バッドエンドがなぜ推奨されないのかという話。
神無桂花はハッピーエンドが大好きである。ハッピーエンドにできる限り持って行きたい人である。
なんでか? 好きなキャラには幸せになって欲しい。自分が産み出したキャラなら猶更。
なんてまぁ、個人的な感情は置いておいて。なるべく、小説を書くつもりで、できる限り論理的に書いていこう。
そも、物語とは楽しむためのもの。娯楽である。不愉快な気分になりたくて本を開く人なんて少数派の筈だ。
先に明確化しておくと、僕はバッドエンドを否定しない。バッドエンドが好きという人もいるだろうし。具体的な作品名を上げられれば上げたいところだが、読み終わって、見終わってスゲーってなった、バッドエンドでも楽しめた作品はちゃんとある。
例えば、輪を英語にしたタイトルのホラー映画。長い髪を前に垂らしてテレビから出てくるホラー映画。
例えば、ジャパニーズホラーの金字塔的二作品がコラボしたホラー映画とか。
例えば、名門お嬢様女子高を舞台に、一人の生徒の死の真相を巡って、美少女女子高生たちの心の闇が暴かれていくミステリー小説とか。
例えば、七つの大罪になぞらえた殺し方をする猟奇殺人者との対決を描いたミステリー映画とか。
例えば、多重人格者のそれぞれの人格が嵐の夜のホテルを舞台に殺し合う映画とか。
例えば目に不思議な力を宿した少年少女が、繰り返す日々からの脱出を目指すマルチにメディア展開しているあれとか。
とりあえずこれくらいで良いか。
どれも最悪の後味を最高に楽しんだ。
バッドエンドとは扱いが難しい劇薬のようなもの。主人公たちが積み上げてきた、幸せへの道を、最後の最後に叩き壊すものだ。
そう、主人公たちの具体的な動機はどうあれ、大抵は現状の改善、発生した問題の解決を目指して物語の中で動いていくものだ。
つまり、バッドエンドとはある種の裏切りである。読者に、裏切ったけど物語はここで終わるから、受け入れろ、と。こういえば、バッドエンドが如何に難しいかわかってもらえるだろうか?
さて、僕の立場を改めて明確化すると。
バッドエンドは否定しない。しかしバッドエンドとは、扱いが難しいものである。物語を作る人は、バッドエンドを安易に選択するべきではない。である。
バッドエンドの難しさは見た人を納得させられるかどうかである。というかこれに尽きる。
例えばホラー映画は超常的な存在の恐ろしさを楽しむもので、どうにかこうにか逃れる、封印する、祓うための努力をしても勝てず、主人公たちが悲惨な死に方をしても、「いや、こわかった」で済むのだ。
例えば恐ろしい殺人鬼との対決を描いた映画で、勝ったと思わせておいて最後にいやいや終わってませんよ油断しましたねはいさよなら~と絶望に叩き落とされたり、勝ちはしたが最後の最後に恐ろしい、最悪の事実が明らかになって絶望に叩き落とされたり。
まぁとにかく、バッドエンドとはそこまでの主人公たちの頑張りを否定しながらも、その終わり方に説得力をもたせる論理的な積み重ねが必要になるのだ。
具体例を挙げたいところだが、バッドエンドの映画は具体的な解説をしてしまうと、いざその作品を観る時楽しさの九割が消し飛ぶのでやめておきます。
では、どうしたら納得するのか。
一つは、恐ろしい存在の恐ろしさを説得力を持って伝えること。
どれくらい悲惨な殺し方をその殺人鬼はしてきたのか。その殺人鬼はどれくらい狡猾で、警察や探偵が何回欺かれてきたのか。
その霊が如何に悲惨な過程を経て生まれ、どれ程の被害を生み、祓うために訪れた霊能者がどれくらいあっさりと返り討ちにあったのか。その霊は呪う対象にどれ程の執着を見せるのか。
もう一つ、主人公たちの努力がどれくらい、どのように、どうして足りなかったのか。
最後、それがじわじわと紐解かれるも良し。
主人公たちが最後の瞬間、フラッシュバック的に思い至るもよし。
暗に示すでも明確化するでもよし。とにかく、『どうして?』が大事である。
とにかくダメなのは。急に、唐突に、何の前触れもなく、ばっどえーんど! することである。
物語とは論理的である。積み重ねが結果、結末に繋がるのだ。
言ってしまえば。主人公たちが幸せのために積み重ねてきたように。悪役もまた、目的のために積み重ねてきたのだ。バッドエンドとは、悪役が積み重ねてきたものが、主人公たちの積み重ねてきたものを叩き壊すのだ。
主人公たちの紡ぐ物語の裏で、悪役もちゃんと頑張ったのよ。
そこを履き違えたのが、納得のいかないバッドエンドとなる。
短いけどここまで。
ヒロインとか主人公が病死するやつは? という声が聞こえる。
僕はあれをバッドエンドとは思っていないよ。あれは、命の輝きを描いた作品だよ。やることやって、未練なく笑顔で死ねたなら病死でもハッピーエンドでしょ。