で三男のエドガーが罵り合っていた。フィリパはペギー・アンの頬を軽く叩き、エドガーには階下へ行って入浴するようにいいつけた。ふたりは不満そうだったが、エドガーが鼻を鳴らして出て行ったので喧嘩は終わった。先程、フィリパがもの思いからさめた原因になった音も、ふたりの喧嘩だったのだろう。

 ペギー・アンとエレンが一緒につかっている部屋だ。古くさいカバーを掛けたベッドがふたつある。ペギー・アンはそのひとつに腰掛けて、口を尖らせ、忙しなく手の甲で涙を拭っている。「ペギー・アン」

 戸口の辺りからフィリパが呼んでも、妹は顔を伏せて応えない。ペギー・アンのうなじの、短い髪の毛が、ふわふわしていた。妹はつい最近、髪をアップにするようになった。ベッドには帽子が放り出されていた。

 フィリパは妹の隣に腰掛け、根気強く、なにがあったのか、と訊いたが、妹は口を噤んでいた。




 午后、フィリパは洗濯物を干し、それが終わるとかごを手に庭をうろついた。妹達――ペギー・アン、エレン、双子のフローレンスとフレデリカ――も手伝ってくれたが、ペギー・アンは終始不機嫌で、しかしなにも喋ることはなかった。フィリパはこれまでの経験で、ペギー・アンが黙ろうとすれば幾らだって黙っていられるのを知っている。ジュリアンがよく、ペギー・アンが軍人になればいいと云っていたものだ。彼女なら拷問されたって口を割らないさ。

 フィリパは野いちごを見付け、摘む。去年もこの辺りで見付けたので、今年も、と期待していた。蜂の巣もあるかもしれない。運がよかったら、夏にははちみつを食べられる。

「おや、可愛い泥棒さんだな」


 びくっとして振り返ると、何重にもなったケープを肩にかけた、若い男性が立っていた。

 フィリパは顔に血が集まるのを感じる。間の悪いことに、彼女は帽子を被っていなかった。ずっと被っていると頭痛がしてくるのだ。誰もいないだろうと思って、髪もおろしていた。

「あの……」

 か細い声が出た。男性は、二十五・六歳だろうか。身長は標準よりも少し高く、体に厚みがある。なにかスポーツをしているような雰囲気だ。

 彼は、フィリパに同情するような目を向ける。それから訝しげになった。

「もしや、ウィロウ邸のお嬢さんだろうか」

 フィリパは頷いて、顔を伏せる。男性は礼儀正しく目を逸らした。「そうか、敷地の境界線があやふやになってしまっているんだね。お嬢さん、ここはもうあなた達の敷地じゃない。あの糸杉からこっちは、我が家の敷地だ」

「まあ」

 フィリパは彼の示す糸杉を見、体を縮こまらせた。お隣はずっと、使用人が邸の手入れをしているだけで、家主が姿をあらわすことはめったになかった。しかしたしか、子爵の持ちものだ。ということは、このかたは子爵さまなのだわ。

「申し訳ございません」

「いや、放っておいたこちらもよくないのだから」

 子爵は鷹揚に云い、なにを思ったのか、フィリパに近付いてきた。彼女は後退る。

 彼は微笑んだ。「よかったらその野いちごをもらえない? しばらくぶりに庭をうろついたので、咽が渇いていてね」




 まともな神経の女性なら断るだろう、とフィリパは、並んで小川のほとりに座り、膝の上のかごから時折、野いちごを子爵へ渡しながら、考えている。このような会談ははずべきものだ。帽子も被っていない未婚の女が、名前も知らない男性と並んで座るなんて。歳をとって、はじらいの気持ちがどこかへ消えてしまったんだろうか。

 子爵は不思議と、そういうあれやこれやを気にさせなかった。ふたりはまるで、きょうだいか、古くからの友人みたいに、自然にそうしていた。

「君の……失礼、妹さんは四人?」

「ええ。上から、ペギー・アン、エレン、フローレンスとフレデリカよ」

「さぞ、お喋りが楽しいだろうね」

「それがそうでもないの……ペギー・アンは、黙ろうと思えば何日だって口を噤んでいられるから」

「そういう妻がほしい男は多いだろう」

「だといいわ。わたしのように嫁き遅れては可哀相だから」

 この言葉遣いは失礼だろうか?

 フィリパはそう考えたが、すぐにそれは頭から消えた。ペギー・アンのことがむくむくとふくらんできたのだ。「どうして喧嘩が起こったのか知りたい時には、本当に困るの」

「喧嘩?」

「ええ……」

 子爵がなにかを期待するような顔でフィリパを見ている。フィリパは自然と、朝はやくに起こったことを話していた。




 フィリパは野いちごでいっぱいのかごを持って、あしばやに邸へ戻っていた。子爵が、野いちごでも蜂の巣でも、好きなだけ持っていっていいと云ってくれたのだ。どうしてだか、それも不思議に断れなかった。

 邸へ着くと、かごをキッチンへ置いて、フィリパは二階へ向かった。野いちごを摘んで赤くなった左手で、ペギー・アンとエレンの部屋のドアを叩く。

 部屋のなかにはエレンが居て、本を読んでいた。「ペギー・アンは?」

 エレンは頭を振る。

 フィリパはありがとうと云ってその場をはなれる。


 ペギー・アンは、物置になっている部屋に居た。彼女は高さのある、蓋と把手つきの木箱を、丁度ひっぱりだしたところだ。

「ペギー・アン」

「……姉さん」

 フィリパは、子爵の云っていたことがあたっていた、と思った。

「あなた、帽子の飾りがほしいの?」

 ペギー・アンは身をすくめた。




「エドガーが、姉さんがあれだけ苦労してるのに、帽子を飾るなんてとんでもないって云うの」

 ペギー・アンは自分のベッドに腰掛け、項垂れている。エレンには、書斎へ移動してもらった。フィリパはエレンのベッドを借りている。膝の上には、あの木箱があった。

「たしかに、エドガーの云うとおりだから」

「ペギー・アン、心配しなくていいのよ。帽子の飾りなんてほんの」

「でも、申し訳ないわ。だから、自分でつくろうと思ったの」

 ペギー・アンがひっぱりだしたのは、祖母がやっていた、レースあみの道具だ。彼女の代では、それが重要な収入源だったのだが、フィリパの小さな頃に機械編みのレースが多く出回るようになり、今では割高の手編みレースは売れなくなっていた。

 それでもフィリパは、女性の教養として、基本的なところは教わっている。だが、年の離れた妹達はほとんどなにも知らない。技術の継承は簡単に途絶えてしまう。

 ペギー・アンは体をまるめるようにして、ブランケットにくるまってしまった。フィリパは木箱を見る。「……ねえ、ペギー・アン、わたしがなにかつくりましょうか? ここにある材料をつかうのなら、これ以上お金はかからないでしょ? どんなものができてもかまわないのなら、わたしにだってなにかはつくれるわよ」




 シャトルはひとつ、うっすらかびっぽくなっていた。フィリパはそれを綺麗に拭いて、糸を結び、まきつける。コットンの糸は質のいいもので、さいわいにも傷んではいなかった。編み図を書き記した紙は、木箱の一番下の段にはいっていたが、残念なことに虫喰いだらけでぼろぼろだ。

 左手に糸を輪のようにかける。これでいい筈だ。お祖母さまはこうしてた。

 前の半目、後の半目。これでひと目。ダブルステッチ。芯糸が動くことを確認する。大丈夫そうだ。亡くなる直前の祖母にならったことだが、覚えている。

 三目あみ、ピコットをつくる。十目あみ、大きなピコットをつくる。二目あみ、直前のピコットとつないで、ひと目。大きめのピコット。二目あんでつなぎ、ひと目あんだらピコットをつくる。五目あんで、ピコット、また五目。糸を引いて、リングがひとつできた。

 次のリングだ。五目あんで、前のリングの最後のピコットとつなげる。また五目あんで、大きなピコットをつくり、二目あんでジョイントする。それから七目あんで、糸を引く。

 みっつ目のリングはそれを反転させる。四つ目は最初のリングを反転させたものだ。

 最初のリングの最初のピコットにつなぐ時、フィリパはちょっと手を停めた。竜頭をひねるみたいに……。

 ピコットが左に来るようにして、ねじってから糸を通し、ジョイントする。残りの三目をあんで、引き締める。

 蝶のモチーフができあがった。薄手の布に縫い付けてカットすれば、充分飾りとしてつかえるだろう。だが……ピコットがないほうが、ペギー・アンの雰囲気に合うかもしれない。

 フィリパはできあがった蝶の糸始末をし、次をあんだ。今度は、つなぐ以外のピコットをなくしたものだ。3◦21◦5、5J14、14◦5、21J3。これなら、ペギー・アンみたいに可愛らしいわ。染め粉があるから、あの子の好きな色にしてあげよう。




 綺麗な瑠璃色になった蝶のモチーフを、ペギー・アンは嬉しそうに、帽子のどの部分へ縫い付けるか、試しにあててみている。薄手の端布なら、去年エレンのガウンを新調した時のものが残っていた。

 フィリパは糸始末をする手を停め、レース針を置く。「こんなのもつくってみたの……編み図がなかったから、ちょっとゆがんでしまったけど」

「可愛い」

 ペギー・アンは嬉しそうに声をあげ、フィリパの手から花のモチーフをとった。リングをひとつつくり、ピコットを幾つもつくりながらチェインをつなげただけの簡単なものだが、ペギー・アンは大喜びだ。

 フィリパはちょっと安心して、溜め息を吐いた。




「やあ、お嬢さん」

「ごきげんよう」

 ペギー・アンは優しい子で、姉さんの帽子にもつけましょうよ、と蝶のモチーフをフィリパの帽子へとめつけてくれた。彼女はレースあみこそ会得できなかったが、縫いものは上手だ。モチーフを布に縫い付けるのもお手の物だった。

 子爵は今日も、従者もなしで、杖を持って歩きまわっていたらしい。変わり者の子爵さまだ。女のわたしよりも、帽子の飾りが少なくてみっともないと嘆く女の子の気持ちがわかるのだもの。

 フィリパは、ジャムを塗りつけたパンをいれたバスケットを持ち上げる。「この間のお礼です。野いちごでジャムをつくったの。いかがですかしら」

 彼はにっこりして、ふたりは一緒に、前と同じ場所へと歩いていった。ごく自然に腕を組んで。











 蝶のモチーフ


 A:3◦10◦2J1◦2J1◦5◦5

 B:5J5◦2J7

 C:7◦2J5◦5

 D:5J5◦1◦2J1◦2J10J3


 3◦21◦5

 5J14

 14◦5

 21J3


 花のモチーフ

 シャトルと糸玉の糸をつなげた状態ではじめる。


 中央のリング:1◦2◦2◦2◦2◦1 糸を渡し、ピコットに見せかける

 そのまま糸玉の糸を左手にかけてチェインをあむ。

 二段目のチェイン:2◦2◦2◦2◦2◦2 一段目のピコットとシャトルつなぎする。

 三段目のチェイン:4◦2◦2◦2◦2◦2◦2◦4 一段目のピコットとシャトルつなぎする。

 四段目のチェイン:4◦2◦2◦2◦2◦2◦2◦2◦2◦2◦4 一段目のピコットとシャトルつなぎする。




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